Nobody knows.




 入学して、少し。予想していた通り、僕は誰とも仲良くなることはなく、授業中当てられることもなく、ある意味で穏やかに、ある意味で単調に過ごしていた。つまりは小学校の延長で、ただ私服が制服になり、校則の縛りが少しきつくなったという程度の、中学校はそれだけの差しかないように思っていた。

「あ、黒子。これお前のプリントな」

 日直で学科の教師から返却されたプリントを教室を回りながら一枚一枚クラスメイトに手渡しする彼から、そう声をかけられるまで。

「…え?」

 思わず、思いがけず、驚いた。クラスメイトや教師を驚かせてばかりいた自分が、驚いた。彼はそんな僕の様子にヘーゼルの瞳をぱちくりとさせて、プリントに書かれた名前を見て、僕の顔と、そして胸の名札を順繰りに見た。首を傾げる。榛の髪が、さわりと揺れた。

「お前、黒子だよな?」
「…あ、はい」
「なんだよ、吃驚したじゃん。名前間違えたかと思った」

 そう笑って、はい、とプリントを渡した彼は、また別の人の所へ行ってしまった。

「………」

 去る後姿を、移動して見えた横顔を、僕は呆然と見続けた。…なんだろう。今、何が起こったのだろう。心臓が早鐘を打つ。頬がカッと熱くなって、背筋がゾッと冷えた。
 自分は今、とんでもない体験をした―――それは確かだった。恐らく、今まで自分の影の薄さに飛び上がった人達と同じ体験を、今度は僕自身がしたのだ。幽霊を見たかのような、不可思議な現象に出会ったような、到底信じられない出来事にぶち当たったのだろう。

「僕を見付けた…?」

 戦慄く唇で呟いてみたところで、やっぱりそれは俄には信じられないことだった。当事者なのに否定したい。それは、だって、―――有り得ないはずのことだったのに。

「あ、一番後ろのやつ、俺のプリント」
「え? あ、ほんとだ。はい」
「さんきゅ、降旗」

 休み時間の喧騒の中、遠く聞いた会話、聞こえた名前を。

「――…降旗、君」

 僕はそっと、心の中にインプットした。
 それからも彼は一度として僕がいることに驚かなかった。少なくとも、僕からはそう見えた。驚かないように感情を調整しているという風でも、僕の一挙手一投足に気を配っている風でもないにも関わらず。
 そんな彼とは委員会が同じになって、喋る機会が増えた。勿論、僕はこの機会を逃さなかった。二人にきりになった時、最初の日に心に刻んだ名前を呼んで、やはり驚きの見えない彼に問う。

「何故、僕を当たり前のように見付けられるんですか?」

 彼の答えは、あっけらかんとしたものだった。

「だってお前、目立つんだもん」

 それはない―――反射的に顔を顰めて否定の表情を作った僕の内心を即座に悟った彼は、確かに語弊があるなと呟いた。少し天井を見上げて考える素振りを見せてからまた僕に向き直り、なぁ黒子、と呼び掛けて。

「ないって存在感は、でかいんだぜ」

 そんなことを、言う。

「ずっと前に誰かがそう言ってたんだ。誰が言ったのかは忘れたけど、俺、その言葉がすげぇ印象的で、納得したの覚えてる。当たり前にあるはずのものがないのは、凄く違和感あるっていうか、気にかかるもんなんだって。例えば毎朝食べてるパンがないとか、タイマーをセットしようとしていつもの癖で手を伸ばした先に時計がないとか、毎日同じ時間と場所で待ち合わせしてる奴がそこにいないとか……うん、上手く言えないけど、お前ってほんとそれなんだもん」
「僕、が?」
「そ。黒子はクラス名簿にも載ってるし、教室の座席表にもちゃんと名前があるだろ? だったら、お前はクラスにいて当たり前の人間だ。なのに姿が見えないってのはやっぱ気になるし、そう言う意味で黒子の存在は目立つから、俺にしてみれば誰より目に付くっていうか、目に留まるっていうか…」

 ほら、ドーナツの穴みたいにさ。

 そう最後に微笑みながら、茶化しながら、なのに痛いほど真っ直ぐすぎる眼差しで彼は僕を見る。けれど、その目は。

「……君は、何か…」

 僕を素通りしている気が、して。

「何か、なくしたことがあるんですか…?」

 聞いた彼は、ふと、一度目を瞬かせた。一瞬隠れたヘーゼルの瞳は、再び現れた時にはやんわりと優しい色を湛えていた。次いで柔らかく細められる。そして。

「―――さぁ、どうだろうな」

 口元は、小さな笑みを結んだ。
 それは自然と零れた笑みそのまま、口端に鎮座している。震えることもなく、耐える風でもなく、ただそこにある。

(…その、はずなのに)

 何故だろう。
 僕には、それが泣き笑いに見えて仕方なかった。





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 20150201





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