Walker in the darkness.

[ 闇の中を歩く者(霜花落処) ]



 白日の下を歩いてきたつもりはない。つもりはなくともそうであったかもしれないが、それにしたって日頃意識していることではないだろう。人間誰しも、自分が今どこを歩んでいるのかなんて、それは観念的にという前提で、俯瞰して見ている奴なんてきっといない。ただ、恥じる所なく胸を張るほどもなく、普通に普通を重ねたような生活をしてきたつもりだ。
 俺もそうだったし、多分、榛名もそうだった。
 それで許されていた。というのは、やっぱり世間的というか、観念的な話で、寧ろ倫理的な話でさえある。端的に言って常識を越えた生活や他人の視線を気にするような関係など、童話の中、物語の中の事象にすぎなかった。その認識で、これまで、十七年という月日を生きてきたのに。
 まさかここに来て、脆く崩されるなんて。

「…はるな」

 呼ぶ声は吐息に混じって微かに震え、奇妙に拙い発音になった。雰囲気に飲まれる、という経験が浅い自分にしては、なんだか酷く居た堪れない。自衛するように身を縮こまらせて視線を下に逃す。それで何が変わるわけでもないのに、だ。
 榛名はそんな俺を見下ろしていた。静かな目をしているだろう。意外にも知らない人間に対してもそこそこ反応のいい榛名が無表情になるのは、実はマウンドの上と無関心の時を除いて、俺と一緒にいる時が多かった。愛想などを考えなくていいから楽、というのが本人の弁で、多分本当にそれ以上でも以下でもない。確かに、今更表情を取り繕う関係でもない。そんな互いも想像できなかった。わざわざ表情筋を動かしてまで、(みせ)る表情など最早ない。
 だから榛名は今、静かに無表情で俺を見ているだろうし、それは疑うべくもない。そうじゃないか。今まで、榛名が俺を諦めて、俺が俺を諦めて以来、そうでなかったことなんてなかったじゃないか。
 でも、じゃあ、なんだったんだ。
 ぐるぐると行き場のない感情というか疑問、考えが頭を胸を駆け巡る。
 名前を呼んでから見下ろす間に、見えたものはなんだ。手首を掴まれて、部室から出て行こうとするのを阻まれて、何?と問う言葉を無視されて、そして。

『行くな』

 あの、言葉は、な、に。
 無言を強いられた気がして、でもできなくて名前を呼んだ。説明があったっていいじゃないか。その思いからで、あと、無言でいることに耐えられなかったから。結局、口を噤んでしまったけれど。
 榛名。榛名。はるな。ねぇ。

「…かえ、ろ?」

 もとに戻ろう。名前を呼んで、行くなって言って、何?って聞いて、手首を掴まれる前に、時間を巻き戻そう。何もなかったふりで、忘れた顔して、帰路につこうじゃないか。それがいいよ。だから。

「行くな」

 …あぁ、もう。行けないよ。分かってんだろ。俺に決定権はないんだ。お前が全部決めるんだ。そうだっただろ? 今まで、全部、これからだって。だからお前が決めるんだよ。帰るって言ってくれ。お前を一人にしやしない。離れたりしないから。だから、でも、駄目なんだよ。

「榛名」

 視線を戻す。さっきよりしゃんと声が出た気がした。それだけのことにほっとする。安堵して、それは次の瞬間、榛名の目を見て即座に消え去った。
 …なんて目、してんだよ…。
 泣きそうになる。これまでと同じく無表情を貫いてくれたらよかったんだ。無感動を見せてくれたらよかったのに。なんで、なんで、そんな目してんだよ。

「秋丸」

 呼ぶな。触るな。もうお前は俺の知ってる榛名じゃねぇ。俺がそうあってほしいと願う榛名じゃないんだ。離せ。離せ。そう、思うのに。

「行かせない」

 止めろ、馬鹿。そんな物欲しそうな目で俺を見るな。帰ろうって、なぁ。お願いだから、榛名。この手を離してくれ。はるーーー。

「恭平」

 ずくり、と、胸の奥、脳の裏が疼いた。それはずっとずっと昔の呼び方だ。一時、流行りに乗った程度の。それはシニアに入った頃で、俺が榛名から離れてまたつるむようになってからはまた苗字呼びに戻っていたけれど。懐かしさはない。その呼び方に目眩を覚えたのでもない。声に含まれた熱に中てられた。熱が篭る。手を掴まれている以上に退路を塞がれてしまった気がした。逃げ場が、ない。
 はるな。
 口が動く。震えに任せ、喘ぐように唇だけで呼ぶ。それを知るだろうに。その意味も、何故か、なんて。分かってて、俺の思う通りになんてしてくれない。

「…逃さない」

 手が引かれる。強さはない、ただ促すように。それでも、抗えない。抗えるはずもない。無気力と背筋を競り上がる震え、諦観に身を任せて目を瞑る。瞼が下りる。辛うじて部室を照らしていた光が閉じる。…あぁ。

(俺達は今、真夜中に生き始めたんだ。)





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 20121223
〈盲いた恋人達。〉





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