クマがヒトを喰う話。

[ 子守唄を、歌ってあげる。 ]



 しとしとと、雨が降る。多分に湿り気を帯びたそれは、しかし、雲が限界まで水分を孕み、そして爆ぜて散る雨滴ではなく、濡れることのない、幾千幾万の花びらの雨だった。花雨はなあめは降り続けている。静心しずこころなしに、しとしとと。
 対し、眺めやる彼は落ち着きに落ち着き払っていた。凪いだ心の水面に、さざなみは一つとしてない。それでも彼は、深く深い溜息を零さずにはいられなかった。その深さは、彼を取り巻く夜の闇に比例した。

『―――少し、頭を冷やしておいで』

 思い出し、切なさに眉を顰める。彼が特に慕う赤の彼は、そう言って彼の肩に優しく手を置いた。

『…こら、不満気な顔をするでないよ。確かにお前は根っから間違ったことをした訳じゃない。だが今回…いや、積もり積もった評価から重く問題視されたのは、お前の心の在り様だ』

 それが今回の決定に繋がったんだよと赤の彼は言うけれど、そんなこと言われたって分からない。何が駄目だったのか。何が問題なのか。何を、自分は間違えたのか。彼はそれを言葉でなくふるふると頭を振ることで表した。伴って顔は哀しげなものに変わる。彼を見る赤の彼は、その幼子のような行動と表情に、困ったように微笑んだ。

『お前の賢さはよくよく知るところなのに、そういう他愛ない所作を見るにつけて、どちらが本当のお前なのか分からなくなるよ』

 どうしたものだろう、とやっぱり困った風に言うくせに、赤の彼はわらったままでいて、その顔のまま。

『だがその幼さが僕に因るのなら、やはりお前は僕から離れるべきだ』

 容易く彼の心臓こころを打ち砕く。

『…お前の為だよ』

 嘘だ―――咄嗟に、思った。半拍の躊躇を見とってのことではない。常の獣並の勘とも違う。それは偏に「自分のことを思うなら突き放す筈はない」という、それこそ子どもじみた理由からだった。

『さぁ、クマ』

 それも、それさえ知る赤の彼は、そう言って彼の肩に置いていた手をそろりと離す。途端、ぐにゃりと周囲の風が歪む感覚。気付き、身構えても―――もう遅い。

『行っておいで…――』

 嫌だ、いやだ。待って、ねぇ。そう、いくら思ったところで駄目だった。結局彼は時空の渦に巻き込まれ、荒ぶ風が止んだ頃、見知らぬ地に立っていた。それが今、彼が大きな躰を丸めて三角座りをしている地点だった。
 気疲れし、立ち続ける気力がなかったのだ。そこは躰が嫌に重く感じられ、またねっとりとした湿気が纏わりついて煩わしい。しかし降り注ぐ淡色の花雨かうが、やんわりと彼の気分がどん底に沈み込むのをすんでのところで食い止めていた。
 だが、それが何だと言うのか。
 冷静に、心の中に吐き捨てる。深く考えずとも今のところ戻る術がないことだけははっきりしていた。容易に戻ってこられるような場所にわざわざ飛ばす筈はないし、彼はそんな愚にもつかない過ちを犯す人ではない。彼は―――自分が特別に想う、彼、は。

「……赤ちんの、ばか」

 ままならないものだと思う。長い長い年月を経て、人の姿を得、言葉を解し、名を与えられて赤の彼の傍に配された。その中でむくむく育っていった感情は、概ね彼に向けられた。彼を見ている内に生まれ、彼に触れられる度に膨れ、彼と会話を交わす中で完成していった。
 赤の彼が彼の体内なかに創った感情は、時に彼を傷付けたが、彼はそれを手放そうとはついぞ思わなかった。それは硝子片を力一杯握り締める行為に等しかった。首を括る愚行にも似た。それでも、彼はその感情を大事に大事にし続けた。
 彼は特別情が深い人という訳でもなかったが、それは博愛の主義から外れているだけで、一度ひとたび己の懐に入れた存在には格別の優渥ゆうあくを向けてくれた。彼はただ、その優しさに触れ続けていたかったのだ。…なのに。

「ひどい…」

 問題視されたのは、お前の心の在り様だ―――赤の彼はそう言った。自分の心が、悪かったのだと。
 何が悪いと言う。命令に背いて彼を守ったことか。彼以外の同胞を巻き込んでも無理に攻撃し続けたことか。彼以外はどうでもいいと、切り捨てたことか。
 でもそれは自分を偽らなかっただけの話だ。自分に正直であっただけだ。―――彼さえいれば、無事であればいいという、己の心に。
 赤の彼は正直さは美徳だと教えてくれた。周りも正直であることは善だと言っていたじゃないか。自分は、だから、正しいことをしたんじゃないのか。何も間違っちゃあいないじゃないか。
 なのに、なのに、この仕打ちか。

「……還りたい…」

 脆く、涙色の呟きが知らず零れた。そんな自分を認めたくなくて、知らない振りをしたくて、彼はそっと目を瞑り、そうしてこれまで赤の彼と共に過ごした日々を、瞼の裏に見た。虹に似た過去は綺羅綺羅しく、自分に似つかわしくない気がして妙に擽ったい。でも、それでも、確かに自分はそこにいたのだと、時に笑顔さえ浮かべながらいたのだと、過去を手繰る度に認めずにはいられない。
 手を伸ばせば届く倖せだった。ずっとなんて夢見がちな思考は欠片も持ち合わせてはいない筈だったのに、届かなくなった今にしてみれば、自分の考えが実は現実的でないことに気付かされる。…そんな自分なんて、気付きたくもなかった。

「赤ちん…」

 ねぇ、どうやったら還れるの。俺はどうしたらいいの。ここがどこかも分かんない俺に、どうしろっていうの。ここで蹲っていればいいの。ここから歩き出せばなんとかなるの。もう二度と赤ちんを守らないって誓えばいいの。正直に生きることを止めればいいの。
 でも、そんなの無理だよ。それじゃあ俺が俺じゃなくなっちゃうよ。赤ちんを守れない俺なんて、俺じゃないよ。そんな俺が赤ちんの傍にいるなんて俺は許せないよ。そんな俺なら、俺、要らないよ。そんなの、だって…――。

「――…死にたくなるよ…」

 とうとう、一粒の雨が彼の頬を濡らして伝う。それを皮切りに、雨はしとしと降り出した。花の雨に混じって、彼の頬を伝うだけの雨が降る。降る。降って。

「………何で、あんた、泣いてんの」

 何かを、呼び寄せた。顔を上げ、彼は声のした方をちらりと向く。遠く、それでもはしばみの髪色が分かる程度には近い距離に、人像ひとがたの何かがいた。でもそれも、直ぐにぼやけてよく分からない。けぶる視界。涙が、止まらない。ほろほろと滴って見せつけるよう。しゃくり上げる声がないだけ、ましだけれど。

「……泣くなよ…」

 困ったような声。ほとほとと近づく足音。けど、そんなこと言われたって止まらないものは止まらない。止め方も分からない。あぁ、そう言えば泣いたのなんていつ以来だろう。それも、忘れてしまった。

「あんた、何したんだよ」

 困惑の声が、そう聞く。知らない。知らない。俺は何もしてない。何もできない。それが哀しくて、泣いてるだけ。

「躰、消えかかってんぞ」

 ……あぁ、そっか。契約、切られちゃったのか。
 躰が消えかかってるのは、その所為だ。契約中は自動的に赤ちんから供給される筈の気が途絶えたからだ。それがなきゃ俺は消えちゃうって、昔々、赤ちんが契約を結ぶ時に言っていた。傍にいる限りは忘れてもいいと言われたから、忘れてたんだ。
 いいのか、と聞かれても、もうどうでもよかった。いよいよもって、どうでもよくなった。もういいよ。いいことにする。契約を解除された俺なんか、どうにもできない俺なんか、消えちゃえばいいんだ。
 哀しいな。いつか消えるとして、死んじゃうとして、それは赤ちんに看取られての筈だったのに。よく頑張ったねって言ってもらって、頭撫でてもらって、欲を言えば、おでこにちゅうしてもらって、そうしてそうして消えたかったのに。
 酷い死に方もあったものだ。第一前提の赤ちんが傍にいないなんて、最悪の三乗くらいに最悪だ。

「………なぁ、おい」

 もう煩いな、黙ってよ。最悪は最悪なりに静かに消えさせてよ。そう思って、喋りかけ続ける奴を睨めつけた―――ら。

「なんなら、俺の躰、やるよ」

 そいつは、あっけらかんとそんなことを言う。ぱちりと瞬き、つるりと落ちた涙を最後に雨は止んで、それをどう受け取ったのか、一思いにやってくれよと言う榛の彼は酷く邪気あどけなく笑った。
 莞爾かんじとして笑い、さぁと促す様は遊んでくれと強請る稚い子どものよう。その不均衡さは彼をして怖気おぞけが走るほどで、つられて目眩がする。視界がくらくらして、頭がぐらぐらした。
 あ、と呟いたのは、榛の彼だったのか、それとも、自分だったか。分からないまま、彼は地面に崩折れた。ついに限界まで気を消耗したのだと、薄っすらと理解しながらもどうしようもなく黒に塗り潰されていく意識の向こう側。

「…まったく。命は大事にしろよな」

 榛の彼が不機嫌そうに呟いたのを聞き、彼は無意識に微笑んだ。こっちの台詞だと言いたかった。なんであんなことを言ったのかを聞きたかった。何より。

『命あっての物種って言葉を、お前は覚えるべきだよ、クマ』

 赤ちんも似たようなこと言ってたなぁと、こんな時に思った自分が、少し、ほんの少し、可哀想で、可笑しかった。





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 20150405





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