泡になる夜

[side:緑(秘密の共有者)]



「赤司」

 呼び止められたのは、卒業も間近な雨の日だった。天候も相まってか振り返るという動作がひどく億劫だ。だが呼ばれた以上そうしないわけにもいかない。それが目をかけた者の声ともなれば、尚更のこと。
 諦めを吐き出すように一つ息を零して振り返る。そうして放課後の誰もいない仄暗い廊下の只中で、緑間と二人、向き合うこととなった。
 視界の端で雨粒が窓に打ち当たっては落ちていく。その軌跡はみっともないほど乱雑だ。そう思う傍ら、緑間が眼鏡のブリッジに手をかけて眼鏡の位置を調節したのを見る。あれは癖だ。そうする必要もないのに、ついやってしまう程度の、ただの癖。
 だが、そうだな。意味があるとすれば、緑間の心がざわめいている時によく見られる傾向、とも言えた。それが今何を指すかを、多分自分は知っている。

「洛山に行くそうだな」
「あぁ」

 わざわざそんなことを?、とは聞かなかった。最早退部した自分達に面と向かって話をする機会はなかったし、卒業を控えた今、登校する日数も減っていた。こうして顔を見、話すのも、実は久々のことだ。
 だがキセキの世代と呼ばれた自分達が卒業後どこへ進学するのかなど、少し耳を澄ませば聞えてきたはずだ。噂にならないはずがないのだから。当然緑間がどこへ行くのかを自分は知るし、他のキセキ達も同じ。そして自分がそうであるように、緑間も知っているだろうに。
 それを敢えて聞いてくるのだ。自分の推測の正しさが確実性を増す。それはほぼ正答に等しく、それ以外ではありえないほど。
 緑間はゆっくりと息を吐いた。落ち着き払う自分に呆れているようにも、苛立っているようにも見えた。少し、哀しげであったかも知れない。兎角深い息が零された後、緑間は一瞬だけ口篭る様子を見せてから口を開いた。

「…スポーツ推薦を蹴って、一般で合格した、と聞いた」

 それは、推測が正答に辿り着いた瞬間だった。99%だったグラフが、1%、伸びて満たされる瞬間を目の当たりにしたような。

「誰から聞いた」
「誰でもいい!」

 緑間の、激高。一メートル以上の距離を開けてさえそれは耳を劈いた。暗闇の中で緑間の双眸が光る。湛える色は、紛れもなく怒りだ。

「誰から聞いたとか、そんなことは瑣末なことだ! まさか赤司、貴様高校ではバスケをしないつもりか! 俺達を、俺を、目覚めさせておきながら、そのお前が…!!」
「落ち着け、緑間」
「ッ、!」

 血が上った緑間は、普段の傍観者ぶりや落ち着き払った様子を見事に裏切って暴力的だ。直ぐに手が出る。今も二人の間にあった一メートルという距離を詰めて自分の胸倉を掴んでいた。
 無意識なのだろう、声をかけながら掴む手に軽く触れてやれば、ハッと我に返り手を離すと一歩身を引いた。自分の所業に居心地悪そうな顔をするとまた眼鏡に触れる。だがその両目に宿った怒りは払拭しきれていなかった。

「バスケは続ける。そのつもりだ」
「ならば何故…ッ」
「別にスポーツ推薦で入らなければバスケをしてはいけない、という訳でもないだろう。ただ俺は一般でも洛山に入れたと言うだけだ」
「そうして自分はスポーツだけではないと言うのを周りに知らしめるためだとでも?」
「それを考えなかったとは言わないが、そんな答えではお前は納得しないだろう」
「当たり前だ。そんなことなら入学した後でいくらでもできる。ただ試験で一位になればいいだけの話なのだからな」

 それができると信じられていることに、思いがけず少し笑ってしまった。事実自分はできるだろうし、するだろう。だがこうも無償の愛のごとく信じられると何故か苦笑しか零れない。それは神の存在と力を信じて疑わない敬虔な信者のそれに似ているからか。人に向けるには、あまりにも滑稽だ。
 緑間はまだこちらを睨んでいる。理由を聞くまで帰らない、帰さないという姿勢がありありと伝わってくる。
 熱い男だ。侮蔑でなく感嘆してそう思う。キセキの世代の誰もが持ち合わせているその性質を緑間も間違いなく持っていた。だからこそ自分を司令塔にしたチームでやってこられたのだし、才能を開花せしめたのだ。

「…途中で辞める可能性があるからだ」

 だからこそ思う。これは信用じゃない。信頼でもない。言い聞かせる。偏に誰かに知っていて貰いたいという独り善がりな告白だ。懺悔にさえ似た、最悪の。

「俺はきっと数年の内に死ぬ」

 ただここにいたと言うだけで背負わせる。気づいてしまったお前が悪いんだと言うように突きつける。言葉をなくした緑間に、八つ当たりに近い衝動で真実を。

「お前の言葉を借りれば、避けられない運命とでも言ったところだ」

 信用じゃない。信頼でもない。そんな言葉で緑間を縛り付けようとは思わない。既に己の手の中から飛び立った鳥を、また鳥籠に押し戻すようなそんな愚行は犯さない。自由になるべきなんだ。もう二度と、自分の手で導けないのなら。
 だからこれはただ弱者の言葉だ。何の意味もない、雨音に紛れるくらいで丁度いいような、そんな言葉だ。

「だからスポーツ推薦を受けるわけにはいかなかった。これが答えだ」

 それだけ言って、立ち尽くす緑間を置いて歩き出す。少し行った所でまた呼び止められた。振り返る。今度は、素直に。

「…人事は、尽くしたのか」

 緑間は既に遠い。そのせいか、それとも外の雨が強さを増したからか、掠れて聞こえる。それでも聞こえた。だから答える。

「あぁ。後は天命を待つだけだ」

 そうしてまた歩き出して、けれどふと立ち止まった。緑間が動いた気配はない。ならばまだいるだろう。それを信じて。

「後はお前に頼む、緑間」

 言って、一歩進む。あとは簡単だった。前へ。前へ。前へ。まだ仕事が残っている。まだここで、この学校ですることがある。緑間から離れた。
 もう二度と、呼び止められなかった。





 恐らく訃報は緑間が最初に受け取るだろう。常々何かあれば緑間へと親には言い聞かせてある。そして緑間ならば内心はどうであれ、事務的にでもキセキの世代に知らせようとしてくれるだろう。いつものように、今までそうしてきたように。
 そう考えて、不意に愕然とした。歩みが滞りそうになる。耐えて、進んだ。引きずるように前に。そうしながら。
 なんだ。自分は悲しんで欲しいのか。
 随分と可愛い性格をしている。態々彼等に自分の死を伝えるよう仕向けるということは、そういうことだ。彼等に悼んで欲しいだなんて。そんなことを言う権利など自分にはないと言うのに。
 とうとう足が止まった。廊下の壁に寄りかかる。俯くと、はは、と声が漏れた。力が抜けて壁にそってずるりと崩れる、崩折れる。床に蹲った。笑える。肩が震える。馬鹿みたい。

「ふ、は、はは…ははは…!」

 抑え切れなかった微かな笑声が反響し残響する。誰かが聞けば怪談だ。分かっているのに、堪え切れなかった。
 馬鹿か。荒唐無稽もいいとこだ。自分から手を差し伸べて、自分から手を切った。そうして傷つけた彼等に憐れんでもらおうと? 身勝手もここまで来れば笑いにしかならないな。
 暫く笑って、やめた。気づけば雨音が遠い。けれど降り続いている。雷も遠くには行っていないらしい。また、落ちた。
 その衝撃はなんだか心臓の拍動に似ている気がして、ふと胸を抑える。いつか止まる心臓の上に拳をあてた。そのいつかはもうすぐそこに迫っていた。数年。それが医者に提示された自分の余命。
 別に、いい。自分は彼等から遠く離れた場所で死ぬ。弱って、消耗して、ベッドの上で、一人で。そう望んだのは自分だ。
 残された時間を全て注ぎ込んだこの三年間。幸せだった。それは確かに独り善がりの、微温湯のような幸福だったけれど。
 だからこれでいい。だから。

「…せめて最後まで、俺をお前達の主将でいさせてくれ」

 目を閉じて願う。それだけでいい。





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