round and round

[ ぐるぐると(霜花落処) ]



 花井、と呼びかけたのは水谷で、振り返るまでもなく声で誰が自分を呼んだのかなんて事は気づいてたけど、それで振り返らないなんて選択肢は花井の中になくて、だから、おう、と片手を上げてまで返事して、数歩遠く突っ立ったままの水谷を躰半分捻じった体勢で見た。水谷は近づかない。その距離に違和感を覚えた時。

 気にしなくていいんだよ。

 と水谷はその瞬間を最初から狙っていたようなタイミングで言った。
 何を?
 首を傾げるだけでその問いを表した花井は、続いた水谷の答えに驚いたのだ。心底、吃驚してしまったのだ。

 気にしないでね、花井は俺達の主将で、だから誰よりいっぱい何かを背負ってて、それは主将だからって言うより、多分花井の生来の気質と言うか、性癖なんだろうけど、でも、だから余計、責任感だけで背負っちゃうより、厄介だと思うのね。主将の領分と自分の領域がごっちゃになってるって言うか、気負っちゃってる気がするのね。それは花井だからで、だから俺達はすっごく助かっちゃってるけど、パンクしそうになるまで頑張らないでほしいの。んで、俺の事は気にしないで欲しいんだ。誰になんて言われても大丈夫だよ。呆れられても、うざいなぁって思われても、それは花井がみんなの世話を無意識にしちゃうのと同じくらい、俺が無意識にしちゃう事の報いだから、いいんだよ。どんな反応も慣れっこだし、うちの野球部だもん、なんとかなるよ。だからね、花井。俺の事は気にしないでね。大丈夫だから。俺の事で花井が怒鳴る事ないんだよ。頑張っちゃう事ないんだよ。神経磨り減らす事、ないんだから。花井は他の、田島とか三橋とか見てあげてて。あいつらを守ってあげてねーー…。

 水谷はずっと笑顔で、じゃあね、呼び止めてごめんね、と言う時だって笑ったままだった。それがいつもと違う笑顔なのかそうじゃないのかなんて花井には分からなくて、識別しようがなくて、あぁ栄口や西広、泉辺りならきっと分かっただろうにと思ったのが悔しかったし悲しかった。
 なんでそんな事を言うんだと水谷に言ってやりたかった。でも例えそこで水谷を捕まえたとして、足止めに成功したとして、そんな事を言えるとは思えなかった。花井には言えない。聞けない。あれ以上の悲しい言葉を、聞いてはいられないと思った。自分の事はほっといてくれなんて、水谷が言ったのはそういう事で、水谷の静かな表情の中に見えた頑迷さを知れば、また同じ言葉が繰り返される事は想像に難くなかった。
 だから花井は立ち尽くして水谷の背中を見送った後、携帯を取り出して水谷以外の部員にメールを一斉送信した。文面は短くて済んだ。件名なんていらない。たった一文、そこに文字が並んだだけだ。

『水谷を傷つけるな。』

 読み返し確認するほどもない字数を無感動に見て送信ボタンを躊躇いなく押し、花井は好奇の目に晒される事を承知で廊下の壁に寄りかかり、ずるずると右肩をすりながら床に蹲った。
 後一分もしないうちに、阿部と栄口から返信が来るだろう。泉は田島と三橋の追求を交わして眉間に皺を寄せるだけで部活までやりすごし、巣山は栄口から事の真相を聞くつもりでいるはずで、西広と沖は二人で顔を見合わせた後、そっと携帯を閉じるだろう。
 そんなみんなの様子がまるで見て来たかのように想像できる。なのに水谷ならどうするだろうと考えても、イメージは不透明で、終いには水彩絵の具に水をかけたように溶けていくだけだった。
 花井は無性に遣る瀬なかった。膝に緩衝材として置いた腕とくっつく額がやたら熱い気がした。その癖腹はぞっとするほど冷えていて、今なら栄口の気持ちが分かるかもしれないと思った時。

 ジー…ジー…

 手に持ったままだった携帯が震えた。着信を伝えているのだ。やけに長い。指が震えて肘に届き、腕が震える。自然、接する額も震えていた。いや、それが携帯の振動が原因なのか、それとも花井の躰それ自体が震えていたのか。
 花井には分からない。
 ただしばらくしてようやく携帯の震えが止まったのだけ分かった。それがメールではなく電話だった事は、最後まで気づかなかった。
 花井はまだ廊下の端に蹲って、時折投げかけられる雑踏の視線を黙殺し、ただじっと心が泣き止むのを待っていた。





戻る



 20130319
〈距離感の暴力。〉





PAGE TOP

inserted by FC2 system