Risky




 恋愛は面倒だ。その持論を崩したことはない。
 例えば言い寄ってくる女を拒まなかったとして(拒んだ時の方が面倒だった)、例えば複数の女を一遍に相手していた過去があったとして(バレなきゃ面倒じゃない)、例えばセックスが特別好きでも嫌いでもなくても(躰の構造上、溜まるもんは溜まる)、俺の中では一貫して、恋愛事は面倒な部類に入っていた。
 と言うか、女が面倒だった。遊びと本気の境目も分からない奴が多すぎる。セックスすれば恋人気取りになる奴も過去にいて、そいつとはさすがに早々に縁を切ったけど、俺は基本的に「来る者は拒まず、去る者は追わず」を信条としていた。今ではその姿勢を前提として、寧ろその姿勢に共感した女とだけ関係を持つから、面倒事は減った。それでもある時はあるけど。
 でも、まぁ、だから﹅﹅﹅ってわけじゃない。

「―――先輩っ」

 子犬のように尻尾を振ってくるに手を出したのは、そういうわけでは、なかった。





 降旗光樹。その名前を聞いたことはあった。喧嘩が強くて負けなしの、一つ下の後輩。運動部、特に空手部や柔道部が暇さえあれば勧誘しては断られているとか、喧嘩の請負をしているとか、番長として慕われてるとか、意外にお調子者で寂しがり屋だとか、噂は尽きない。でも悪い噂を聞いたことはなかった。
 学年が違うと教室のある棟が変わる中学では中々お目にかかることはなかったけれど、ある日ダチと渡り廊下を歩いていた時、偶然擦れ違ったことがある。俺は遠慮もなくじっと見たのだが、向こうはこっちをちらりとも見なかった。噂通りなら視線に敏感でもよさそうなのに、と思っていると、近づいた時にその謎は解けた。光樹は隣にいるクラスメイトと、次の英語の時間に行われる小テストの単語を覚えるのに必死だったのだ。その様子はどこにでもいる中学生にしか見えなくて、少し頬笑ましく、だから黒い噂がないのかもと思ったのを覚えている。
 ちゃんと出会ったのは中三の夏だ。バスケ部の中学最後の公式試合に、光樹が来ていた。と言うのも、バスケ部に光樹の親友がいたのだ。それが火神大我で、火神に言わせると、親友と言うより悪友と言った方が当てはまる間柄らしい。中一で出会ったと言われた時は少々驚いたくらい、まるで幼馴染のような仲の良さだった。
 試合後、光樹が火神に駆け寄った。勝ちを拾ったことへのおめでとうや、頑張ったなという労いで埋め尽くされた台詞に。

『彼女か』

 と、近くで聞いてた俺は思わず笑いながら突っ込んだ。え?、と驚いてこっちを見た光樹。その時初めて光樹の顔を間近で見て、その澄んだ両目に見返された。瞬間、噂とも一度だけ見かけた時の様子ともまた違う、酷く緊張した顔をした。と言うよりも、凄く照れたような。その顔で。

『き、木吉先輩…!』

 と名前を呼ぶから、俺はちょっと驚いた。

『あれ、なんで俺のこと知ってるの? あ、火神が言った?』
『あー…ちらっとは言ったかも…です』

 相変わらず変な敬語を使う火神の言葉なんか聞こえてない様子で、光樹が続けて喋り出す。

『あ、えとっ、火神、から、よく話は聞いてて、で、あの…っ』
『お前なんでそんなテンパッてんだよ』
『う、煩い!』

 らしくねぇと言う火神に噛み付く光樹に、

『あー、喧嘩しない』

 と宥めれば、すみません、とシュンとする。犬耳があればへたれてんだろうなぁと笑いながら思って、

『で? どうしたの?』

 何か言いかけてたでしょ、と促せば、光樹は目に見えて狼狽えて言おうとしない。どうやら落ち着いてしまって、自分が言おうとしたことが何やら言うべきでなかったのかもと考えてしまったらしい。遮らずにさっきのあの調子で喋らせていればよかったな、と後悔していたところ、火神のせっつきもあって、とうとう。

『きょ、今日、凄くカッコ良かったです…!』

 光樹はそう言うだけ言って駆け足で去っていった。ぽかん、とする俺の横で。

『…ファンか』

 今度はそう突っ込んだ火神に、俺は思いっきり笑った。―――それが、初対面。





 それから光樹とはちょくちょく会うようになった。それまで他の部員に任せていた後輩へ連絡事項を渡す役割を引き受けるようにして、わざわざ火神のクラスまで足を運ぶようになったからだ。
 光樹が火神と同じクラスであることは知っていたし、そうして俺が姿を見せれば何をしていても飛んでくる光樹を見るのは楽しかった。懐かれるのも、真っ直ぐ好意を寄せてくる視線も心地よかった。
 そこには女がよく孕ませる余分な情はなく、ただ好きだ、という感情だけがあって、それは清々しく、女だったら気づかないふりで押し通すそれを、俺は時々拾ってやった。そうすると自分の好意が知られてないものと思い込んでいる光樹は驚いて、びくびくして、可哀想なくらい怯えた。嫌われないかと窺うようにこっちを見る光樹のヘーゼルの瞳は、食べてやりたくなるくらい甘い色を滲ませた。でも、耐えた。はぐらかして、結局何も気づいてませんよ、というふりをすれば、光樹は面白いほど引っかかった。ほっとした表情に、柔らかくなる微笑。そして、ほんの少し残念だな、と言いたげな陰り。普段は隠されている光樹の危うげな部分が浮き上がるその瞬間は、俺の心を否が応でも揺さぶった。
 好き、とは違う感情だと気づいていた。躰がほしいわけでもない。言うなれば独占欲とか、征服欲とか、庇護欲とか、そういった種類の感情。手元に置いておきたい。可愛がりたい。酸いも甘いも自分が噛み砕いて教えてあげる。言いたくて、言わずに待った。光樹が諦めて離れてしまわないように絶妙な頃合いで餌をあげて、甘やかした。
 光樹はそれで随分泣いたらしい。辛い。諦めてしまえれば楽なのに。でも好きなんだと、あの優しさに触れていたいと、そう繰り返しては泣くのだと、火神が俺を恨めしそうに見たこともあった。火神は当然気づいていた。俺がバスケのコート上で見せる顔は本物だけれど、コートを出てしまえばまた別の顔が出ることも。

『やめとけって言ってんのに、聞きやしねぇ』

 俺を前にしながら遠慮なくそう言って、火神は。

『これ以上泣かせるくらいなら、早くくっついてくれた方がマシだ』

 そうしたら取り敢えず光樹の笑顔は戻ってくるからと、どこまでも悪友を想う火神に『偉いな』と思わず伸びた手で髪を撫でてやれば、鬱陶しいと払われた。

『コートの上では尊敬する。でも今の先輩はあんま好きじゃねぇ』
『…それでも降旗を手放すんだ』

 説き伏せてしまえばいいのに。連れ添った仲なら、それは然程難しくはないだろうと言う俺に、火神は皮肉のつもりかと気分を害した顔で吐き捨てるように言った。

『あいつが今ほしいのは、俺の言葉じゃねぇから』

 分かるか、と火神は苛立ちを隠さずに俺を睨む。それまでは辛うじて取り繕っていた後輩の顔をかなぐり捨てて、火神はその性格の苛烈さを一気に剥き出しにした。

『あいつをあぁしたのはあんただ。もう先輩後輩ごっこで済む範囲を超えちまった。とっくに越えてんだよ。分かってんだろ? あんたは、最初から』

 俺はそれに応えない。その通りだったのもあるし、違うと嘘を吐くのも面倒だった。火神は俺の返事の有無に拘ることはなく、一息のうちに随分熱を下げて無表情に立ち返ると躊躇なく踵を返した。そして。

『これからもどっちつかずの関係続けるつもりなら、俺にも考えがあるから』

 そう言って歩き出す。

『…脅し?』

 火神はその問いに、忠告っすよ、と振り返らずに応えた。





 そのことがあってしばらく、俺は火神のクラスに行くのを止めた。あの後輩に飽きたのか?、と笑うダチに適当に返しながら、連絡役はまた前の奴に押し付けた。そうするだけで光樹と会う機会は全くと言っていいほどなくなった。
 部活で顔を合わせる火神はもう後輩の顔に戻っていた。時折背後から睨むような視線は貰ったけれど、火神に言われたのは『どっちつかずの関係を続けるな』というもの。俺の行動はそれに反していないから、火神は俺に何も言えない。
 光樹を遠目に見ることは何度かあった。人に囲まれた光樹は相変わらず笑っていて、でもそれが形だけのものであることに俺は直ぐ気づいた。元気がない。ふと人が見ていないと思うと、光樹からは呆気なく表情が消えた。太陽が雲に隠されてしまったように、ひっそりと。
 それはぞくりとするほど婀娜あだめいていた。瞬き一つの間に掻き消えることが奇跡のように、男でありながら女がどうしたって見せることのできない色っぽさを醸し出す。少年と青年の狭間にいる年頃だからこその不安定さと脆さが一遍に滲み出て、そうなると俺はそこから動けなくなった。光樹がその表情を崩してまた笑うまで、ずっと。
 数週間、その状態が続いた。終わったのは、放課後、空き教室で会った時だ。橙に染まる教室の中、窓際の机に腰掛けて窓の外を見ていた光樹が気怠げに開かれた扉の方を向く。俺を、見た。途端、ゆっくりと開かれていくヘーゼルの双眸。何故ここに、という純粋な驚きと、逃げられない状況への絶望とが瞳の中で綯い交ぜになって、光樹の顔を歪ませる。

『木吉先輩…』

 くしゃりと、泣く前の表情で俺を呼んだ光樹は、そんな自分の顔に気づいてか俯いてしまった。顔が見えなくなる。遠ざかった瞳に物足りなさを感じながらも笑ったまま、俺は光樹に近づいた。一歩近くなる毎に光樹の肩がぴくりと跳ねる。警戒する猫のよう。光樹自身はどちらかと言えば犬だろうに。そう思いながら後一歩の所で足を止めて光樹を見下ろす。榛が橙に侵されて金に近く輝いていた。

『久しぶり』

 どこか上滑りな挨拶は俺だけで終わって、光樹はそれに返さない。声を出してしまったらそのまま泣いてしまう自分を予期しているようで、その健気さに思わず笑みが深まる。俯いていてよかったと現金に思いながら、俺はまた光樹に話しかけた。

『なんだよ、俺の顔、見たくなかった?』

 膝を折って、光樹を下から覗き込む。そうすると光樹の泣きかけの顔がばっちり見えて、視線が合った瞬間、光樹はパッと身を翻して逃げようとした。させない。

『光樹』

 静かに名前を読んで、ただそれだけで、光樹は躰を硬直させた。手を掴んだわけでもないのに、縛られたみたいに動かなくなって、そんな自分に光樹は戸惑っているらしかった。それでも、と視線だけは逃がすように逸らして俺を見ない。物足りない。でも今はそれでいいやと妥協した。

『何か言いたいことがあるなら、言ってほしいな』

 白々しく俺は言う。光樹の胸の内にある困惑や疑問なんか手に取るように分かるのに、分かってないふりをする。光樹が気づいていないことをいいことに、優しく微笑んで、先輩の顔を崩さずに。光樹はその俺の表情に少し顔の強張りを解いて、それと同時に落胆も見せた。自分の態度に嫌気が指した様子のない俺に安心しながら、自分はやはりただの後輩なのだと落ち込んでいる。両極端の感情がまた光樹に退廃的な艶やかさを添えて目に毒だ。勿論、そんな顔は見せないけど。

『……なん、で』
『ん?』
『なんで…最近、来なかったの…?』

 そうして零された疑問はやっぱり想定内のもので、でも呆れるより安堵した。そう聞かれてよかったと、光樹の耳に入っていなくてよかったと、思った。

『俺達、結構噂になってたんだ』
『噂…?』
『そ。男同士で付き合ってんじゃないのって。ちょっと中傷混じりの奴もあって、あんまり詳しく教えたくないんだけど』

 確かに光樹の態度は分かりやすくて、人一倍そういう視線に慣れた俺じゃなくても気づく奴は多かっただろう。噂が噂を呼んで、最終的には事実からどうやればここまで乖離するのかと笑いたくなるくらいの代物に出来上がっていた。とは言え俺でさえ顔を引き攣らせたのだから、光樹が耳にしていれば卒倒して学校を休みかねないものであったのも事実だ。男同士というのはまだからかいの対象に程遠く、好奇と嫌悪の狭間から抜け出せないらしい。それでも相手が光樹であったから、そこまで酷くはならなかったのだろうし、光樹が聞くこともなかったのだろう。日頃の行いは大切だな、と光樹のあずかり知らぬ所でこっそりと思う。

『だから距離を置いた。そのお陰で今はもう別れたってことで噂は落ち着いてるけどね』

 その俺の言葉に光樹は心を落ち着かせるよりも、ショックを受けていた。やっぱり俺の感情は迷惑だったんだって、光樹の顔に書いてある。橙の中にいるのに、蒼褪めた顔色が窺えた。あぁやっぱり好きなんだ。驕りでなく自意識過剰でなく、素直にそう感じられた。俺がその噂を嫌って離れて、やっと下火になったから戻ってきた、ってことは自分のことが嫌いなんだって思うくらい、哀しくなるくらい、光樹は俺が好きなんだ。
 分かりやすい。これはバレて仕方ない。可愛い。可愛い。これは、ヤバイ。
 今心はどこかと聞かれたら、俺はきっと胸にあるって答える。だって胸が、躰の真ん中が擽ったい。口ほどにものを言う瞳が、俺を好きだって真っ直ぐ伝えてくれる。むず痒い。嬉しい。だから次の言葉は、自然と俺の口から零れ出た。

『俺はそれを待ってた』

 呆然としていた光樹は、その言葉を大分遅れてから理解した。ひょこ、と首を傾げて、光樹はどういうこと?、と俺を見る。目の淵に溜まっていた涙が、その動きにつられて片側に寄る。許容量を越えて溢れそうになる。立ち上がって、屈みこんで、唇で、掬った。ぱちり。瞬いた睫毛が唇に触れて擽ったい。離れて、光樹を見下ろす。ぱちり。二度目の瞬きでやっと視覚で捉えた俺の行動が脳まで届けられたらしい。光樹の血色の悪かった顔が段々赤く変わっていく。見届けて、笑った。

『噂、本当にしない?』

 どこかに行かないかと、そう誘うように言う。血の巡りとともに頭の巡りもよくなったようで、光樹は今度こそ直ぐ様俺の言いたいことに気づいたようだった。けれど信じられないのか、それとも自分の都合のいい解釈だと思い込んでいるのか。

『…何、言って…』

 弱気に目を伏せる。自分の殻に逃げ込もうとする。今更だ。今更それを看過することはできない。もうそんなもので足踏みする時期は通り過ぎたんだ。

『んー、だから』

 嘘だよ、なんて言ってやらない。優しい先輩なんて幻想通りの姿に戻ってはやらない。手を伸ばす(捕まえるために)。頬に指を添える(逃さないために)。光樹は胡乱げに俺を見上げた。何をされるか、なんて警戒してもいない。鈍いと言うか純粋と言うか。どちらにせよ、その無防備さはいっそ罪だ(だから)。

『こういうこと(に、なる)』

 言いながらすっと顔を近づけ、薄い唇に触れてつと舌先でなぞった。戦慄いた唇に、自分のそれを重ねる。そっとそっと、砂糖菓子に口付けるように。

『んっ…』

 光樹の唇が露骨に震えて、辛うじて見える睫毛がぴくりと揺れた。羞恥より戸惑いより怯えが見える。初めてか。言うのも無粋で、だったらと一層優しく柔らかく食む。唇で唇を愛撫して、触れていた指の腹で光樹の首筋の産毛を撫でるように触れた。緊張でいつもより鋭敏になった感覚は、具に光樹の脳に俺が与える全てを伝える。ダイレクトに、素早く。ぴくぴくと光樹は震えた。見知らぬ感覚に当惑して、受け流すこともできないまま全部を不器用に受け止めて。息が上がる。熱くなる。光樹も、俺も。
 いい加減熟れた桃のように赤みがさした唇から離れて、今度は首筋に顔を埋めた。微かに汗ばんだ光樹の肌に口付けて、歯を立てて、その勢いで光樹を机に押し倒す。覆いかぶさると、光樹の真っ赤になった顔が見えた。今までで一番赤い。林檎みたいで、美味しそう。肩で息をして、慣れないことに涙を浮かべた光樹はうっそりとして、俺を見るでもなく見上げていた。頭がついていかないらしい。でも最初はそんなものだろうと笑って行為を続けようとすると。

『ま、って…、待って…!』

 掠れた声で、光樹が行為の中断を求める。怖いのだろうかと思い、大丈夫と言うように髪を梳くと。

『俺、人と待ち合わせ、してて…っ』

 そう言う。は?、と首を傾げると、光樹は荒い息を何とか宥めて。

『なんか、朝、靴箱に手紙、入って、て、…ここで、放課後待ってるからって、書いてあった、の…!』

 だから、と泣きそうな顔をする。このまま続けてしまったらその人に見られてしまうかもしれないからと。また、噂が蔓延してしまうからと。光樹は一生懸命言った。対し、俺は。

『あぁ、それ、俺が出した』

 あっけらかんと告白する。あまりにもあっさりとしていたから、数瞬、それは光樹の耳を素通りして、光樹はまた遅れて理解することになった。へ?、と、ぽかりと目も口も開けられる。

『あれ、木吉先輩が…?』
『そう。俺の字、お前に見せたことないから多分いけるなーって思って』

 名前を出せばきっと光樹は来なかった。逃げてしまうと思って、メールも、そして火神を使うこともできなかった。そこで使い古された手紙を手段に選んだ。人助けを日常的にしている光樹は、こういったものを受け取りやすいし、無視することもできないだろうから。

『だから心配いらないよ』

 俺は薄っすらと熱の引いてしまった光樹の頬に指を這わす。ぼんやりとしてそっかと呟いていた光樹は、熱を引き出そうとする俺の指の動きに意識を引き戻されて俺を見た。途端、熱に潤むヘーゼルに微笑み返す。

『もうここには誰も来ない』

 俺と、光樹だけだ。

 内緒話のように耳元で囁いて、そのまま耳朶をやんわりと甘咬みする。光樹は擽ったさに首を竦め、耐えるように俺の服に縋った。

『…で、も…―――いっ…!』

 でも、なんて、聞かない。その意思表示にガリッと制服の上から胸の尖りを引っ掻いてやった。痛みに光樹はそれまで耐えていた涙をはらはらと零す。それを見て、大丈夫、と心の中で呟いた。いつかここも気持ちいい部分になるから、なんて、光樹が知れば今以上に赤面するようなことを思って、そうなるだろうなぁと笑った。その笑みを光樹は勘違いしたらしく。

『せ、先輩っ、実は性格、悪いでしょ…!』

 睨む。紅潮した頬と潤んだ瞳を向けてくる。可愛い。食べてしまいたい。―――うん。食べよう。

『そんな俺を、好きになったんでしょ?』

 なんて飄々と言って、それを頂きますの代わりにする。光樹の言葉と抵抗がなくなった隙をついてキスをした。奪うように、貪るように。

『せん…ぱ、い…ッ』

 塩辛い涙も濡れた声も甘い躰も全て、俺の舌で堪能して俺の目で見て俺の指で暴いた。全部全部、全部。

『―――光樹』

 その日、名実ともに俺達は恋人同士になった。





『先輩、どこの高校行くの?』

 付き合って数ヶ月。そろそろ高校受験を控えた時期に入った。三年は部活を引退して、勉強一本になる。その頃には引退しても一週間に一度は足を向けていた体育館に寄ることもなくなった。教師に見つかれば怒られるからだ。
 その分、光樹と過ごす時間が多くなった。部活をしていない光樹は縛りがなく、メールで呼び出せばどこにでも来た。今は俺の家。外で会っていると誰に見られるか分からないし、今の時期は立ち話で何時間も過ごせるほど快適な季節じゃない。喫茶店やファミレスに屯するのは光樹が嫌がった。どうやら学校とは違う意味で人気者らしい。
 何度か来て緊張もしなくなった光樹は、のんびりと足を伸ばしてホットコーヒーで暖を取っていると、ふと思い立ったように冒頭の問いを俺に投げつけた。そう言えば言ってなかったっけ、と答える。

『ん? 帝凛高校。家から近いし、文武両道掲げてる学校らしくって、偏差値はそこそこ高いし、何より運動部が強い。その割にどこか緩い校風で、制服も一応あるらしいけど自由なんだってさ。中学の制服着回せるから楽だし安上がり。両親もそこにしろって』

 簡単に言ってくれる、と言われた時には笑ったが、落ちるとは思っていなかった。特別いいわけじゃないが、悪いわけでもない。それに暇に飽かしてここ最近は勉強しかしてこなかった。過去問の点数は既に合格圏内だ。

『ふーん…』

 光樹は聞いておきながら気の抜けた相槌をする。視線は自分の足の爪先より前に落とされ、何か考え込んでいる様子。どうしたのだろうと見詰めていると。

『じゃ、あ、俺もそこに、する…』

 数分経って、そんな言葉が聞こえた。言った光樹はまだ視線を床に固定していて、けれどそれは意地でも動かすものか、という、さっきとは違う横顔だった。目元が赤い。これは、もしかして。

『何? 俺と離れたくないって?』
『っ! そんなことは言ってない!!』

 即座に否定されたって、言ってないけど思ったことは確実で、それは言葉で聞くまでもなく知っている。でも敢えてなぁんだと残念そうな顔をして。

『違うんだ…』

 と肩を落とせば、光樹はわたわたと慌てた。数ヶ月の付き合いを経ても、光樹は根本的な所で変わらない。真っ直ぐな好意も純粋な心も。変わったとすれば。

『…ちが……違、わない…ってもう言わせんな馬鹿!!』

 言葉に遠慮はなくなったけれど、それも照れ隠しの時だけだ。だから苛ついたりしないし、微笑んでそっかぁと笑うこともできる。うー…、と唸る光樹は、真っ赤な顔で、目尻には羞恥の涙を浮かべていた。それに、なんだか水に潜らせた後のトマトみたい、と思った。畑で採れたのをそのまま無造作に皿の上に置いて、食べてくださいと今眼の前に出された感じ。…錯覚? いやいや。

『…光樹』

 ちょいちょい、と光樹を手招いて近寄らせる。少しの間無視していた光樹も、しつこく呼べば元来の人の良さと罪悪感に促されて膝立ちのまま俺の所に来た。何?、と頬を膨らませる光樹は、おいで、と言葉もなく腕を広げた俺に呆れた一瞥をくれて、でも結局カップをローテーブルに置くとしずしずと俺の足に跨って躰を預けてきた。相変わらず頬は赤い。躰は硬いし、この距離感にはまだまだ慣れないらしい。甘えるのも不器用で、初なまま。愛しい。可愛い。何故だかいつも光樹を傍に感じると思うことが今回も頭にぽんぽんと浮かんで、その愛情をそのまま声に乗せる。

『食べていい?』

 優しく聞いて、するり、と榛の髪を撫でる。ダメ押しとばかりに、首筋にキス。光樹はひくりと喉を鳴らして、少し。

『…聞くなばか…』

 恥を押し殺して、ぎゅっと俺の首に腕を回す。震えてるくせに強がって、本当はいつまでもセックスに慣れないのに、それじゃあかっこ悪いと慣れたふりをしてなんでもないように言う。可愛い意地っ張り、と喉で笑って、手をそろりと服の下に滑り込ませて肌に這わせる。膝の上で陸に上がった魚のように跳ねる光樹と、光樹が唇を噛んで殺す嬌声の名残を楽しみながらじっくりと躰を解していく。それでも躰にはまだ硬さが残っていて、今までの女でここまで時間をかけたことなんてあっただろうかと、不謹慎にも思いながら。

『光樹はいつまで経っても慣れないなぁ』

 と苦笑とともに零せば、光樹はキッと俺を睨めつけて。

『慣れたし…っ』

 と頑迷に言い張る。慣れた奴なら今頃騎乗位でもしてくれてるはず、と言おうか迷って止めた。きっと泣く。それはそれで見ものだけど、と思いながら。

『ふぅん、慣れた?』
『ん…っ』
『でもこういうのって時間を置いたら忘れちゃうんだよなぁ』
『だったら、あ、なに…ッ』
『人と一緒。会わないと、忘れていく』
『え…』
『だから、帝凛で待ってる』
『…先輩…』

 来るんでしょ?、と一旦手を休めて問う。光樹は真っ直ぐ俺の目を見返して、こくり、と頷いた。その清々しいほどの潔さにほろりと笑む。そして。

『わ…っ』

光樹を抱き上げてころりとベッドに放り、縫い止める。急に!、と非難の声を上げる光樹に一つキスをして黙らせて。

『で、早く帝凛で制服エッチしような』

 音符かハートが飛んでそうな調子で言えば、少しの間光樹は呆然とし、我に返った途端また顔をトマトのように真っ赤にさせた。

『は、あ!? それは違っ…ひぁ…っ』
『あ、そのために制服買おっかな。だって中学のじゃ新鮮味ないだろ? 何回かやったし』
『もっ、ばか…っ…あ、や…――ッ』
『…でもほんと、待ってるから』

 そんな日があった一年と数ヶ月後。俺達はまた、同じ学校の先輩後輩になった。





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 20120818





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