Ⅱ 中学一年、花残月しがつ




 花宮真は中学受験などというものを最初はなから考えていなかったから、自動的に近くの中学校に入学することになった。
 そこでは、それまでもそうだったが、入学式から所謂一匹狼でいることを躊躇わなかったし、今後も卒業するまで、そしてした後も、自分はそんな風に独りで生きていくのだろうと、机に頬杖をつきながら、他人事のように思っていた。
 ―――他人と手を取り合って仲良しこよし、なんざ、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
 それが花宮のれない持論であった。故に、緊張を滲ませながらも果敢に話しかけてきた新たな級友の全員が、その日花宮に袖にされたとして、それは確かに相手側にとっては不幸だったが、花宮にしてみれば通常運転にすぎなかった。
 同じクラスに振り分けられていた何人かの小学校の同級生は、慣れたものだと花宮の存在を感知しながら喋りかけもしない。剰え、あいつはやめておけと周りに助言する始末だった。
 それは悪意ではなく、寧ろ善意に程近い。彼等もまた嘗て傷つき、そして学習しながら、六年間のうちの何年かを、傍若無人な花宮と共に過ごした猛者達だった。
 その情報は直ぐに広まり、三十分もすれば花宮に話しかける者はなくなった。周囲が静かになったことで、今日は入学式だから遅れるなと母親に朝六時に叩き起こされ、無意味に騒がれて精神力と体力を削がれていた花宮は、急に眠気を覚えてうつらうつらとし始めた。
 船を漕ぐ。瞼が重い。春の陽気が恨めしい。―――つーか全部あのババアの所為だ。
 いくら諸悪の根源である母親を貶して意識を保とうとしたところで、眠いものは眠かった。まだ周りが動く気配はないが、これで眠り込んで式に出なかったら余計煩いに違いない。家を出る前も、家に帰っても騒がしいとか、俺に安息の地はないのか。あぁ、クソ。でも、眠い――…。

「なぁ」

 だから、それはまさに足下から鳥が立ったような出来事だった。

「…ッ」

 真後ろの席から声がしたかと思うと、背中を何か細いもので突っつかれたのだ。
 眠気が薄れた感謝はあったが、それよりも、いきなりなんだ、という思いの方が強かった。反射的に、あ?、と威嚇交じりの声とともに振り返れば、榛の髪に、きょとんとした邪気あどけない顔が続けて見えた。更に視野を広げると、その手にはシャーペン。どうやらそのノックボタンで突かれたらしい、と理解した時、彼と花宮の眼がぱちりと合った。
 途端、花宮は眠気をどこか遠い所へ置いてきたことを悟った。きっともう、見つけられないだろうことを知った。理由は分からない。恐らく探したって見つからないだろうと、確信だけが嫌にある。その感覚を中学一年生の語彙力で補うなら、衝撃、と言うのだろうか。
 彼はそれを知らないまま、コーヒーブラウンと琥珀の合間を行き来する双眸を細めて無垢に笑い。

「俺、降旗光樹ってぇの。お前、名前は?」

 穏やかに、問う。一対多数の、つまり入学して最初のホームルームや授業での自己紹介が精々の花宮にしてみれば、一対一の自己紹介など予想外。柄にもなく内心で狼狽えながら、それでもなんとか声に出す。不思議と、応えない、という選択肢はなかった。

「…花宮、真…」

 少々ぎこちない声音ではあったが、それでもみっともなく声が震えなかったこと、そして彼が不審に思った様子のないことに、花宮は心底安堵した。そんな花宮の浮き足立った心情に気付いた風もなく。

「花宮っつーのか。よろしくな」

 小春日和の温かさで、彼―――降旗は、花宮にふわりと微笑みかけた。
 それが花宮と降旗の、普通と言えば普通の、けれど花宮にしてみれば衝撃的な出会いの一幕だった。





 友達、というものを、花宮は知らずに生きてきた。
 偏に孤独が好きなのだと言い切る性格でもないが、言葉にすればその近似値か、もしくは相似の表現をせざるを得ないだろう。とは言っても、他人との繋がりが面倒とか煩わしいとか、そう言ったことではないのだ。受け入れられない。言葉の差異を他人がどう評価するかは別として、己の心情としてはその言い回しが適当であると、花宮自身は考えている。
 幼稚園で既に一人だった花宮は、何度先生に諭されようが、両親に心配されようが、構わず一人で休み時間を過ごし、家に帰ってからまた遊びに出かける、などという習慣から無縁に過ごした。遠足の弁当はぽつんと一人で食べている花宮を見かねた教員と一緒に食べたし、何故かよく書かされる「ぼく・わたしのともだち」という欄は、花宮の場合、空白なのがデフォルトだった。
 小学校でもそうだった。その頃になると男子より早く色恋沙汰に目覚める女子は、花宮の見目の良さとストイックさ(欲目)に色めき立ち、恋人が無理でもせめて友達に!、と、勇敢と無謀の違いを知らずアタックしたが、結局全員が全員、撃沈した。
 花宮はずっと変わらなかった。一人でいることを寂しいとは思わなかったし、そのことでどうして他人から奇異の目で見られるのか理解できなかった。理解しようとも、まして改善しようともしなかった。
 そんな花宮が。

「花宮ー、次体育だから、もう行こうぜ」
「おー」

 誰かに話しかけられて返事をし、且つ肩を並べ連れ立って教室から移動するなど、まだ短い人生の中、それでも決して短期間とは言えない中で、初めてのことだった。
 その事態に花宮の小学生時代を知る生徒は率直に驚きを露わにし、彼等から話を聞いていた周囲の同級生はあの話は嘘だったのだろうかと首を傾いだ。入学式の日は人見知りで素気なく応対していただけで、実際はそれほど付き合いにくい相手ではないのでは、と。
 それはまったくの誤解だった。何日経っても花宮は初日同様、話しかけてきた級友を尽く冷たくあしらったし、挨拶に反応を示すことも少なかった。必要最低限の会話しかしない花宮は、やはり交友を温める相手としては十二分に不十分だった。
 降旗だけが、例外だった。

「今日の体育、サッカーだってさ」

 運動場までの道のりで、降旗が唐突に誰かから聞いたことを言う。意識を他所に向けていた花宮がその声に隣の降旗を見下ろすと、丁度皐月の風が短い榛の髪を揺らして通り過ぎたところだった。

「…へぇ、サッカーか」

 風の行き先を辿るように、できるだけ自然を装って、花宮は視線を降旗から引き剥がす。そうでなければ、初夏の陽光に柔らかく煌めく降旗の髪に手を伸ばしかねない自分を、花宮は薄々勘付いていた。

「まぁ、入学して日も浅いし、団体競技でクラス内の絆を深めましょーってところだろ」

 花宮の思惑なぞ知る由もない降旗は暢気にそう考察し、花宮はそれになるほどと相槌を打ちつつ、なら、と言葉を接つぐ。

「だったら、バスケの方がいいな」
「あ、花宮、男バスに入ったんだっけ?」
「そ」
「そっかぁ。バスケも楽しそーだな」

 言ってニカッと笑う降旗を横目に見て、つられて花宮も無を貫いていた表情を和らげた。まったく、と、ほろほろ口元を緩ませて、つくづくこいつは不思議な奴だと思った。
 明るく闊達な性格で裏表がなく、知れば知るほど好感度が高まっていく人柄に、人懐っこい笑顔、そして打てば響くノリのいい会話。そのくせ人との距離のとり方が抜群にうまく、ベタベタして煩わしいとは微塵も感じさせない天性の素質。
 人付き合いというものを嫌悪の観点で見ていた花宮でさえ好ましく思ったのだから、当然、降旗は周囲の人間からも好かれた。また頼られれば応えてやる兄貴分のような面もあったので、女子ばかりでなく男子からも人気があった。満場一致で学級委員に選ばれたのも頷ける。つるむ相手を乗り換えようと思えば、引く手数多だったに違いない。
 それでも降旗は花宮の隣にいた。そうするのが当たり前のように、呼吸するような気軽さで。
 それは花宮にとっては内心誇らしかったし、嬉しかった。だがそれと同じくらい、寧ろそれ以上に、花宮は降旗が自分の隣にいる実情に疑問を抱かざるを得なかった。
 何故、彼は自分なんかを選んだのだろう。
 性格は正反対に近く、決して友好的ではない花宮。そもそもよく声をかけたものだ。降旗だって、あの噂を聞いただろうに。
 その思いから、一度降旗に問うたことがあった。何故、と、遠回しに聞くスキルも情緒もない花宮は、酷く直截的に、直線的に。問われた降旗は数瞬きょとりとした後、あぁ、と一つ頷いて。

『俺さ、入学式の日、予定より遅れて教室に入ったんだよ。そしたらもう皆、隣の席の奴や知ってる奴等と喋ってて、やべぇ、出遅れた!、って焦ったんだけど、前の席の奴、つまり花宮が一人でいたから、丁度いいやって思って声かけたんだ。…ま、後から知ったけどな。お前が小学校じゃ、一匹狼だったんだって』

 そこで一息ついた降旗は、ふわり、と瞼を半ばまで閉じたかと思うと。

『もったいない、って、思ったよ』

 小さく片笑んで、そう言った。もったいない、と困惑と懐疑とを混ぜた音調で口の中で繰り返した花宮に、降旗は優しい眼差しを向けて、また。

『だって花宮、喋ったら面白いし、楽しいし、一緒にいて飽きねぇって言うか、なんつーか、…うん…』
『…なんだよ』
『――…好きだなぁって、思うよ』

 笑うなよ、と釘を差した後に、溜めて溜めて、ようやっと吐き出されたのは、そんな柔らかな言葉と声だった。
 さわり、と、翠の風が花宮の紫黒の髪と戯れる。通りすぎて、降旗の榛に届く。見て、見届けてやっと、花宮は自身が呆然としているのに気が付いた。気が付いて、ゆるりと緩みかけた唇を、固定された視線を、やっとの思いで結んで逸らす。
 やましいところなど一つもなく、揶揄することも躊躇われるような、小さな子どもが好きなものを好きと言う、真白の純粋さを耳にしたような気がした。仄かに赤くなった両頬さえ、照れを隠そうとする微笑も、心がむず痒いほど好ましかった。
 あぁ、好きだ、と、そう思った。
 友情なんて知らなかった。友達なんて要らなかった。好きと言われるのは慣れていたけど、そこに意味も価値も見いだせなかった。花宮の中で、それらはただ音が連なった単語ものでしかなかった。
 それが、友情が、友達が、好きが、その日を境に、花宮の中で意味と価値とを持つようになった。
 ―――でも、きっと。

「どうしたんだよ。急に笑ったりして」
「…いや。ほら、集合かかってんぞ」

 誤魔化すように言って、怪訝な顔をしていた降旗を送り出した花宮は、素直に頷いて離れていった後ろ姿を見ながら、途切れた先の思考に思いを馳せる。
 …そう、きっと、あの時が初めてではないのだ。初対面の時、既に花宮は降旗から目が離せなくなっていた。同性相手に使うには中々に勇気がいるが、「惹かれた」という表現が正しいのだろう。琥珀に煌めく虹彩に、愛嬌のある笑顔に、あの心地いい声に、花宮の心は囚われた。
 運命論者ではないが、全てはそこから始まっていた気さえする。…毒されたものだ。いや、感化されたと言った方がいいのか。
 口端に仄かな笑みを刻み、花宮は目を細めてまた自分の横に戻ってきた降旗を窺い見た。一人一球渡されたボールで器用に危なげなくリフティングを繰り返している。揺れ動く前髪から覗く真剣な表情。普段は終始穏やかな顔が鳴りを潜め、柔らかな双眸はきっさきの如く鋭い。
 遠目からでは判然としないそれを、隣の距離を許された花宮は知っている。そう思う度、胸に湧くのは純然たる優越感だった。首筋がぞわりとする。―――他の誰も知らない降旗の表情を、自分、だけが。
 ぞくりとするほどの優位性。だがそれを理解し認めた上で、それでも花宮が一等好きなのは、降旗の笑顔だった。
 出合い頭に向けられた表情がそれだった所為か、春の陽溜まりの笑顔は花宮の心に優しい爪痕を残した。降旗と言えば笑い顔。そんな、風に。
 言うことはない。伝わることはないだろう。けれど笑っていて欲しいと、願いに似た不確かさで花宮はそっと思っていた。明るく無垢に。できるなら、ずっと。…それを、思うだけにしておけばよかったのだ。そう悔やむ未来を知らない花宮は。

「なぁ、お前運動神経いいんだからさ、一緒にバスケ部入ろうぜ」

 無邪気に、言ってのけた。さらりと、話の続きを舌先に乗せただけのように。だが。

「……っ」

 途端、鋭く息を呑んだ音が聞こえて。

「…降旗?」

 そしてそれまで軽快に空を跳ねていたボールが着地点を見失って、脆くくずおれた。酷く重たそうに身をたわませて、降旗から、花宮からも遠ざかる。見送って、どうかしたのかと降旗に視線を移した、その時。

「―――」

 花宮は恐怖した。粟立つ肌。刹那に背筋の震えは四肢に伝播し、寒気は呼気に波及した。指先が凍る。息が凍える。そして、…あぁ、何故―――思い出してしまったのだろう。

『俺、降旗光樹ってぇの。お前、名前は?』

 あの時、あの出会いで、花宮は確かに感じたのだ。春の山が笑った、その息吹を。その温かさを。なのに。

「……俺は、いいや」

 掠れた拒絶、陰る表情かお。虚ろな眼が、横顔からでも見えて。

『花宮っつーのか。よろしくな』

 その顔が―――あの時の顔と、被った。
 …何故だろう。
 ―――手を伸ばさねば。掴んで、おかなければ。
 何故だろう。
 ―――そうしないと、雪のように、消えてしまいそうで…。
 何故、忘れていたんだろう。
 花宮は恐れていたのに。あの時からずっと、何か﹅﹅を。





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