泡になる夜

[side:黒(近くて遠い者)]



 タタ、と、少し足を引き摺るようにしながらも、薄暗がりの廊下を走る音が響く。それは常に体力がないことを揶揄される少年――黒子にしてみれば、奇跡に等しいことだった。
 普段ならば練習後に走るなど狂気の沙汰。まず躰を起こすことも誰かに手伝ってもらわなければならない。しかも今日がバスケ部の合宿第一日目ともなれば、躰がそこそこ慣れてくる二日目や三日目よりも躰への負担は大きく感じられる。間違いなく、黒子はいつも通り倒れるはずだった。
 それが、今日は。

『おぉ、テツが一人で立ったぞ』
『黒子っちが立った!』
『……クララみたいに、言わないでくれますか…』

 とは言っても、疲れてはいたのだ。それも強烈に。ただ気力を振り絞って立ち上がっただけで。そしてこれから遠くの部屋まで行かねばならない。しかも時間を考えれば、走らなければならないことは分かっていた。
 だから余計な突っ込みを入れさせるなと、ゆらりと立ち上がった黒子は驚嘆の声を上げた青峰と黄瀬に冷たい一瞥をくれて走りだした。後ろで青峰や黄瀬が青ざめていたことなど、知る由もない。

  ガラッ

 目的地である部屋の扉を開ければ、ふわりとしたいい匂いとツンとした刺激が鼻を擽り、薄っすら空腹を覚えていた腹がしくりと疼く。けれど今はそんなことよりも――…。

「赤司君、料理の方は…」
「ん、黒子か。料理は順調に……どうした? 固まって」

 くるり、と黒子の声に振り返った人は、帝光中学バスケ部主将、赤司征十郎その人だ。それは間違いないし、それに驚くべき要素は何もない。例えエプロンだの頭巾だの、普段の彼を思えば想像できない姿をしていたとしても、料理をしているならばそれは仕方ないし、何れにせよ彼はどうしようもなく彼だ。
 だがぱちくりとさせる彼の双眸を遮るものの存在に、黒子は思いがけず固まってしまった。

「…あの、えっと…料理するためにエプロンや頭巾をするのはまぁ分かるのですが、何故、眼鏡をしてるんですか?」

 そう、赤司は眼鏡をしていた。彼が眼鏡を掛けているところなぞ、これまでに見たことがない。

「ハッ、まさか緑間君から奪ったんじゃ…!」
「黒子、落ち着け。緑間はお前達と一緒に練習していたはずだろう。眼鏡なくして緑間が3Pを決めてたのか?」
「あ、いえ。そう言えばちゃんとかけてました」
「だろ? これは俺の私物だ。そして、さっきのお前の問いに答えるなら、料理をするために必要だったから、だな」
「料理に必要?」

 首を傾ぐ黒子に、赤司は仕方ないなと物分りの悪い生徒に教える教師のような表情で言葉を繋ぐ。その時の表情がよく青峰や黄瀬に向ける顔であることに気づいて黒子が些かのショックを受けたことは、如何に賢い赤司でも気付くことはなかった。

「今日のメニューはなんだ?」
「カレーです」
「正解。ではカレーに普通入っている具材は?」
「肉、じゃがいも、にんじん、玉ねぎです」
「それも正解。さて、その中で調理の時に眼鏡などをして目を保護しなくてはならない具材はなんでしょう」
「…玉ねぎ対策、ですか」
「その通り。態々このために買ったんだ。誰かに貸してもらったものを身に着けるのも嫌だし、だからと言って玉ねぎごときで醜態をさらしたくもないし」

 それに、と赤司はにこりと笑んで。

「黒子の熱烈なお願いを、無碍にしたくもなかったしな」

 マネージャーに任せればいいものを、何故赤司が料理をしているのか。それは合宿についてバスケ部の部室で説明会を行った後、黒子にこそりと呼び出されて頭を下げられたからだ。

『赤司君が作ったカレーが食べたいです』

 何故態々俺が、とも思ったし、それは日常ではなく合宿でなければならないのか、とも思ったけれど、確かに普段頼まれて赤司が誰かのために料理をすることなど有り得ない。まず家に呼ばないし、行かない。それは不文律と言っても許される程の確かさで。
 だからふと気紛れに黒子の願いを叶えてやろうと思い了承したのだ。これが自分達の最後の合宿であるということも、その気紛れを後押しした。

「あと玉ねぎは息を吸い込んだ時にもどうやら涙腺にくるらしいから、鼻よりも口で息をする方がいいし、換気扇を回していた方が確実だ。これで俺は玉ねぎに勝利した」
「はぁ、そうですか」

 こんなところでも勝負か、と黒子は些か呆れ、しかしにこにこと笑う赤司にそれを指摘するのは躊躇われた。それは子どもの夢を壊す悪行に等しい気がした。

「で? 黒子」

 しかしその笑顔が不意に黒さを増し、ガラリと雰囲気が変わる。一ミリたりとも表情筋は動いていないのに歴然としたこの差はなんだろう。黒子が思わず一歩後退る。その一歩分を赤司が即座に詰めて、慄く黒子に問う。

「どういった理由で、俺にこんなことを?」

 気づいていた。ただ作らせたいがために頭を下げたわけではないことくらい、赤司はちゃんと知っていた。というか最近あからさまに怪しい奴が何人かいた。それに黒子が加担していただろうことは、今、無表情の中にこの流れに対する不満を漂わせた顔が物語っている。
 あいつらもこんな顔をしていたな、と赤司は勝者の笑みを浮かべたまま思って、逃げ切れないで固まっている黒子を見下ろす。少しの間視線の応酬で拮抗していた関係も、そう長く続くはずがない。予想通り、しばらくして黒子が白旗を上げた。

「…賭けを、してたんです」
「賭け?」
「先日青峰君達と喋っていたら、赤司君の話になったんです。そこで君が泣いた所を見たことがないと言う話になったので、じゃあ泣かせてみようと」
「…秀吉的発想だな」
「緑間君や紫原君は思った通り乗って来なかったんですが、青峰君と黄瀬君がやたら乗り気で、そこに僕も巻き込まれて…」
「そして俺を泣かせようと、ね」

 こういうことを聞く度、不思議だ、と赤司は思う。青峰や黄瀬は赤司の恐怖政治とあだ名される所以の、制裁という追加練習をしばしば申し渡される顔ぶれだ。当然そこに個人的な恨みはないし、他の三人を贔屓しているわけでもない。ただ二人が特にお痛がすぎるというだけのことだ。
 その常を思えばそろそろ赤司の意に添わないことが何であるかを察し、自制することを覚えればいいのにと思うのだ。真相を知った今、後でその制裁を下すか、と赤司はふと考える一方で。

「あいつらの行動は、そういうことだったのか…」
「あ、二人とも何したんですか。失敗したからって、何も教えてくれなかったんです」
「あぁ、青峰は俺をお化け屋敷に連れて行ったし、黄瀬とは映画を観に行った。悲恋ものだったな」
「……それは…デート、ですね」
「傍から見れば、な。それでもお化け屋敷はまだ我慢できたんだが、男二人でラブストーリーを並んで見るのにはさすがに気力と体力を要したよ」

 それでも行ってあげたんですね、と黒子はそっと思った。鬼と言うより悪魔、悪魔と言うより大魔王、大魔王と言うよりラスボス、というのが、赤司を除いたキセキメンバーの赤司に対するイメージだ。哀しいかな、誰も訂正できないほどどんぴしゃりであったが、しかしそれは彼の一面であって、彼の全てが悪だという意味では決してない。
 赤司は優しい。情け深いと言うべきなのかもしれない。一度懐に入れてしまえば、それはもう彼の中では守るべき者だ。それを赤司は決して認めようとはしないけれど。

「まぁ、結局俺ではなく泣いたのはあいつらだったが」
「……へ?」
「なに、あぁいうのは自分の経験を元に計画を立てる傾向が多い。自分が泣くのだから相手も泣くのではないか、という仮説に基づいての行動だ。だからあいつら、自分が泣くほど苦手で免疫がないくせに俺を誘って自滅した、という訳だ」
「あぁ…僕も自分が泣くとしたらと考えて、一度切ったことのある玉ねぎを思い浮かべました。涙がぽろぽろ零れて困りましたから」
「だろうな。見ものだったぞ、あいつらの泣き顔は」

 あぁ、とても生き生きとした、眩しいほどの笑顔だ。赤司の顔を見て黒子は内心ぽつりと零す。まったくこれだからラスボスだのと言われるのだが、赤司はそれを楽しんでいる節がある。嫌がってくれたのならまだ可愛くもあるし、からかい甲斐もあるのに。

「なんだ、黒子。その不満気な顔は」
「なんでもありません、赤司君の手作りカレーが楽しみだなって」
「あぁそうだ、まだサラダ用の玉ねぎを切っていないんだが、手伝ってくれるか?」
「え」
「はは、遠慮するな。まさか来てくれるとは思わなかったが、どうしてか偶々手付かずだったんだ」
「いや、あの、赤司く」
「手伝っていくよな?」
「……はい」

 他に、どう言えと。





「目が、目が…」
「いつからお前はムスカになったんだ?」
「ついさっきからです…あぁ、涙が…」
「残念だったな、黒子、眼鏡がなくて。あ、緑間から奪ってこようか?」
「いえ…可哀想なのでやめてあげてください…」

 そう、と頷いた赤司はただ笑顔で、残念がっているのか断られるのが分かっていたのかは判別がつかなかった。だがここで黒子がノリの良さを見せて、じゃあお願いします、と言えば、赤司は間違いなく緑間を襲撃して眼鏡を奪ってくるだろう。青峰や黄瀬ならともかく、端からこの思いつきに参加していない緑間を巻き込むのは些か気が引けた。

「しかし、いったい赤司君はどんな時だったら泣くんでしょう…」

 溜息混じりに、すんと鼻を鳴らして黒子はぽつりと呟いた。耳ざとく聞き付けた赤司はまだそんなことを言っているのかと苦笑して、ふわりと一度目を閉じた。

「…別に、耐えているわけじゃない。生理的に涙することもあるだろうし、感極まれば泣くこともあるだろう」

 俺も一応人間だからな、と、赤司はラスボスと影で囁くキセキの世代への意趣返しかそう強調して。

「ただ滅多にそうならないと言うだけだ」

 確かに玉ねぎで泣くのは嫌だったから眼鏡を掛けたけれど、赤司は涙を流す自分を嫌っているわけではないし、恥だと思っているわけでもない。むしろそんなことに頓着していないと言った方がいい。そう言えば最後に泣いたのはいつだっただろう。…もう覚えてもいない。

「…じゃあ僕等が死ぬ時には、泣いてくれますか?」

 沈思していた赤司の耳に、そんな声が飛び込んだ。その方向に顔を向ければ目尻を赤くした黒子が真っ直ぐ赤司を見ていた。例え話をするにしてはあまりにも真摯で、そして澄み切った瞳。凪いだ水面を思わせるそれは、見ている者の心を穏やかにも不安にもさせる。
 赤司はざわりと心が波打ったのを知りながら、笑った。笑って、みせた。

「……泣かない、だろうな」

 黒子はその答えを聞いた瞬間、そっと俯き消沈したように表情を翳らせて、それでも口端を上げて笑みを作った。

「そこは嘘でも、号泣してやる、くらい言ってくださいよ」

 寂しげな顔に相反してひどく平坦に零された言葉に、赤司はちらりと笑みを苦笑に変える。その顔で、黒子の髪をくしゃりと撫でた。

「俺は約束できないことは言わない。知ってるだろ? それに、こんな泣くか泣かないかという瑣細な話題に、お前達の死を持ち出すな」
「…はい」

 咎める響きに素直に黒子が頷けば、だがそうだな、と赤司は続けた。穏やかに穏やかに、それはひっそりと零されて。

「さっきの言葉、その時にならないと分からない、に訂正しよう」
「…今更遅いですよ」

 繕うような言葉に黒子は思わず拗ねたような声を出した。それに赤司はふふと笑みを零して黒子の髪に触れたままだった手を退ける。離れていく。温もりを感じるほどの接触でもなかったのに、それはいやに寂しく感じられた。
 だが率直にそれを伝えられるほど、黒子ももう幼くない。照れもあって押し込めた言葉を知らないまま、赤司は続けて言葉を紡ぐ。

「とは言え、お前達に負けたくはないんだがな」

 なんですか、それ。泣くのも勝負のうちなんですか、と黒子は思って、けれど。

「でもお前達になら…いいか」

 その声が、言葉が、そう言った赤司が、あまりにも、不思議なほど、穏やかで。だから―――だから。

「そうだ。天気予報によると、今夜は雲もなく綺麗に星が見えるらしい」

 みんなで見に行こうか。

 黒子はそれに何も返せなかった。頷くのが精一杯で、それが自分ができる最良のことで。だから。
 言えるはずがなかった。

『でもお前達になら…いいか』

 例え自分達にさえ、負ける貴方は見たくないのだと。





 ―――…そんな日が、あった。
 橙が青に、青が黒へと徐々に移り変わっていく空の下で、唐突に黒子は思い出していた。その記憶はあまりにも鮮明で、何もかも、たった今経験したかのように色鮮やかだった。
 赤司が作ったカレーは彼の性格を表すように完璧で、その夜の星空さえ写真を脳に直接スキャンしたように雲の形まで覚えている。
 覚えている。忘れられるはずもない。鮮烈なあの三年間を、どうしたって。なのに――…。

『…中学に上がる頃には、分かっていたそうなのだよ』

 悄然とした様子で集まった四人を前に、緑間はそう切り出した。

『治療すれば延命できる。だがその場合、あいつは俺達と離れ、投薬治療の後遺症のためにずっと病院生活を強いられる…しかもできることは”延命”だけだ。それを聞いてあいつははっきり「嫌だ」と言ったらしい』

 彼らしい。頭の芯が痺れて何も考えられないのに、それは素直に零された。ついでに強張った表情が笑顔を作ろうとする。だがそれも。

『そうしてあいつは…、赤司は、死んだ』

 その言葉に、阻まれる。

 ―――赤司が死んだ。

 メールで送られてきた文言だ。それだけの、取り急ぎと言った体で緑間から送られてきたのは、部活が終わって着替えていた頃だった。思えば緑間もその頃に丁度知らせを受け取ったか、部活で放置していた携帯にようやく触れたのだろう。
 携帯の画面越しに、黒子は全員の様子を知ることができた。恐らく自分と同じ、誰かがそんな馬鹿なと緑間に返信してくれることを期待していた。
 なのに携帯は死んだように動かない。もう、ぴくりとも。
 ぽた…
 涙が、画面に落ちる。滲む。歪む。見る全てが、有耶無耶になっていく。わけが分からない。誰か誰か、教えてくれと叫びたい。
 そう思いながら、黒子は部室で静かに泣いた。声も上げず、ぽたぽたともう電源が落ちた画面を落ちる涙で濡らしながら。ただ、ただ。

『…赤司は、三年間を俺達にくれた』

 青峰は手を握って俯いていた。黄瀬は肩を揺らして泣いていた。紫原は大きな躰を縮こまらせていた。黒子はそれを見ていた。静かに、静かに。本物の影になってしまったかのように、なってしまいたいかのように、静か、に。
 葬儀は終わった。もう既に場面は食事に移っている。黒子は参加する気になれず、けれど帰ることもできないまま、赤司の部屋に一人いた。
 彼らしい、整頓された部屋。機能美と言うよりは殺風景だ。色がない。だがその中で一つだけ、鮮やかな色彩を持つものが一つ。たった一枚、試合後にキセキの世代で撮った写真がそれだった。木製の額縁に入れられて、しとやかに机上に置かれていた。
 そっと撫でる。最後まで写真に向かって笑わない人だと、赤司の顔をなぞりながら。

「これが、赤司君が言う「勝ち」ですか」

 お前達なら負けてもいい。その言葉の真意は、今日のことを思ってか。泣くことじゃない、生きている方が、勝ちだと。

「…こんな勝ち方は嫌です。こんなのは、勝ち負けじゃありません」

 何が勝ちか。誰の負けか。静かだった心が波立つ。罵倒したい。詰って、いっそ殴ってやりたい。―――けど。

「あかし、くん…」

 もう届かない。振り下ろす手も、この声も、彼に教わって己の武器にまでなったパスも、もう。

「…赤司君…、赤司君…ッ、―――赤司君…!」

 雨が降る。雨が降る。
 ぽろぽろと。ぽろぽろと。
 水色から水が生まれて、落ちていく。
 崩折れて、黒子は泣いた。
 写真を胸に掻き抱きながら。





 綺麗な夜空の下、雨が、降る。

『本日の夜の天気、局地的に、雨』





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