野球部の透明少年

[ uniform number 5 ]



 ずっと、欲しかった言葉があった。





 すぅ、と腕を広げて胸を大きく膨らまし、息を吸い込んで、同じ分をゆっくり時間をかけて吐き出した。そうする間、自然と閉じていた目をぱちりと開けて先ほど自分で整えた地面を見、そして背を首を反らして空を見る。茶色から青へ、見える色が変化する。その間にいくつもの色が、例えば畑の白い柵や山の緑、雲の灰と白の濃淡、はたまた自分と同じように、これからくたくたに汚れるはずの、それでもまだ綺麗な白と黒のユニフォームが視界を彩る。
 世界は色で溢れてる。
 その様を視界という自分の見える限りの世界に収める時、いつだって心は時めいた。色に限らず、何かで溢れているというのは、ただそれだけで心に感激をもたらしてくれる。少ないのは哀しい。ならば多すぎる方が、まだ自分は我慢できるし歓迎できる。
 その上で、青一色の空を見た。
 濃すぎるでもなく、薄すぎもしない。水色と青の間を彷徨う色を、試合中、ピッチャーの指先、そこから放たれたボールの軌道を見る時のように、一直線に見る。
 空は、哀しくない。様々な青があるからではなく、そこに雲の白が加算されるからという訳でもなく、単色の青が特に好きだからという理由もなく。それでも、空を哀しいと思ったことはなかった。
 何故だろう。
 疑問がぽつんと胸に湧く。湧いて、けれど答えはいくら頭を捻ろうと出てこない。終いにはうー…と唸って、気づけば止めていた息をぷはっと吐き出してぜぇはぁと肩で息をする羽目になった。
 そう言えば、こと野球に関する以外、いや偶に野球に関することであっても、自分は頭を使うのが苦手だった。
 考えすぎると頭がこんがらがるだけでなく、四肢にも悪影響を及ぼすことはいつかの試合で学んだことだ。これから部活が始まることを思えば、頭を空っぽにした方がいいのだろうと思って深く息をする。
 見える事実に躰は勝手に反応してくれる。その時最適だと思う行動をとってくれる。野生の勘というか、これまで培った野球の本能というか、それはもう脊髄反射の要領で。
 考えてからの行動では遅すぎる。ある程度反射で動けないようでは、野球はやっていけない。
 それは持論とも言うべき考えで、でもそれがみんなに当てはまる訳ではないことも知っていたから、誰かに言ったことはない。お前だからだよと言われるのがオチで、その時のそいつがそれを言う表情は、きっと自分が見飽きたものだ。
 苦笑と羨望と、そして最後には諦めが見える表情(かお)
 それらは一瞬で、でも球種を見分けることに長けた瞳には、十分すぎる一瞬だった。俺はお前じゃないんだよと突きつけられる。
 そりゃそうだ。
 自分は自分にしかなれないし、その意味で、自分は自分でしかないことも分かっている。そして、誰かに自分のようになれと望んだこともない。それでいいと思うのに、その誰かはそうは思ってくれない。
 難しいものだ、と思う。
 自分より優れた誰かを見るのは、確かに辛い。自分が見られない世界を見る誰かも、自分じゃ到底成し得ないことを難なくしてしまう誰かも。悔しくて、もどかしくて、羨ましい。なんでそれが自分にはできないんだろうと、妬む気持ちを否定することはできない。
 でもそこで、じゃあ自分には何ができるだろうと、自分なら考える。
 自分がその誰かの世界を見られないなら、その誰かだって自分の世界を見られないはずで。自分じゃできなことをやってのける誰かだって、できないことは存在するはず。それを見つけて見極め、努力することを惜しまない。誰かに何かで劣っていても、その差を引っ繰り返す何かがあればそれでいい。自分に恥じることのない自分であればいい。
 だから自分は、自分が四番を張っているのだという自負がある。
 だがそれだけでは足りないのだ。ただ、それだけでは。





「———…あのさぁ、四番背負うのって、しんどい?」

 いつか、偶然ストレッチの組み合わせの相手になった彼が、ぽつりとそう呟いた。足を開き、互いの手を握って上半身をギリギリまで倒していたから、その声は本当に小さかったが辛うじて耳に届いた。
 ぱちり、と目を瞬かせて彼を見る。
 その声と同様、柔らかく、それでいて緩やかな笑顔が近くに見えて、思えば彼と一対一で顔を突き合わせて喋ることはこれまで少なかったなと漠然と思う。囁きと言っていい声は耳朶に優しく響いて、爽やかな風のように心地いい。いつもと違って潜められた声だからだろうか、こちらも内緒話をしているような気になって、小声で返す。

「んーん。楽しいよ。なんで?」

 首を傾げれば、彼はそっかぁと間延びした声で応え、にこりと笑い。

「俺だったらって思うと、ちょっとしんどいなーって思ったから」

 そんなことを言う。

「四番、狙ってんの?」
「違うよー。俺じゃあ力不足だって分かってっから。ま、狙えるものなら狙うけどねー」
「狙うんだ?」
「そりゃまー、俺だって球児ですから?」

 言って、けれどふわふわ笑うものだから、信憑性はあまりない。嘘か真か、どっちにとっていいか分からなかったから、ふーんと曖昧に返した。彼はそんな対応に慣れて切っているのか、気にした風もない。
 そして、そんな顔で、言ったのだ。

「でもね、お前はホームラン、打てないじゃん」
「…まーね」
「俺も、打てないけど」
「うん」
「花井とか巣山とかなら、打てるかな」
「かもなー」
「栄口はバントがあるし、泉も打率いいし、沖は左利きで、投手もできちゃうかも、な人材だし」
「おー」
「西広も最近上手くなってきて、俺の立場危ういし」
「ひひっ」
「三橋はすげぇし、阿部もすげぇ」
「だな」
「だから、大丈夫だよ」
「え?」

 彼は、柔らかく笑い、柔らかく合わせていた手をきゅっと握って、柔らかな声で言ったのだ。

「俺が、俺達が、お前を甲子園に連れてってやるからな」

 みんながいるよと、青空の下で。





 それは、モモカンと自分達が呼び慕う監督に、いつか言われたことを前提にした言葉だったのだと、後から知った。自分一人では勝てないから、みんなの力が必要なのだと彼女は言ったそうだ。そんなの当然のことだと自分は思っていて、けれどそこでそうかと納得した奴もいたのだと、二人いる副主将のうちの、優しい彼は苦笑とともにそう零した。そして、俺達、お前を独りにしてたねと、ごめんねと彼はそうも言った。
 そんなことないよと言おうとして、でも結局その言葉は口をついて出なかった。多分心の奥底ではそう感じていたのだろうと、その時やっとそんな自分の心に気づいて、ちょっと吃驚した。自分だって諦めていたんだと。
 四番であることに慣れすぎて、任されることが当たり前になっていて、誰かから一緒に甲子園を目指そうと言われたことはあっても、連れてってやるなんて言われたことはなかった。それは自分の役目だとすら思ってたのに。

「…言うじゃん」

 キャラメル色の髪をグラウンドの端に見つけてそう呟く。彼はまだあの時の会話を覚えているだろうか。覚えていないかもしれない。ふわふわとした笑顔と雰囲気と、そしてあの髪と一緒で、その頭の中も結構ふわふわしている。
 その癖、偶に鋭いことを言うものだから、外見とのギャップで未だに彼がよく分からないと思うこともしばしばある。
 だからもしかしたら、覚えているかもしれない。…どっちでもいい。どうせ、自分が覚えてる。

「———っ、水谷ぃ!!」

 すぅっと胸いっぱいに息を吸い、グラウンドの端、いっそ世界の果てまで届けと言わんばかりの声で彼を呼ぶ。米粒とはいかないまでも、彼の表情を識別するのは難しいくらいには遠く、彼は小さく見えて、それでも色や動作からこちらを振り向いたことを知る。
 なぁに?、と自分の声より小さな声が返ってくる。うるせーぞ!、と苦労性の主将の声がそれより勝って聞こえて、他の部員の視線をちらほら感じながら。
 けれど、無視。

「約束、守れよ!!!」

 たったそれだけを言う。彼の顔は相変わらず分からない。今度は声だって聞こえない。
 ただ、見えた。
 試合中の、投手のフォーム、その指先、相手の守備陣の動きを見極める目が。

『分かってるよ』

 そう言いたげに、彼がビシッと親指を立てたこと。





 空を見上げる。
 青い青い、ただ蒼の連続を。
 そこに自分達は白球を打ち上げる。
 できるだけ遠く、できるだけ長く白いボールを空に向けて放とうと頑張るのだ。
 その夢がホームラン。
 青に沈む白は、儚く尊い。
 自分だけでは叶えられない夢のカタチ。
 だから他の誰かにその夢を譲った。
 いつか誰かが叶えるだろう。
 その夢を、いつか自分は見るだろう。
 傍で青にぐんぐん消えていく白を、心震わせながら見るのだろう。
 それはきっと綺麗だ。
 美しくさえあるだろう。
 青は白を映えさせる。
 ただその役目だけを負ってカミサマから作られたかのように。
 あぁ、だから空は哀しくないのだと気がついて。
 気づかせてくれた彼を。

「かっけー!」

 そう、田島悠一郎は思うのだ。





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 20121224
〈さぁ、青く蒼い、天上の海へ。〉





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