Ⅰ 泡沫




 乳白色を後景にして、…いや、どちらかと言うと後方から強い光が差しているという表現が正しいのか、兎にも角にも、一人の少年がおおよそ数歩の距離を置いて立っていた。
 躰の輪郭は背の白に侵食されて、酷く曖昧。着ている服はどこにでもありそうな夏用の学生服で、目を凝らせば辛うじて髪色が金かはしばみであると分かる程度の色彩が認められた。ただそれだけで、依然、素性を知る上で決め手となりそうな容貌は判然としない。
 ならばどこの誰か、など、知りようもないだろうに。
 ―――自分は彼を知っている。
 …何故だろう、そう強く思って、あろうことか懐かしささえ感じた。見えない顔、分からない正体にも関わらず、抱く懐古の念は滾滾こんこんと湧き出る泉のよう。あっという間に爪の先まで及んだそれは、胸を押し潰すだけでは飽き足らず、喉を圧迫して苦しい。
 そんなこちらの事情など知らぬ素振りで、微かに見える少年の口唇がひそりと割れたかと思うと、そこから感情を押さえつけたような硬質な声が零された。

『――…距離を置こう、はなみや』

 はなみや―――花宮。あぁ、自分の苗字は、そう言ったのだっけ。
 少年の言う内容より、そちらの方が気になった。どこか巡りの悪い頭で己の姓を変換し、忘れていたことに些かの驚きも見いだせないまま、やけに納得だけが先立つ。
 そうだ、自分は花宮と言う。ならば彼の名前、己を呼ぶ彼は、なんと言うのだったか。
 心では、そう思うのに。

『ッ、なんで…!』

 口から出たのは、悲痛と言って差し支えない声だった。ただす言葉は会話の流れを熟知して熱く、対し、置いていかれた心は冷めていた。ただ自分は彼の名を知りたいのだ。頑是ない幼子のような意固地さで思い、それを言葉に形作ろうとする途中で。

『俺のために手を汚すお前を、これ以上見たくない』

 彼は、そんなことを言う。
 ―――手を、汚す?
 瞬間、不可思議な感覚が胸に広がった。言うなれば、泥。先ほどの清涼な泉の如く湧いた懐古とは如何ばかりも異なる、黒いおり。悪意を煮詰めてドロドロに溶かしたものが入っていた鍋を、堪らず心にぶち撒けたかのような。
 ―――自分が、が、誰かのために?
 不愉快だった。それが本当なら、馬鹿なと唾棄すべき事態だと思った。
 俺は誰にも媚びないし、おもねらない。誰かのために、などという理由は、俺の中で最低最悪に位置づけられた行動原理だった。
 ―――否定しなければ。
 その思いで口を開く―――開いた、はずだった。

『俺はっ』

 巫山戯ふざけるな、と紡がれるはずだった声は喉奥で詰まり、代わりの言葉がするりと舌先を駆け抜けた。また口が勝手に言葉を、想いを吐き出したのだと苦く気付く。面倒な、と、あべこべな現状に不満を抱くと同時に、今更ながら疑問を感じた。
 この状況は一体何だ。何故、思い通りに喋れない。
 もどかしさは、そんなわけはないと続くはずだった言葉の先を脳裏で知ったことで、焦燥と驚愕に変化した。
 ―――俺は、お前のためならなんだってするのに…!
 …馬鹿な。喉が戦慄き、容易く心を揺さぶった。これ﹅﹅は本当に俺なのか? 意識が俺であるだけで、実体は違うのではないか。
 混乱する頭で考える。でなければ現状の説明がつくまい。あまりにも本性いしきと実情が乖離しすぎて、
 そうだろう。そうではないか――…と、心では強く強く思うのに。

『花宮』

 彼は、俺をそう呼ぶ。どうにか光の中で垣間見える口端を持ち上げて、さっきまでの硬い声を柔らかにし、友愛さえ器用に滲ませた声音で、「花宮おれ」を呼ぶ。

『――…っ』

 今度こそ、…否、初めて、心身が共鳴した。意識と実体、どちらとものが、彼の表情、そして声に、心と躰を震わせた。
 その感覚は躰に馴染み、心も難なく受け入れていた。耳朶に触れる朗らかな声を、無意識に向けられる優渥ゆうあくを、無条件に受け止めた。
 ―――…俺は彼を知っている。
 …あぁ、そうだ。やはり、そう﹅﹅なのだ。知らなくても、覚えていなくとも、彼は俺の知る彼で、ならばなのだろう。
 最早、その考えに異論を挟む余地はなかった。意味や、理屈が分からなくても。
 ―――俺は、彼を知っている。

『俺は大丈夫だ』

 その声をあの表情を、俺は、誰よりも知っている。

『だから、お前も…――』

 誰よりも、あいつが―――と、知っていたのに――…。





 目を開ける。手を翳す。窓から差し込む朝陽が眩しい。瞼を閉じる。―――懐かしい、夢を見た。

「……チッ」

 嫌なことを、思い出した。





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