edge of cliff

[ がけっぷち(霜花落処) ]



 あいつが泣いた時、誰もが始めは気づかなかった。
 それほど、それくらい、静かな静かな泣き方だった。瞬きの度頬の上を押し出された雫がつるりと滑って行く。肩はひくひくと揺れて、でも声は微かも聞こえない。静かで綺麗な泣き方だ。お手本のように綺麗で哀しい泣き方だった。慌てたのは阿部だったか。
 日頃他人を労わるなんてした事のないような男が、動揺を顔に滲ませながらいの一番にあいつの傍に寄ったのだ。大丈夫かと声を掛け、背中をさする。遅れて周りも動き出し、田島さえ困惑を隠せず、三橋に至ってはあいつと一緒に泣き出した。それは泉に任せて、他の奴は全員戸惑いながらもあいつを囲った。
 何があったの、と栄口の優しい声。泣かないで、と沖の困った声。ゆっくりでいいから言ってみて、と西広の柔らかい声。この三人の声に、自分だったら直ぐ口を開いてしまうだろうと思ったのだが、あいつはどうやら違うらしい。いつものお喋りを封印して泣き続けている。綺麗に綺麗に、哀しく泣く。
 そっと前に座った巣山が手を握る。言葉はない。無言で静かに、ゆっくりと。それだけで安心できてしまいそうな、例えば父親の懐の深さを見たかのよう。あいつも今度は反応して、僅かに手を握り返したようだった。でも、それだけ。相変わらず涙は止まってないし、声も聞けないまま。何があったってんだ。
 あいつはただ泣き続けている。それは静かで、多分視界に入れなきゃ気づかないような、他人に迷惑をかけない泣き方だ。でも駄目だ。こいつが泣いてるってだけで災害だ。だってみんな笑顔を保ててない。真剣そのものの顔であいつを見て、まるで今正に試合中のような、そんな錯覚さえしてしまいそうだ。
 張り詰めた糸。部活後の、ましてや明日練習試合があることを思えば、心身共に宜しくない。

 パンッ

 手を打ち鳴らした。ハッと皆の肩が揺れ、こっちを見る。あいつも、見た。ぱちくりとして、涙はまだ枯れない。それでも驚きの所為か減少傾向にあるらしい。見てとって、笑う。水谷、と呼んで、涙を拭った。

 大丈夫。

 何が、とも、何故、とも言わず言い切った。言ってしまうと本当にそうなる気がして、何がどうなるかなんて全く分からないまま、また大丈夫とあいつに言う。あいつは少しぽかんとしていたかと思うと少しして、ほんと?、と舌足らずに聞いてきた。何かあいつの中で当て嵌まる項目でもあったのか。
 知らないし、多分今それを聞いてしまうとこの流れを変えてしまう気がして、だから大きく頷くだけに留めた。あいつは、そっか…、と言ったかと思うと、ふわりと小さく泣き笑い。へへ、と笑って自分の指で涙を拭う。ありがと、と周りに、そしてこっちに向かって言って。でも結局泣いた理由は分からない。
 それからもそんなことは度々起きて、あいつは静かに綺麗に哀しく泣いた。誰かがそれに気づいて、気づけたことにホッとしながら、あいつがまた笑ってくれるように全員で取り囲む。大凡最初の流れと同じであいつの泣き顔は笑顔に変わる。面倒だと思うことは不思議となかった。それは皆も同じらしい。
 笑ってくれとは言わない。泣き止めとも言わない。大丈夫だを繰り返す。意味もなく訳もなく、扉を開く呪文は「開けゴマ」と言うのと同じノリで。

 大丈夫。

 俺が言うのを水谷は真っ直ぐ見た後に。

 うん。

 と笑う。泣きながら笑う。涙はまだ零れてて。それでも。

(あんな泣き方をされるより、いいと思ったんだ)





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 20121229





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