夏恋




 蝉の声が、耳奥に一つ。
 朝の、夢から覚める瞬間聞こえるそれは、夏の始まりの日に毎年耳朶を震わせる。
 気怠い。その音を聞いただけで、瞼を押し開くのすら億劫だ。

 夏は、想いを置いていく季節なのだという。
 嫌なことも、いいことも、全て。
 誰に聞いただろう。母だろうか。それとも、祖母だっただろうか。
 兎にも角にも、俺に言って聞かせた誰かにとってそうだったように。
 俺にとっても、夏はそういう季節だった。

 蝉が声を枯らして死ぬように。
 俺の何かも枯れて死ぬような。

 夏は、そんな季節だった。





  summer in rain.




 久々に東京に帰ってきた。蒸し暑い。秋田に慣れた躰に、この猛暑はきつい。緑が少ないからだとか、ビルが多いからだとか聞いたことがある。確かに、視覚的に見てもこの灰色の街に涼しさを求める方が酷だ。
 玉のような汗が肌に浮かぶ。伝うより先にTシャツに染みこんで気持ち悪い。晒した首と腕はじとりとしてるし、ジーパンや靴の中も蒸れて散々だ。
 あぁなんで帰ってきたんだろう。秋田にそのままいればよかった。あっちは夏でも過ごしやすい。娯楽には恵まれないけど、別に快適でないというわけでもないのに。なんで、わざわざ。ぐちぐちと思って、思い出す。

(…そっか)

 そうだった、と、汗で頬に張り付いた長い髪をかき上げる。親に催促されたのもあったが、それよりも。

『僕も、一旦家に帰ろうと思っている。敦はどうする? よかったら予定を合わせて同じ頃に帰って、東京で会おうか』

 そう、彼がメールを送ってきたからだ。その一通があったから、自分はここに戻ってきた。

『赤ちんがそう言うなら』

 返信画面は、その文字が踊っただけ。簡素で、ある意味で素っ気ない。だが時間も自由も相手に委ねた一文でもあって、見る者が見れば重いと感じるだろう。でもそれが自分達の間では普通で、彼はそのメールに特に何を言うこともなく日時を指定してきたし、自分はただそれに分かったとだけ返した。変わらない。中学の頃から、今も。

(…変わる必要も、ないしね)

 自分にとって、彼が全てだ。彼の言葉に否と言う理由はない。疑問を挟んだこともない。意味もない。正しい正しくないなど二の次で、だから黄色の彼と同じく忠犬と呼ばれることもあったけど。

(犬で、いいよ)

 彼が自分を構う理由の一端にそれがあることを知っていた。都合のいい存在だと思われていただろうことも、今もそう思われているだろうことも、自分はちゃんと知っている。その上で、そういう存在でいたいと思った。彼に構ってもらえるのなら、自分は犬にだってなれる。

(それの、何が悪いの)

 尊厳というものはないのかと、緑の彼に一度呆れられながら言われたことがある。対等の存在でなくていいのかと。いいよ、とその時自分は即座に返したんだっけ。構われなくなる方が怖いからいいんだと、言った気がする。

(だってだって、好きなんだ)

 どこが、とか、何が、とか、そういう次元の話ではなく、存在そのものが好きだった。孤高であろうとする姿も、何を考えているか分からない笑顔も、勝利が全てという在り方も、その癖、どこかで崩れ落ちてしまいそうな脆さも。
 そんな彼が自分の腕の中で静かに力を抜いて身を寄せる時の恍惚感は、誰にも理解できっこない。無防備な姿を極力見せまいとする彼が、自分の前では殻を脱ぐ。作った顔を捨て、緊張を解し、自分に背中を預けてくる。擦り寄ることを許してくれる。
 それが自分への信頼や好意ではなく、油断とか軽視とかいった類の心の緩みの上に成り立つものであったと気づいてはいたけれど、構いやしなかった。
 事実、自分には彼の喉元に噛み付く度胸はない。何度その白い項に歯を立ててやりたいと思ったか。回した手を服の下に差し入れ、薄い胸を弄んでやりたかったか。啼いて縋る彼を見てみたかっただろう。
 彼と出会ってしばらくしてからこんこんと沸き出したその劣情は、けれど卒業までの三年間、決して自分の心のうちから僅かも溢れたことはない。彼と自分の力の差を考えれば訳ないことだと思ったこともある。それでも、自分は結局最後まで、そういう意思を持って彼の肌に直接触れることはなかった。

(純愛? うぶ?そんなこと、ないけど)

 彼への想いを秘めながら付き合った女の数は片手では足りない。とは言っても、そこに恋愛めいた感情はなく、ときめきさえない。ただ好きと言われて付き合って、彼に抱いた情欲を彼女達で発散していただけのこと。当然女は入れ替わり立ち代りで、今も昔も、顔や名前なんて覚えてやしない。付き合っている間でさえ、隣に座る女が自分の彼女だという意識もなかった。

(赤ちんがいれば、それで俺の世界は回ってたから)

 それは高校に進学しても変わらない。離れようが、会う機会が減ろうが、そんなことで変わりはしない。問題があるとすれば、持て余した好きに行き場がないということ。

(学校は寮だし、規則とかあってめんどいし、発散させるような場所、ないし)

 溜まる。溜まる。色んなものが。澱のように。泥のように。それでも学校ではバスケをしてればよかったけれど。

(赤ちんに会うのに、それは不味いよね)

 きっとまた、会っただけで駄目だ。欲しくなる。触れたくなる。できないのに、想いだけが暴走する。彼を目の前にすれば、想像の彼を思い描いて抱く気持ちとは比較にならないほどの激情が沸き起こる。

(どこかで、発散させないと)

 どこかで―――誰かで。そう、思った時。

「……ん」

 通りがかりの路地裏で、薄暗い中、重なる二つの影が見えた。頭一つ分くらい違うから、酷くキスがしにくそうだ。サラリーマン風の背の高い方が学生風の背の低い方に覆い被さっている姿勢で、互いの顔は見えない。しかし糞暑いのによくやると、そんな感想を抱いてそのまま歩いていこうとすると、丁度一つになっていた影が二つに割れた。薄暗がりとはいえ、昼間だからそこそこ鮮明に顔が見える。その内の背の低い方の顔に、あ、と口を丸くして、思わず足を止めた。
 見続けていると、二言三言言葉を交わして、背の高い方が向こうの道に抜けていった。残された一人はそれを見送って、見えなくなった瞬間、乱暴に口元を拭った。合意ではないのか、と首を傾げる自分の方へ、その一人が向かってくる。佇む自分に気づいた瞬間、こちらを鋭く睨んできた。それは道に立ち塞がっていることへの苛立ちか、無遠慮に垣間見ていたことへの不快感か。ヘーゼルの瞳が長い榛の前髪から覗いて見える。釣り上がっていて、猫のようだ。威嚇する時のよう。それはほんの少し―――敵を見る彼に似ていた。

「……何。なんか、用?」

 睨むばかりだった相手からそんな言葉を投げられたのは、沈黙が漂って一分を数えようとした頃だった。このままでは埒があかないと不承不承と言った体で問われる。溜息混じりのそれは気怠げで、暑さに、と言うより、喋ることそのものに対する億劫さが滲み出ていた。鋭かった目付きも視線も、伴ってやんわりと緩む。
 たったそれだけのことでひっそりと影が増した気がした。日差しは相変わらずきついのに、雰囲気に、表情に、退廃的な色が差す。この場所だけ、夏から遠ざかる。不意に、さわり、と、首筋を秋風がよぎった気がした。本当に、気の所為なのだろうけど。

(…不思議、というか、変な奴)

 まじまじと見て、それに敏感に眉間に皺を寄せた相手に、問う。

「あんたさ、誠凛の人でしょ」

 答えは返ってこない。ただ皺が深くなって、睨みがまた鋭さを持ち直す。それで答えは貰ったも同然だとちらりと一瞬笑った。そうだ、確かあの場所にいた奴だ。黒の彼と、一緒に。

(黒ちんと同じくらいで、赤ちんとも、同じくらい)

 だから覚えていた。記憶の片隅に引っかかっていた。そうでなければ、今日この顔を見て足を止めることはなかった。初めて会ったと勘違いするほど、その認識さえないまま、通り過ぎていただろう。背丈が彼等と同じほどでなければ、ただそれだけで。

「…あんたは、キセキの世代ってやつの一人、だっけ…」

 記憶から引っ張り出すような辿々しい言い方で、相手は言う。さっきの意趣返しと、こちらも答えてはやらないまま。

「今の、援交ってやつ?」

 口端で薄く笑めば、威嚇に似た睨みが不快を乗算させて鋭利さを増す。見るばかりでなくそこまで聞くか、と顔に書いてあって、けれどそれも少しすれば霧散し、無表情になった。それは怠惰を匂わせて、相手の印象を更に不可思議に見せた。彼とはまた違う、そうそれはどこか黒の彼と、そして他ならぬ自分にほど近い。だからこそ、思う。

(何を、そんなに諦めているんだろう)

 漠然と、そう。

「…金は貰ってないよ。純粋なオツキアイ」

 言いながら、相手の声には皮肉と自嘲が滲む。甘い響きなど欠片もなく、交際相手に何の好意を抱いていないのだと容易に知れた。口を拭ったのはきっとその所為なのだろう。気晴らしか、発散か、分からないけれど。―――だったら。

「ねぇ、じゃあさ、俺と恋愛ごっこ、しない?」
「…は?」
「俺、今相手探してたんだよね。一週間後には帰るから、その間だけでいいんだけど」
「……」
「別にさっきの奴、すっげぇ好きって訳じゃないんでしょ? 好きかどうかも怪しいって感じしたし。じゃあいいじゃん。テイソ―なんか守る必要、ないっしょ」

 ね、と小首を傾げれば、相手は怪訝な顔を更に不可解だと歪ませた。それも当然かもしれない。この提案は自分に利があるだけで、既に交際相手のいる相手にはなんの得もなく、寧ろ損になる可能性の方が大きい。自分にしても駄目だったら駄目で、別の相手を探せばいいかという軽薄さが滲み出ているのだろうし、それを思えばこの会話の内容のなさに彼だったら溜息を吐くだろう。ただここに彼はいないし、彼に似ている相手も、結局彼では有り得ない。だから。

「…あんたはちょっと高すぎるけど…まぁ、いいよ」

 そんな結論も、出る。相手は何を思ってそんな答えを出したのだろう。ふと気になって、相手の言った言葉もなんだか気になったけれど、まぁいいや、と心の片隅に放って問わずじまい。

「俺、降旗。一週間、よろしく」

 言って、型通りの笑みを浮かべる相手に。

「紫原敦。よろしくねー」

 こちらもなんとなく笑って、返した。





 一日目はそれで別れて、二日目に早速寝た。待ち合わせて降旗がよく使用しているというホテルに行き、初めて入るそんな場所への興味もそこそこに降旗の躰に触れる。男相手は初めてで、だから降旗に先導して貰う形になったけれど、それもし始めて少しの間だけ。大体女相手と同じ感じでいいんだと分かってからは、主導権はこっちのものになった。
 そうして事が終わって、ベッドに二人して身を沈めた後に。

「…あんた、してる時としてない時の差、激しいな…」

 くたりと枕に顔を当ててうつ伏せる降旗が疲れた声を出した。なにそれ、と首を傾げる。

「んー、どんな?」
「……喰われるかと思った…」

 くまさんから熊に変わる感じ、と降旗は言ったが、よく分からない。ただ、嘗ての彼女にも似たようなことを言われたのを思い出した。ちょっと怖いのだそうだ。

「ふーん、そうなの」
「気にしてないな」
「うん。だってそんな自覚ないしー」

 それに結局は自分勝手に溜まったものを発散してるだけだし、とは流石に口に出さずとも、けろりと悪びれもせずそう言えば、降旗は一つ大きく溜息を吐き、好き勝手やりやがって…、と小さく愚痴ったかと思うと。

「本当に好きな奴には、もっと優しくしてやんなよ」

 俺だからいいけどさ、と続けた。そう零した時の降旗は微かに笑っていて、それがからかいではなく、優しさから来る言葉だと感じて俺は目をぱちぱちと瞬かせた。

「…なんで、分かったの?」

 その言葉は、俺に好きな人がいるのが前提のように聞こえて、思わずそう返す。降旗はちろりと俺を見上げて口元の笑みを深めた。

「体位なんてどうでもいいって言いそうなあんたが、バックがいいって最初に言ったからさ。あぁ、俺の顔、見たくないんだなぁって。それに、一度もキスしようとしなかったじゃん。お愛想でもしようとしないってのは、そういうことなのかなって」

 それでさ、と言う降旗に相槌も打たず、俺は髪を掻き上げるふりをして顔を隠し、瞼を閉じた。瞼の裏に最中の降旗の背を思い出す。…似ていた。多分数センチの差異はあるのだろうけど、それでも、どうしても、似ていた。

(…赤ちんに)

 だから俺は降旗を選んだんだ。覚えていたのがそうであったように、それ以上でもなくそれ以下でもなく、ただそれだけを基準にして相手にと望んだ。男であることも、男に慣れていることも、その意味で好都合だった。

(赤ちんとしたら、きっとあんな光景が見られるんだろうな…赤ちんもあんな風に善がるのかな…)

 そればかりを思いながら手を這わせて噛み付いた。行為の残滓は、降旗の首筋や肩に残ってる。隠しようもない。遠慮などしなかったし、対して降旗は跡をつけるなと抗議したけれど、聞いてやらなかった。痛みに微かに喘ぐ声を何度も聞いて、でも、止められなかった。声を聞きたかったのかもしれない。啼いて縋る彼に見立てて、嬌声を唇を噛んで押し殺してしまう降旗の。

(…そう言えば、ほんと、声、上げなかったな)

 そっと瞼を押し開ける。躰は正直に反応していたのに、降旗は頑固に声を噛み殺した。指を噛んで、枕を口に押し当てて。何かを守るように、頑迷に。それこそ、抗議するくらいしか言葉を発しもしなかった。自分が話しかけなかったことを思っても、あまりにも会話がなさすぎる。貞節などこういう関係を結ぶからには本当に考慮の外にあるのだろうに、一体何にそんなに拘っていたのだろう。我慢比べだったのだろうか、と考える俺の耳に、それに、と降旗の声が聞こえる。

「俺も多分、あんたが言わなきゃ、そう言ったから」

 どういう意味?、と聞きかけて、気づく。

「…あんたも、好きな人、いるんだ」

 昨日見た男でないことは当然分かって、そして同時に、降旗がこの関係を承諾した時に言った言葉の意味も理解した。

(”あんたはちょっと高すぎるけど”――…俺より低くて、昨日の男くらいの身長の奴が、好きなんだ)

 俺が降旗を体格で選んだように、降旗もまたそれで相手を選んでいるのだろう。ただそこには代替物以上の意味はない。いっそ潔いほど、降旗は冷静に相手を見極めている。躰だけの関係と割り切って。
 でも、だったら何故、他の男に身を投げ出したりするのだろう。叶わぬ恋だったのだろうか。終わった恋なのだろうか。だが例えそうだったとしても。

(殺した声が、そういう、ことなら)

 まだ降旗の心は、そいつに向けられたままなのだろうに。

「駄目だったの?」

 躰の向きを変えて降旗に問う。こちらを向かずうつ伏せる降旗の横顔は薄暗く点けている光源から遠いせいかよく見えない。ただ、遠慮ねぇな、と小さく聞こえた後の返事は、いや、と素っ気ないほど硬く、短かかった。

「駄目も何も、言ってないし、言うつもりもない」

 始まってもいない恋。相手を選ぶ基準と言い、まったくどこまでも自分に似ている。そう思って、そしてその時初めて、俺は降旗という人間をちゃんと見た気がする。彼の代役としての誰かではなく、降旗という名を持つ人間として、降旗を見た。

「なんで。怖いの?」

 無遠慮だとまた言われるだろうか。言ってから懸念したが、降旗はもう諦めたのかそういったことは言わずに。

「…俺には、何もないから」

 そう言って、笑った。相変わらず顔は見えない。ただ声に自嘲ともまた違う無機質な笑みが混じり、暗さも相まって嫌に耳朶に寂しく響いた。

「繋ぎ止めるものがないんだ。向こう…好きな奴が凄すぎてさ。俺、才能とかないし、頭だって普通だし、夢とか語るほどないしさ、何か目標に向かって走ってるわけでもない…。俺にはこれがあるって、誇れるものがないんだ。そんな俺が、好きになって、なんて、言えない」

 ふわりと語尾が掠れる。何かを思い出したのだろうか。それとも、その相手を想ったのだろうか。甘さはない、ただ切ないだけのそれに。

「好きってだけじゃ、駄目なの?」

 そう返す。俺には降旗が躊躇う理由が分からない。自分が彼をこの手に抱けないのは、好きが決して届くことがないからだ。彼が俺を見ることはない。その対象として、愛玩動物ならいざ知らず。

(俺と赤ちんは、結局このまま)

 懐く犬と、それを抱き止める飼い主の関係。飼い主から時折気紛れに与えられる餌に飛びつく犬の役割を、俺は永遠に演じ続ける。それは寂しいのかもしれない。切ないのかもしれない。分からない。

(だって俺は、俺達は)

 そうであることを、選んだから。だから、代わりが必要だったんだから。

(でも、こいつはそうじゃないじゃん)

 届かないかもしれないけど、届くかもしれない。そんな状況でいるのなら、いっそ言ってしまえばいいのに。

「…さぁ。本当はそれで、それだけでいいのかもしれない。好きになってくれるのかも。でもそれじゃあ、結局俺が駄目なんだ。それだけじゃ、俺はあいつの隣に立っていられない」

 臆病だよな、と降旗は喉を鳴らして笑った。今度こそはっきりした笑い声。なのに、寂しさは微塵も変わらない。

「それでこんなこと繰り返してんの? そいつのこと、好きなのに」

 詰るのではなく、ただ純粋な疑問としてそう聞いた。いい加減踏み込みすぎている。そう思ったけれど、言葉は勝手に口から漏れていって、止めようがない。

(…変なの。変なの)

 ただ、躰だけの関係でいいのに。

(こいつの内面なんて、事情なんて、俺が知る必要、ないのに)

 思って、思いながら、俺は静かに返答を待つ。沈黙が過って、逡巡が見え隠れする。それでも待てば、一つ、小さな吐息の後に。

「……好きだよ。でも好きだからって、噛み合わなきゃしんどいだけだ。いつまでも想い続けられるわけじゃない…」

 だから置いていかなくちゃ…。

 くぐもる声、不明瞭に消えた言葉は、殊更枕に顔を押し付けたから。晒される首筋。汗に張り付く髪は、榛で。似ている体格でもそればかりは誤魔化せない。行為の最中はなるたけ見ないようにしていたそれを、けれど今はしっかり見てそろりと手を伸ばす。しっとりと濡れた髪に触れる。

「…だから、諦めたの?」

 問えば、微かな笑声が返る。少しして。

 諦めたいの。

 そう、聞こえた気がした。





 三日目と四日目も、二日目とさして変わりない一日を送った。連日で躰が辛くないかと、一応自分の勝手に付き合ってもらっている手前、そう聞けば。

「それを覚悟した上であんたの提案に乗ったんだから、あんたがこの一週間毎日ってんなら、それに対して文句は言わないよ。ただ、あんたがもうちょっと優しくしてくれれば嬉しいけどね」

 あと肩とか首筋噛むの止めろ、と、棘を多分に含んだ台詞を返されたけど、後半は聞こえないふりをした。相変わらず自分勝手を貫いているから、行為の後、降旗に毎回似たような文句を言われるのは最早お約束だった。

(…あれ、でも)

 以前見た、本当の交際相手とは今どうなっているのだろうと、ふと思う。夕方から夜は俺に時間を割いているから、サラリーマン風だった相手と会う暇はないはずだ。

(夜中とかに頑張って会ってるのかな)

 だったら躰の負担は途轍もないものになっているのだろうけど、降旗はそんな素振りを見せないし、疲れが蓄積されている風でもない。それは若さか、それとも意地なのか。

(……まぁ、本人が言わないんなら、いいや)

 わざわざ問わないまま、気にしないまま、その会話はそこで終わった。そして五日目の夕方、俺はとうとう彼と再会した。

「久しぶり、敦」
「赤ちんー」

 中学の頃よく待ち合わせに使った広場に、俺と彼。着ているものが私服で、彼の髪は以前と違って短かったけれど、あの頃に戻れたような気がして、懐かしさに往来だなんてことは全く気にせず彼にぱふりと抱きついた。
 久しぶりに会った彼は、けれど変わらず彼だった。ちっちゃい。可愛い。食べちゃいたい。腕にすっぽり収まる感覚も、ほんの少し抱き締める体勢がきついなぁと思うのも、全部全部、変わらない。

(赤ちんだ…赤ちんだ、赤ちんだ)

 求めてた感触と匂いと雰囲気に五感が満足される。心が浮き立つ。他に何もいらない。本気で、そう思うくらい。けれど。

「こら、敦、離れろ」
「えー」
「敦」

 彼にその思いは届かない。気づいてないはずはないのに、彼はいつだって無残に俺の気持ちを切り捨てる。

(そんなとこも、まったく変わってないんだから)

 たった一言で俺を思い通りに動かせるところも、悔しいくらい変わらない。

「…赤ちんの意地悪」

 ぷくりと頬を膨らませながらも渋々離れれば、彼はちょいちょいと手で屈むように指図すると、背伸びも合わせて俺の頭を優しく撫でてくれた。

「素直に言うことを聞く敦は好きだよ」

 そう言って、にこやかに笑う。そこに撫でてくれている指先ほどの優しさはない。甘さも、なかったけれど。

(…それだけでいい)

 笑いかけてくれるだけでいい。撫でてくれるだけでいい。離れないのなら、他に望むことなんてない。

「俺はどんな赤ちんも好きー」

 だから、たったそれだけのことで笑顔にだってなれる。心底自分は犬なんだなぁと自嘲するでもなく思いながら、その晩、俺は彼に甘えて甘えて、甘えまくった。降旗が言うくまさん状態全開で、久々であることも手伝ってか、中学の頃よりもべたべたに甘えたように思う。彼もそう思ったのだろう。

「昔より甘えただな、敦」

 呆れるでもなく、どこか楽しげにそう言った。色違いの両目が細められて、まるで観察するよう。そこに面白がる色を見つけてこくりと首を傾げた。

「だって久しぶりの赤ちんだよ? また直ぐ離れちゃうし、目一杯堪能しなきゃ損だし。だから今のうち、赤ちん成分、ほじゅー」

 至極自然なことでしょ、と言えば、彼は何かを含んだ笑みを浮かべて。

「昔は、僕と距離を置きたがっていたのにね」

 そんな、驚くようなことを言う。そんなわけない―――反射的に言い返そうとして、その言葉に思い出した。

(…そうだ)

 確かに、そんな時もあった。その頃俺は、持て余した彼への好きをどうしていいか分からなくて、誰かを身代わりにする方法も思いついてなくて、だから、そう、一時本気で彼から離れようとしたことがあったのだ。いつか感情に任せて彼を傷つけてしまいそうで、そうなったらきっと傍に置いてもらえない。それが怖くて、嫌で、だから。

(距離を置こうと、したのだっけ)

 でもそれも昔のことだ。その少し後に、言い寄ってきた女を代わり身にすることを思いついて実践してたから、結局彼から離れることはなかった。いくら彼の傍にいて感情が爆発しそうになっても、発散させる対象を作っていたお陰でそんなことにはならなかった。それに、今は。

「あんたがいるからねー」
「……なんの、話…」

 晩ご飯を食べた後に彼と別れて、即行降旗を呼び出した。待ち合わせた時間よりも早かったけれど、降旗は小言も言わず応じて、そのままホテルに直行。そして行為に及んだのだけど、彼と会った後でいつもより昂ぶっていた気持ちを鎮めるために手酷く抱いたせいか、降旗の消耗具合が行為の前と後じゃあ歴然としていて、見てる分には面白い。息も絶え絶えという風にベッドに沈む降旗からの機嫌の悪そうな低音の返答に、なんだか笑いも込み上げる。

(ほんと、頑固)

 遠慮なんかしなかった。ここ数日で知った降旗の良い所は、多分全部触ってやった。途中まで発散させることしか考えていなかったから記憶は酷く断片的だけど、落ち着いてからほんの少し悪いなぁと思って降旗を労るように抱いてやっても、結局声一つ上げやしなかった。激しい行為にぐだぐだに疲れながらも、声が少しも掠れてないのがその証拠。変に押し殺した分だけ呼吸がし辛いのか、こほこほと咽ている。それでも何か言わなきゃ気が済まないと思ったのか、こっちを見ないまま恨み節のような声を漏らす。

「何、今日の…熊っつーより、野獣じゃん…」

 絶対今日の噛み跡、血ぃ滲んでんだろ…、と降旗が言う通り、見れば歯型に薄く赤い色が乗っていた。さすがに今までの彼女に噛み付いたことはなかったから加減が分からなかったのだけど、これなら大丈夫かとティッシュを押し当てて血を拭きとりつつ。

「言ってなかったっけ。今日、好きな人に会ったんだー。久々でさ、超幸せ」

 へらっと笑えば、細く長く続く溜息が返された。あぁそれで…と言うような溜息で、一層力が抜けたのか、躰がよりシーツに沈み込む。

「それで明日も会うことになったから、多分明日も今日みたいな感じになるけど、よろしくね」
「…明日もこれとか、俺、壊れそう…」

 僅かに顔を上げた降旗にじとりと睨まれる。だから優しくしろと言いたげで、そうじゃなきゃもう相手してやらないと言い出しかねない顔。そんな降旗に、一言。

「文句、言わないんでしょ?」

 にやりと片笑む。降旗はそれを受け、むすりと不満気な顔をして枕に突っ伏したかと思うと。

「…ちっくしょ…」

 小さく聞こえた悔しげな悪態に、俺は今度こそけらけらと笑った。





 翌日は昼から時間が空いていると彼が言ったから、正午近くに待ち合わせ、その足で飲食店に入り、出た後は中学時代よくみんなで行ったスポーツ用品店に足を伸ばした。内装は変わらないものの、商品の位置や取り扱うものが増えていたりして、そんなところに時間の流れを感じたりしながら、二人連れ立って店内を見て回る。数点の買い物をした後に彼は、他に行きたい所がないなら久々に家に来る?、と誘ってくれた。

「わ、ほんと? 行くー」

 純粋に彼と二人きりになれるのが嬉しかった。きっと彼の家でなら、抱きつく以上に外では決して許してくれない、彼を膝に抱くことが許される。俺の特権で、俺だけが彼の仮面を剥いだ素顔を見られる瞬間。その時やっと、コップに水が満たされるように、俺の何かも満たされる。

(それと引き換えに、失うものもあるけど)

 でも、構わなかった。今回だってちゃんと対策してあるからと自分自身に言い聞かせて、彼の家に行く。店とは違って以前のまま、最後に遊びに行った時と何一つ変わりなく、どことなくそれが彼らしいと思った。
 そこで特に何かするわけじゃない。ただ久しぶりに彼を後ろから抱き締めて、彼が喋ることに相槌を打ったり、二人してテレビを見たり。そんな、何でもないことばかりして時間を過ごす。
 たったそれだけだと言うのに、足りないものが埋められていく感覚。彼からふわりと香る匂いとか、くっついてる所からじわりと移る体温とか。そういったもので心がほかほかする、嬉しくなる。そう感じながら、不意に彼の肩に額を擦り寄せて、思った。

(――…やっぱり、好き、だ)

 彼が好きで好きで、好きだった。どうしようもなく、好きだった。この恋が成就する時は永遠に来ないと分かってる。そんな時を想像することもできなかった。俺と彼はどこまでも離れてて、平行線で、背中を預けられて胸を貸しても、それは何の意味もない。彼は何でか俺を選んで、選ばれた俺はそのことに喜ぶだけ。選択権はいつだって彼にある。俺は何も選べない。

(それでも好きだよ…大好きだ)

 そう、何度も心の中で告白する。溢れる想いの分だけ告白する。その分だけ死んでいった好きは、もう両手なんかじゃ数え切れない。そんなことなんて何も知らない、知ろうともしない彼は、ぎゅっと一瞬抱く力を強めた俺の腕に手を置いて、微かに笑ったようだった。

「敦はほんと、抱きつくのが好きだね」
「…赤ちんだけだよ。こんなこと、他の誰にもしないよ」
「そう」
「赤ちん、だけだから」

 そんな睦言めいた言葉の裏に真摯な色を潜ませて囁いてみても、彼の顔色はちらりとも変わらない。満足気な顔だってしてくれない。ふわりと長い睫毛を瞬かせて、そう、と静かに言うだけだ。他の誰かが相手なら、相手が喜ぶように優しい笑顔だってみせるのに。その無表情が彼の素顔なのだと、彼の本音なのだと知るから辛い。仮面を剥いだ彼に、こんな時だけ辛くなる。俺を見ない、見てくれない彼に哀しくなる。彼にとっての俺の立ち位置を突き付けられて切なくなる。でも分かってるんだ。だってそれは当然で、当たり前のことで、だから。

(好きは、死んでいくだけだ)

 ぽつりと思って、小さく笑う、目を閉じる。そうして真っ暗な脳裏に浮かんだのは、何故か夏の蝉だった。

「―――んじゃあ赤ちん、またねー」

 夜も更け、外が真っ暗になった頃に俺は彼の家を辞した。別れる辛さとか燻る熱なんか微塵も感じさせない明るさで言い、ひらりと手を振れば、彼も笑顔と一緒に返してくれた。その時玄関の灯りが彼の赤を一層深くしていることに気がついて、綺麗、だと思った。そしてそれを覚えておこうと思った。また今度、会う日まで。

(これでしばらくは頑張れる。後は、溜まったものの処理だけ)

 彼の家からずっと離れてようやく、昼から電源を切って放置していた携帯を開く。着信が一件あって、それは降旗からのものだった。

(いつもの所、ね)

 了解と一言返信するのも億劫で、どうせ待ち合わせの時間も近いしと、そのまま向かうことにした。
 しかし、と口端で笑う。あれだけぐったりして恨みがましい目をしてたのに、今日も当然のように付き合ってくれる降旗は、なんだかんだでいい奴だ。利害の一致とは言え、同意の上で欲の捌け口になってくれるのは本当に有難い。女じゃこうはいかないから。

(まぁ、それも今日で終わりだけど)

 明日の朝に秋田に帰る。だから実質降旗に躰を貸してもらうのは今日の晩が最後で、それを降旗には言ってなかった。昨晩言い忘れていたのだが、でもまぁいっか、と夜空を見上げて思う。今日、別れる間際に言えばいい。

(何て言おう。ありがとう? お疲れ様?)

 せめて一週間付き合ってくれた降旗に何か言うべきだろうかと考えながら、待ち合わせの場所を目指して歩く。途中、このまま行くと降旗と初めて出会った路地裏を通りかかることに気がついた。そう思うと、たかだか一週間前のことだと言うのに、なんだか変に懐かしい。東京に着いたばかりの頃はあまりの暑さに辟易して早く帰りたいなんて思ってたのに、今思えばあっという間だった気もするし、現金にも悪くない一週間だったさえ思う。

(満足ってのとは違う気がするけど)

 それでも、会いたい人と会えて、溜まりに溜まった欲求を発散できて。なんだかんだでやっぱ帰ってきてよかったなぁ、と、ぼんやりほわほわしながら思っていると。

「……ん」

 いつの間にか、例の路地裏の直ぐ傍まで来ていた。しかし夜ともなればまた雰囲気が違う。以前は夏の日差しから隠れるようにひっそりとしていたそこは、今は逆に街灯の仄白い光に照らされて奇妙なほど浮いていた。変なの、と思って、やっぱり懐かしいな、と思って、―――眉を顰めた。
 気づいたからだ。夜に響く、罵倒と殴打の騒音に。
 それはビルとビルの合間に反響して耳を劈き、耳に刺さる。酔っぱらいの喧嘩か、はたまた血の気の多い不良の闘争か。距離があるからか聞こえる怒鳴り声はくぐもっていて、何を喋っているのかは分からない。知りたくもない。事情があるとかないとかも、どうでもいい。

(煩い。煩い。耳障りだ)

 無性に腹が立った。急に酔いが覚めたような気分になって、まるで温かい夢から叩き起こされ、冷たい現実を突き付けられたかのよう。すっと引いていく熱に抱くのは、不快感以外の何物でもない。
 だから早く通り過ぎてしまえばいいのに、何故かわざわざそこに近づいて路地裏を覗きこんだ。そこでそんなことをするのは誰だと、目を凝らして見たりして。幸い街灯は近くにあって、その真下でやりあってるからよく見えた。

(…そう)

 よく、見えてしまった。

「――……降旗…?」

 見知った奴が、今から会おうとしていた奴が、どっかの誰かに殴られ蹴られている、その場面が。

(……え…な、に…? なんで…)

 ぽかりと口が開いた。目を驚愕に押し開く。何。何。どうして…。予想だにしなかった光景に、憤りはどこかへ消えて、頭の中がぐちゃぐちゃにこんがらがる。

(待ち合わせは、ずっとずっと、向こうじゃん)

 だから、あいつがここにいるはずないし、俺は通りすがっただけ。…そう。いつもと違うルートなんだ。彼の家に寄ったから俺は今ここにいて。だから、もしそうじゃなきゃ…――あぁ、もう、なんで。

(あんた、殴られてんの? 蹴られてんの? 怒鳴られてんの?)

 意味、分かんない。

 呆然とする。頭が働かなくて、真っ白になって、動けないまま暗がりに突っ立っている俺の耳に、反響に反響を重ねて意味を成さなかった音が、殴打の音を掻い潜って届く。

 浮気なんかしやがって…ッ、誰だっ、この一週間部活で忙しいとか言ってたくせに、誰と寝てやがった…、その噛み傷は誰が――…。

 聞いて、聞こえて、理解したのは、降旗を殴っている奴が以前見たサラリーマン風の男だってことと、降旗が俺と会うために男に嘘を吐いて会ってなかったってこと。俺との関係がバレたこと。それが。

(俺が噛んだ跡で、バレたってこと)

 それで、そのせいで、こんなことになっている、と、いうこと。

『―――あんま噛むんじゃねぇよ』

 降旗が言った言葉が、今更のように思い出される。咎めるように窘めるように、何度も何度も言われた。

(散々、言われた、のに)

 聞かなかった。毎晩加減なんかせずに、できずに、好き勝手して。そう言うのだって本気じゃなくて、どうせ無理を強いる俺に何か言わずにはおれないとか、その程度の言葉だろうと。

(…ばか)

 俺にとっては行きずりの関係で、降旗もそれは承知だったけれど。

(ちゃんと、考えるべきだったんだ)

 降旗には、俺とは別に恋人がいるってこと。

「……馬鹿」

 小さく漏れる。ぎり、と手を握れば、爪が皮膚に食い込んだ。じわじわと溢れる感情は、でもそれじゃあ堪え切れない。

(考えなしだった俺も、助けを呼ばない降旗も、子ども相手に暴力振るう奴も、みんな)

 溢れる―――溢れて。

(ほんと、)

 むかつく。

 一息吐く。それで、終わり。覚悟らしい覚悟なんてない。ただ進路を変えただけ。ここに相手がいるのに、一人待ち合わせの場所に向かうなんて馬鹿らしい。だから一歩踏み出した先が路地裏だったとしても、何の不思議もない。歩きつつ、するりとポケットから出して手に持った携帯を、如何にもそれらしく掲げてみせて。

「―――あーあ」

 わざとらしく、そう声に出し。

「みーちゃったみーちゃった」

 どうやらちゃんと聞こえたらしい二人がハッとこっちを向いて、それぞれ突然の第三者の登場に表情を強張らせたのを見ながら、降旗の顔が徐々になんでと言いたげにくしゃりと泣きそうな顔になるのを見ながら、そう、戯けてみせた。

「ついでに動画も撮っちゃったー。凄いね、最近のケータイ。夜なのに、超綺麗に映ってる。あんたの顔、ばっちり」

 そこに電灯があったのがあんたの運の尽きだね、なんて、笑いながら言う。けらけらと声に出して笑ってやって。

「警察に、言っちゃおうかなー」

 最後に、にこり、と笑った。普段でさえ滅多に笑わないから、どこか違和感。でもそんなこと言ってられない。気にもならなかった。いつもそうやって笑ってるんじゃないかと思うほど、自然と頬が持ち上がる。…なんで、だろ。

(俺、今)

 凄く怒ってるのに。

「寄越せ…!」

 飛びかかってくる男。どうも撮られてはまずいらしい。警察に言われてはまずいらしい。それは、そうか。

(俺、動画って言ったからね)

 写真だったらまだしも、動画には音声もついてくる。あの男が口走った浮気とか色々な言葉について根掘り葉掘り聞かれたら、例え全て降旗が悪いのだと言うにしても、二人の関係を誤魔化すのは容易じゃない。降旗がホテルの名を口にすれば、入り口の監視カメラには仲良く連れ立って入っていく二人が写っているだろうから。だから必死の形相で掴みかかってもくるだろう。俺と自分の身長差も、体重差も、鑑みずに。

(―――馬鹿、でしょ)

 周りにバレて後悔するような関係なら最初から築かなきゃいい。胸を張っていられないなら殴らなきゃいい。それだけのこと。

(浮気を咎めるのは分かるけど、でもそれで子どもを殴るなんて。無抵抗の奴、蹴り飛ばすなんて)

 ムカムカする。苛々する。馬鹿馬鹿しい。それ、以前に。

「…俺に奪う奪われるのゲームで勝てると思ってるとか、超命知らず」

 ぽつりと呟いて、向かってきた男をするりと躱す。躰の大きさに俺の動きは鈍いものと踏んでいたのか、なんなく躱した途端、男の顔が驚きに染まる。踏み止まることもできず、そのまま男の大きく空振った拳は行き場を失い、躰の重心がブレて男の足がたたらを踏んだ。その足を払えば、男は簡単に尻餅をついて座り込む。
 呆気ない。ついさっき怒りに任せて拳を振るっていた様子を思えば、拍子抜けするほど無様だった。日頃大して運動してないに違いない。そう思って嘲笑ってやりたかったけど、もう笑顔の作り方は露ほども思い出せなかった。自然、無表情になる顔。その顔で男を見下ろす。睨みつける。

「またこいつに手ぇ出したら」

 感情の赴くままに手に力を込めれば、掌の中、持っていた携帯がミシリと鋭く悲鳴を上げる。

「―――捻り潰すよ?」

 音が減ったその場にそれは嫌に響いて、それで歯向かう相手を間違えたことをやっと悟ったのだろう。男は怯えた目をして俺を見たまま、少しでも距離を取ろうと座ったまま後退り、そしてそのまま吐き捨てる言葉もなくけつまろびつ逃げていった。
 それを追わず、最後まで見届けることもせずに、俺は地面に座ったままの降旗を見た。途端、さっきまで抱いていた怒りが急激に萎んで、戸惑いが胸に渦巻いた。

(……どう、しよう)

 どうしたらいい? 手を差し伸べればいいのか。ごめんと言えばいいのか。大丈夫かと、気遣えばいいのか。

(分かんない…俺…)

 まさか、こんなことになるなんて。

 血が滲む口端。ところどころ擦り傷があって、痛々しい。手当しなきゃ…骨が折れてないとか確認して、謝って…。思うだけ思って、見るだけで何もしない、できない俺の視線の先で、降旗が地面に横たえていた躰を起こす。しばらく降旗はうっそりとした表情で地面を見ていたかと思うと、今更のように俺の影に気づいてか、不意に俺を見上げて凝と見る。そして、その数秒後。―――にこり、と、笑った。笑って。

「ありがと。助けてくれて」

 そんなことを、言う。

「あいつヒョロいくせに強がってさ、まぁ、スポーツなんて体育でしかやってませんってな男のパンチなんざ、少しも痛くねぇよ」

 全然、大丈夫だから。

 と、けたけたと笑う。何でもないように、ちょっと転んだだけと誤魔化すように。俺が罪悪感を抱かないようにするため? 何、馬鹿なこと言ってんの。

(嬉しく、ない…そんなの、全然…――)

 そんな、頬を赤く腫らして、唇を血で汚して、腹押さえながら、何、強がってんの。

(――…嬉しく、ないよ)

 ギリ、と手を握り締める。苛々、した。萎んだ怒りがまた膨らんで、腹が立って、どうしようも、なくて。

(全部全部、自分が悪いって、分かってたけど)

 なんで笑うの。なんで何も言わないの。なんで殴られて当然って顔してんの。

(むかつく。むかつく。なんで)

 お前のせいだって言わないの。

(ごめんって、言わせてくれないの)

 ガッと腕を掴んで手を引いた。無理矢理立ち上がらせて、驚く降旗を引っ張って無言のまま歩き出す。時折遠慮のない歩みに痛めつけられた躰が軋むのか、鋭く息を呑み呻く降旗を知りながら、それでも無視した。優しくなんてしてやれない。逃げないように痣ができそうなほど手首を強く握って、抗議に似た声も言葉も聞かず、俺は共働きで夜遅くまで帰ってこない両親のお陰で誰もいない真っ暗な自宅に降旗を連れ込んだ。
 自室に直行し、掴んでいた降旗をボールの要領でベッドに放る。傷に響いたのか息を詰まらせて、無体を働く俺を涙目で睨む降旗に。

「な、にッ、――…ん…っ」

 口付ける。一瞬触れるだけの、そしてそのことに目を見開いて固まってしまった降旗の隙を突いて、今度は貪るように。拙く抗議する手が空を切る。押し返そうとする力は弱々しく、そこには驚きと躊躇いが同居して、降旗の動揺が窺える。でもそんなものに構ってられなかった。気づかないふりをして、息さえ奪うようにキスを繰り返した。無心で、気持ちよさなんて二の次で。

「ッ、はっ、ぁ…!」

 やっと放した時、降旗は荒く息を吐きながら、それでも理性を持ったままで俺を見た。つるりと淵に留まり切れなかった涙が、火照った頬の上を流れ星みたいに落ちていく。それが月明かりに光って、綺麗。指で拭ってしまうのは勿体なくて、けれどそのまま落ちるだけならと舐めとった。しょっぱい。舌が微かに痺れる。それがなんだか今日の夜の何もかもに似ているように思えて、胸が痛い。

「なん、で…」

 降旗の声。脆く、震えたそれに、俺は何も応えない。

「…いいの…?」

 それにも、何も応えない。

「紫原――…」
「黙って」

 言葉を遮って、また口付けた。もう言葉は要らない。いいも悪いもなかった。俺だって自分が何をしてるのか分からないんだ。こんなこと、多分、絶対、するつもりじゃなかったのに。

(ごめん…ごめん…)

 誰に向かっての謝罪だったんだろう。彼か、それとも、降旗か。

(分からない、知らない、何も)

 熱かった。躰も、頭の中も、降旗に触れるそこもかしこも。なんだろう、何故だろう。血を滲ませた唇が許せないのか、あの人でなしが許せないのか、こうなった原因の自分が許せないのか。そもそも胸に渦巻く感情は怒りなのか。それさえ俺には分からない。

(気持ち悪い。むかつく。なんか、やだ)

 心の中はぐちゃぐちゃで、雨が降った後の地面みたい。だからもう何も考えないことにした。ただ熱を辿って、貪って、奪うように忘れるように。

(そうして)

 その夜、俺は降旗を正面から抱いた。降旗は涙を、声を殺さなかった。最初から―――最後まで。

(そのことに意味なんてない)

 ごっこ遊びに、意味なんて。





 朝日の中を歩く。とは言っても平日の七時ともなれば東京は既に人混みでごった返し、和やかな雰囲気など望めない。それでも、どことなく俺達の周りは静かだった。

『…ごめんは、聞かない』

 抱き潰すように抱いて気絶するように寝入った降旗は、朝、起き抜けに静かにそう言った。そういうのは、要らないと。

『俺が欲張ったせいだ。欲しいもの一つだって手に入れられないのに、二つもなんて思ったから罰が当たったんだよ』

 それだけのことだからと言って、やっぱり笑った。俺はもう怒らなかった。何も感じないわけじゃなかったけれど、こいつはこういう奴なのだ、という認識として、ある種諦めとともに受け止めただけだった。降旗がこういう奴だからこそ、自分の提案に乗ったのだとも理解していた。

『それに、仕返しならしたし』

 と、無邪気に繋いだ降旗は、そう、昨晩の行為中、初めて俺の首筋に噛み付いてきた。しかも、遠慮なく。

『…痛かったし』
『お前な…俺のはあんなもんじゃなかったぞ』

 呆れて言って、また笑う。気持ちのいい笑顔だ。楽しいから笑う。降旗には、そんな笑顔がよく似合うと思った。
 その後、そう言えば降旗がいることを母親に言ってないことに気がついて、朝食をどうしようかと考えつつ階下に降りれば、ちゃんと降旗の分まで作ってあった。どうやら帰宅した時に玄関にどう見ても俺のサイズじゃない靴を見て、友達が泊まりに来ていると察してくれたらしい。俺が誰かを家に泊まらせるなんて初めてだからと、母親は張り切って朝ごはんを作ったのだとにこにこと笑って言った。
 それからお節介なほど降旗の世話を焼こうとする母親から降旗を引き剥がし、このまま降旗を置いていけばどうなるか分かったものじゃないと、電車の時間を考えると少し早いが降旗を連れて家を出た。
 何も説明しなかったが、荷物を見て気づいたのだろう、そっか今日帰るのか、と降旗は独りち、見送るよ、と言った。
 それから降旗は何も喋らなかった。俺もなんとなくその雰囲気を壊すのを躊躇って、結局駅につくまで一言も口を利かないままでいた。喧騒の中にいながら、喧騒からは程遠い中、肩を並べて歩く。見下ろして、降旗の首筋に視線を彷徨わせた。もう、噛み跡は見当たらない。あんなのは二度とゴメンだと、昨日は歯を立てることなく、その代わりと言うように、今度は俺が降旗に噛み付かれたのだけど。

(咬み傷のお引越し)

 昨日はあって、今日ないもの。昨日になくて、今日あるもの。それで二人で一つと言ってしまうのは、なんだか調子がよすぎるけど。

(不完全な者同士、一週間、楽しかったね)

 心の中で言う。降旗もそうであったらいいなんて、酷く身勝手に思いながら。

「あんた、もうあんなこと止めた方がいいよ」

 駅の手前の、交差点。赤信号で立ち止まった時、降旗に向き直ってそう言った。俺が言えた義理じゃないけれどと小さく笑い、ちゃんと好きな人と、と続けようとして止めた。降旗が既にその相手との恋愛を諦めているように、自分だって彼と恋人同士になれるとは到底思えない。そんな俺が、そう言う資格はないと思ったから。

「あぁ、大丈夫。俺が誰彼構わず相手探すの、夏だけだから。もうそろそろ夏も終わりだし、新しい奴見つけることはしないよ」

 夏に何かあるのだろうか。来年は、どうするのだろう。考える俺に、なぁ紫原、と声がかかる。何?、と我に返って降旗を見返す。視線が交わって、ヘーゼルの瞳を覗く。ふわりと和らいだ色を見せた双眸に、紫が混じったのに気づいた時。

「俺は、その誰かの役割を、ちゃんと果たせた?」

 言って、降旗はふわりと笑う、笑う、空虚に。せめてそうであれば、この一週間の関係も意味のあるものになるのだけどと願うよう。頷けば慰めになるだろうか。心を安らげることができるのだろうか。そう、思いながら。

「…ううん」

 首を振る。横に振る。緩やかに、それでもはっきりと。途端、笑みが哀しいものに変わった。そっか、と俯いて零された声もひそりとして張りがない。出会った日の、あの影を思わせる。それを見て取って、それを狙って、でも、と言葉を接いだ。

「あんたは、あんただった」

 え、と降旗が顔を上げる。俺はただ、微笑んで。

「あんたで、よかった」

 降旗はゆっくりと一つ瞬いて、その間で俺の言葉を嚥下する。そっと瞼を半ばまで閉じて大事なものを見る顔をしたかと思うと、そっか、と遅れて零された。さっきと同じで、でも違った。声に含まれる感情が明るくなって、表情も俄に晴れる。そうして。

「…一つくらい、覚えててもいいのかな」

 そう、小さく零した降旗。意味は分からない。何を思ったのだろう。けれど分かる必要はないと思った。それは無関心ゆえの放置ではなく、自分達の距離感を鑑みての措置だった。

(俺と降旗は、ここで終わり、だから)

 だから知る必要はないのだ。心を残す必要もない。来年にまた会っても、久しぶり、と言うくらいの関係でいい。――…だから。

「じゃあね」
「うん」
「ありがと」
「ばいばい」

 言って、ただそれだけで離れる。身を翻して、もう振り返らない。相手もきっとそう。信号は、青。それでいい、それで。

(…あぁ)

 駅に向かう最中、日差しに目が眩む。だが帰ってきた当初の暑さも、ギラギラとした輝きも鳴りを潜めている。朝だからと言うには空気はさわりとして、乾燥していると言うよりはただ爽やか。それは、秋田の夏を思わせて。

(そっか…)

 心の中で静かに。

(夏が、終わったのか)

 ふと、思った。





 蝉の声が聞こえる。
 これが最後だと言うように絶叫する。
 命を削って、最期まで。
 夏に響く。
 心に劈く。
 耳奥に、遺る。

 来年もこの声を聞くだろう。
 夏の始まりの日に。
 優しい夢を、粉々にぶち壊しながら。

 そう思いながら、降旗は雨のように降ってくる蝉の鳴き声の只中にひっそりと立ち尽くして。
 不意に背後を振り返る。





 秋風が、首筋を通った気がした。





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 20121026
 summer in rain(夏の雨) = shrill of a cicada(降り注ぐ蝉の鳴き声)





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