黄瀬くんの弟
[ 柊:先見の明、用心深さ、機知、歓迎、保護 ]お前、守ってもらえよ。
親友の、その言葉が、あの日の夕暮れと共にまだ脳裏に残っている。
お前一人じゃあ、多分無理だから。
夕陽と同じ、真っ直ぐで紅い眼差し。嘘でなく、からかうのでもなく、彼は本気で言っていた。
お前を守るのはお前じゃない。それは、お前の所為じゃねぇ。
どうしようもないことなんだと、言い聞かせるように言葉を重ねた彼は。
、 。
あの時、笑って、なんと言ったのだっけ。
それと分かる夢がある。例えば今、自分が見ているものがそうだった。
(黄昏の空、誰もいない畦道、疎らな鴉の鳴き声に、それと被る、甲高い絶叫――…)
忘れた頃に、それを見る。狭い道の真ん中で蹲り、嗚咽を漏らしながら、それでもしゃくり上げる喉をなんとか震わせてあの子の名前を呼ぶ幼い日の自分を、今の自分が客観的に見ている夢だ。
鮮明なそれは、夕陽の色さえ生々しく、見ているだけの自分の目をチカリと照らして眩しくさせた。
その眩しさに目を覚ます。重い瞼を押し上げ、傍らのカーテンが引かれた窓を見て、そこから漏れる朝陽が夢の夕陽と被って見えた。また目を瞑り、用心深くその上に腕を置いて陽の光を遮断した彼は、疲れたように溜息を吐く。まったく、―――なんて夢を見たのだろう。
「……メール、しとこ」
絶対、待っとけよその、言葉。
見詰めて、思う。それで何か変わるだろうか。変わっているのだろうか。そもそも変わるほどの何かが、今日にあると言うのだろうか。
何度も考えた。何度も、何度も、今日の夢を見る度に。だがその問いの答えはまだ出ない。今までも、これからも、きっと知ることはないだろう。それでも、だ。
「…もう二度と、あんなのは勘弁っスよ」
苦く言い捨てて、携帯を閉じる。送信ボタンはまだ押さない。部活の朝練があって早い自分とは違い、あの子はまだ寝ているだろうから、頃合を見て送ればいい。通学中か、授業中に、と考えていた彼は、あぁ、そうだ、とあることを思い出してまた携帯を開くと。
ハッピーバースデーヽ(=´▽`=)ノ☆彡そう、文末に付け加えた。そのお気楽な一文と顔文字をしばらくぼんやり眺めていた彼は、やっと気の抜けたようにふにゃりと笑った。けれど強張った表情を歪めたようなそれは一見泣き笑いのようで、それに、暗くなった画面に映る自分の瞳が、あの子のものに似てたから。
(…守らないと)
画面越しにそれを自覚した彼は、そっと閉じた目の上に交差した腕を置き、あの日と同じ強さで唇を噛む。
(守らないと)
今日も、明日も、昨日のように。
(俺が、守ってやらないと)
「―――…光樹」
あの夢の日を、繰り返すわけにはいかないから。
朝は遅い。小学校が近いから、と言うのもあるけど、殆ど母さんの都合だ。自分の分の弁当と晩御飯の下拵えのための炊事、そして二人分の洗濯を、ともなると大変なのは当たり前で、なのに母さんはギリギリまで寝ていたいタイプの人だから、すべき行動と欲求の性質の相性が悪いとしか言い様がない。最近では俺が洗濯することで、ちょっと余裕が出てきたけど。
本当は、本当なら、母さんの行動に自分を合わせる必要はない。早く起きるのは苦じゃないし、学校は給食だから弁当が出来上がるのを待たなければいけないってわけでもない。鍵っ子だから、母さんより先に出てもちゃんと鍵をかけられるから、問題はない。
それでも俺は、母さんの用意ができるのを玄関で待つ。自分一人で外に出るという選択肢はない。小学校三年から始まったそれは、小学六年生になった、今でも。
「光樹、用意できてる?」
すっかり朝の寝ぼけた顔から、スーツをピシっと着、化粧もばっちりのキャリアウーマンに変身した母さんを見上げて、
「うん、とっくに」
とお決まりの台詞を言えば、
「可愛くないわねー。でも、洗濯してくれてありがと」
んじゃ行きましょうか、と言う、これまたお決まりの台詞を返した母さんに促されて俺はランドセルを背負い直し、そこでやっと外に出る。そして徒歩五分の小学校まで車で送ってもらい、正門に入って数歩、母さんが見届けた証に手を振って車で来た道を引き返すのを見送ってから靴箱を目指す。
そこまでが、朝の儀式。この四年、ずっと繰り返してきたこと。
窮屈に思ったこともある。同級生にからかわれたり、妬まれたりするのも鬱陶しいし、今も俺を見てこそこそ言う奴がいるのを知っている。甘えだと言う教師がいるのも、噂に聞いた。
でも、仕方ないんだ。それを、諦めとともに知っている。
これが一番、平和な方法なんだ。それを、経験から知っていた。
「俺は、俺にしかなれないから…」
でもいつかと、夢見なかったわけじゃない。いつか、いつか、一日だけでもいい。一人で登校してみたい。一人で家に帰りたい。自分の足で、車なんか乗らずに。いつか…――と。
ブー…、ブー…
マナーモードにしてあった携帯が、ポケットの中で震えた。丁度人混みが途切れたところだしと、横着にも靴箱の影に隠れてこっそりと携帯を見る。送ってきたのは予想通りの人で、昨日と同じように、長々と予定やらその時間やらが書かれた中に見つけた、その一文。
絶対、待っとけよ昨日にはなくて、時折、思い出したように書かれるそれ。見た瞬間、心を読まれた気がして、反射的にメールを開封したままの状態で携帯を閉じてしまった。けれどもう、また携帯を開く気力はなくて。
「―――…」
そのままポケットに戻して靴箱に寄り掛かる。予鈴が鳴って、あぁ早く行かなくちゃと、頭では思うのに。
「…分かってるよ」
躰は固まって、心はむしゃくしゃして、なのにどこかが無性に哀しかった。
「分かってるんだ」
俺が一番、俺は俺でしかないことなんて。
20141108