黒白の契

[ 雪の下 ]



 ―――春も近し、冬枯れの折。
 朝になって天候が崩れたようで、奥の奥にある部屋ここにまで、空風からかぜおとないを告げるような雨戸を叩く音が響く。
 それを聞いてか、それまで寝入るように目を閉じていた彼がそっと瞼を押し上げてしばし天井のはりを眺めていたかと思うと、外を見たいと呟き強請るように褥から手を出した。枕元からちらりと咎めの色を双眸に滲ませて見下ろせば、天を向いてたかんばせがこちらへそろりと向く。髪の榛色はしばみより尚薄い琥珀の静かな瞳とち合って、鍔迫つばぜり合うように互いを見遣る。
 畢竟ひっきょう、こちらが参ったと深く溜息を吐いた。そもそも契りを交わした彼に否やと言えるはずもない。少しだけだと釘を差し、勝ったと幼く笑う彼を自分の肩にかけていた羽織りで包んで、そっと抱き上げ部屋を出る。
 瞬間、自分は何を抱えているのかと疑問を持った。綿菓子か、花の一枚ひとひらか、それとも陽炎だったか。だが確かに自分の腕に抱いているのは彼に他ならず、着物の重みさえ微かだと、痛ましさに抱く腕に力を込めた。
 顰められた顔に、曲げられた唇。全ては心の痛みを堪えるため。あぁ、だが表に出すべきではなかったのだろう。敏く気づいた彼が不安を眉宇に漂わせて視線を寄越した。我儘を言っては駄目だったろうか。そう言いたげで、腕の中で申し訳なさそうに身を縮こまらせる。大の大人が、と笑いたくなって、けれどその躰の細さや軽さはとても成人した人間のそれとは言い難いと気づき、尚更渋面を作る結果となった。
 寒さを防ぐ肉の厚みは既になく、限界まで削ぎ落とされたそれは骨に張り付くばかり。身の丈だけは一人前で、その重みがわっぱ程度とは。
 病ならば全国津々浦々、草の根を掻き分けてでも癒す術を持つ者を探し出しただろう。病でなかったから、自分は為す術なく佇むしかなかった。日に日に弱り、後はただ死を待つばかりの彼の傍らで。

「寒くないか」

 外界に近くなる毎に床を這う冷気が熱を奪おうと人肌を求めて立ち上る。力を使っても良かったが、それでは彼に障りがあるだろうと、羽織りのあわせを手繰って首元を覆うだけに留めた。また瞼を閉じていた彼が琥珀を覗かせて柔らかに笑む。ただそれだけで、声は掛からなかった。
 …疲れている。一呼吸する度に削られていく命。嘗ては対等に真正面からぶつかり合うことができたことを思えば、現状はただただ残酷だ。
 だがそれは自分の主観で、彼の方は内心どう思っているのだろう。
 揺れることのない水面みなもを思わせる顔も眸も、彼が内に何を秘めているのかを綺麗に隠す。生まれる家が違ったなら彼は能吏になっただろう。そうであれば自分と出会うことはなかったか。そうであれば廿にじゅうの身で死ぬことはなかったか。…どちらも否だ。彼が彼である限り、環境がどうあろうと時代がどうあろうと、自分達は出会っただろうし、彼は死ぬ道しかなかっただろう。彼が、彼である故に。

「…ここで待て」

 ようよう足を止めたのは、連なった部屋の果て、締め切られた雨戸を前にしてからだった。だがそのまま開けてしまえば冴えた風が直接吹き込み彼の躰に容赦なく吹きつけるだろうと、部屋の中ほどまで戻り彼を下ろそうとした。
 風の音は耳に痛いほど強く絶叫のようで、板一枚で隔たったこの距離では直に躰を嬲られていると錯覚しそうなほど激しい。そんな風の前に無防備に曝すわけにいかないと言うのに、彼は弱くかぶりを振る。外に出たいと駄々を捏ねる。無言で、下ろさせまいとこちらの着物を脆く握って。先ほどの殊勝な態度はどこへやったと言いたくて、聞かずとももうここまで来たのだからと言うのだろうと察しが付く自分に内心で呆れた。
 無視することは簡単で、振り解くことも容易だった。彼の躰を思えば何が最善かなど捻ることもなく分かる。それでも、迷った。彼の躰を優先すればいいのか、彼の意思を汲んでやるのが大事なのか。彼の命の残余を知るだけに、分からなくなっていた。
 惑う最中さなか、彼が着物を引っ張った。弱々しい、こぼれてしまいそうなその仕草。稚い子どもの所作に、出会った頃の彼を見る。懐かしい思いに心が揺らいで、それを目敏く見て取ったのだろう。

「セイ」

 止めとばかりに彼は呼ぶ。…卑怯だと、思った。
 彼はいつもいつもその一言でどんな無理も押し通す。止めろというのに聞かない。大丈夫だと笑って、それで危険な目に何度遭ったか。なのに結局拒めたことはない。許しを請うように紡ぐくせに、彼は終局、自分のしたいようにした。笑顔と涙が免罪符だと知る質の悪い幼子のように、たった一声、名を紡ぐことで。
 それに強制力はない。命令でもない。ただ呼んだだけで、ただ呼ばれただけ。鬼の自分と人の彼の間に、本来あるべきでない関係すがた。主従でなく、故人でなく、同胞でも当然ない。だと言うのに、自分と彼にとっては、それで十分すぎるほど、十分だった。

「…死んでも、知らないからな」

 素直に聞くのが嫌で、悔し紛れにそう零す。だが比喩でなく脅迫でもなく、その可能性は十二分にあった。分かっているのかと今一度窺うように顔を見ても彼はやはり片笑むだけ。最後まで変わらないなと、寂しく思ってまた彼を抱き上げる。
 思えば――と一歩足を踏み出して記憶を手繰る――短い付き合いだった。
 彼が十の時に出会い、そこから十年、傍にいた。知らない月日が十年、知り尽くした月日も十年。そして死ぬ。目指した十一年目は、永遠に来ない。
 短い。余りにも、儚い。人の生はたかだか五十そこらだと聞く。そして彼の生はその半分にも満たないまま朽ちようとしていた。老いを知らない鬼の自分には想像できない脆弱さに目眩がする。彼は何故、人だったのだろう。
 巡る想いに疑念に、頭と心を痛めながら雨戸の前に立つ。引き手に手を添え、逡巡を断ち切って滑らせる。 ―――覚悟をした。吹き荒ぶ零度の風と、彼の最期を。
 だが。

「――…?」

 そうして開けた扉の向こうに見えた景色と吹く風に、唖然として目を剥く。何故だと喉を凍らせた。何故だ、何故―――眼前に春が広がっている。
 この十年で見慣れた庭が続くはずの外は、満遍なく桃色に染まっていた。降る陽光や満たす空気まで染めんとするような、咽返るほどの薄紅うすくれない。全ては一本の大樹から風に乗って流れくる花弁によるものだ。樹齢千年を疾うに超えた桜樹。それは一年中咲き誇り、枯れることを知らない。春の全てを掻き集めたようなそこを知っていた。その桜、その景色、その空気、全て。
 それは異界にあるはずの、己の半身と棲家だった。

「…相変わらず、綺麗だね」

 驚きに固まっていると、腕の中の彼がふと囁いて宙に向かって繊手せんしゅを伸ばす。導かれるように一枚の花片がその指先に止まって、触れた瞬間、雪のように溶け消えた。異界は外界の者を許さない。外の存在に影響を受けることを嫌うのだ。決して、交わることはない。

「お前…」

 これは彼の力だった。戸を境界線に見立て、内側を人の世界に置きながら外に異界を呼んだのだろう。だがその力の行使は今の彼には致死量の毒にも等しい。春の陽射しに照らされてさえ、彼の顔色は悪かった。 もしやという思いが頭をよぎる。腕の中で彼が身をよじる。そうして紅と黄と、琥珀の瞳が互いの色に互いを映し、その瞬間を永遠繰り返すよう。降り続ける桜吹雪を前に、見交わす鬼と人との時間が止まる。
 呼気が滞る。苦しい。しかし一端動き始めてしまえば、もう止められない。その思いから、抱く全てを吐き出さず、声と心を殺して口を閉ざしたのに。

「…君も、君の世界に還るといい」

 何故、彼はそんなことを言う。青白い顔の癖にゆったりと微笑し、優しくそう言う。聞きたくない。耳を閉ざし音を遮れば、それはなかったことにできるだろうか。半ば本気で考えた。だがそうだとして、己の腕は彼を抱いたまま。耳を塞ぐことは不可能だった。

「光樹…」

 無音に無音を重ね、けれど耐え切れず遂に零れた声は、からりとした夏風のようだった。それは吹き荒ぶ冬風よりも味気ない。だがそこにどんな感情を押しこめばいいのか、自分には分からなかった。
 その内に殺したはずの困惑を、しかし彼は容易に見破って子を宥める親の顔で笑みを深めた。桜を掴み損なった手が、今度はこちらの頬に触れる。温かみはない。柔らかくもない。これが人の手かと、彼の手かと絶望するほど、冷え冷えとした指の腹と掌。…切ない。淋しい。桜の枝も斯くやと思われるような彼の指が、哀しかった。

「僕はここにいる。だからここで君を見送るよ。それが降旗の家に生まれた僕の、最後の務めだ」

 君で、最後だから…。

 言われた言葉に、目を伏せる。そうだ。嘗てはこの広大な敷地には、安まる所がないほどのあやかしがいて、まるで毎日が祭りのように賑わっていた。今は見る影もない。彼が病に臥せった折、彼は彼等全てを元の場所に還していった。
 嫌だと言ったものもいた。後生だからと泣いたものもいた。お前が勝手に決めるなと憤ったものもいた。そんな勝手を聞いてなるものかと無視したものもいた。だが全員が結局ここにいることは適わなかった。

『僕の、最後の我侭だから』

 そう言って常に我を通してきた彼に深々と頭を下げられては、誰も拒むことなどできようはずもない。皆、彼が好きだった。
 惜しむように一人、また一人と屋敷から妖が消えていった。最後に残ったのは彼と最初に契った自分だけ。日に日に仲間が消えて行く中、何も言わず、何も言われないまま傍にいたその自分も異界に還すと言うことは、とうとう別れの日が来たということなのだろう。今日が、彼の命日になる。
 言われずに悟って、言わずにいることにした。一つゆっくりと瞬きをして、ともすれば一瞬の気の緩みでするりと離れてしまいそうな彼の手に己の手を添えて頬に押し付ける。温かくはない。柔らかさもない。それでも、どうしようもなく彼の手を。

「…淋しくはないか」
「……淋しいよ」
「なんだ。随分と素直だな」
「…今日くらいは、ね」

 言って、彼は笑う。笑って、笑った。本当は泣きたいくせに。そう詰りたくて、泣いていいんだと言いたくて、でも言わなかった。いつものことだ。いつもの彼だ。言いたいことの百のうち一も言わない、言わなかった、いつもの、彼だ。

「…光樹」

 胸の内に忍ばせた情を交わすことはなかった。睦言を囁くことも。友として契り、ただ傍にいて、ただ言葉を交わし、目を交わし、ただ共に生きた。それだけだ。ただ、それだけの。―――だから。

「さよならだ」

 膝をつき、彼を床に下ろし、名残惜しげに手を離す。指が離れる。心が片端から剥離するよう。最後、彼の微笑だけが残る。
 …それでいい。
 目に焼き付けて、記憶に焼き付けた。忘れない。だから、…大丈夫。

「さよなら、セイ」

 静かな彼の声を聞き、微笑を見て、床に手をついて立ち上がって彼から一歩離れる。二歩離れて戸の外へ、異界へと足を踏み入れた。馴染んだ匂いが空気が躰に纏う。懐かしさに心が撓み、息のしやすさに目眩がする。あぁ確かに、そこは自分の還る場所だった。その中を歩く。桃色の世界の中、大樹を目指して歩き続けて。

   とん…

 背中の向こう側、微かな戸が閉まる音。異界と現世が切り離され、彼が遠ざかった音が、どの音にも勝って聞こえた。唇をくちりと噛む。それでも振り返らない。一瞬滞った歩みを、また再開する。そうして桜の幹まで辿り着き、寄り掛った時になって漸く振り返った。
 異界は過不足なく、異界だけで構成されていた。
 綻びはない。結び目もない。一時こちらとあちらを繋いでいたとは思えない、彼らしい、隙のない完璧な時空間の修復。もう嘗ての彼のように、誰かが空間の綻びに気づいて異界こちらに迷い込んでくることはない。それは彼の恩情で、底なしの優しさなのだろう。
 だから淋しいなどと思ってはいけない。また彼に会いたいと思ってはいけない。
 背ばかりでなく頭も幹に預け、その延長で空を見ようとして、―――不意に笑った。満開の桜。花雨が顔に当たる。視界を閉ざす桃色。蒼は見えず、空は遠い。彼と、自分を隔てる距離のように。
 思って、目を閉じた。今はもう何も考えたくはない。思い出に浸るのもよそう。ただ、彼を想うだけでいい。それだけで…。
 鬼は暫くそうしたまま動かなかった。桜と一体になったかのように。そんな鬼を隠すように花は降り続けた。雨のように。将又はたまた、涙のように。





 冬と春のはざま、一人の人と一人の鬼とのあいだにあった契は、こうして断たれた。誰も知らないまま、知り得ないまま、ひっそりと…。
 だがそれから数百年後、また人と鬼との間に契が結ばれるのだが…それはまた、別のお噺。




[以下設定箇条書き]

/※印は設定が変わるかもしれない部分/
▼赤司征十郎(光樹があげた名前)/真名:桜嵐/光樹の呼称:セイ
 昔:俺/お前 → 今:僕/君 =初代光樹の口真似
 世界で最初に生まれた桜と共に誕生した鬼。樹齢=年齢。外見年齢は十代半ば~二十過ぎ※
 他の五人の鬼より権謀術数に長ける
 文武両道。鬼らしく先見の力がある
 光樹とは彼が異界の迷子になった時に出会う
 彼の死後、降旗の家に生まれる子等をできれば見守って欲しいという遺言を守り続けた
 セイの存在は光樹との密接な交流で知られていたようで(というか隠す気もなく、セイは頻繁に光樹の家に好き勝手出入りしていた)、光樹の名を授けるに相応しいかを生まれた時にセイに伺いを立てるという儀式がいつの間にやらできていて、勝手なことをと思いつつ、光樹の名をそんじょそこらの奴に継がせてたまるかと律儀にその儀式に参加していた(とは言っても気に入らなければ雷を落とし、気に入れば桜を降らせるというような手段。先見の力でその子の将来を見て定めていた)。
 更に儀式は二段階目があって、それは一人前と認められる十五の年に光樹を名乗ることが許された子どもがセイを呼び出すというもの。因みにそれができなくても当主になることに問題はなく、現代の光樹が呼び出すまで一人として成功したものはいなかった(何故かというと、光樹という名前なのに光樹の顔をしてなかったから、というのがセイの意見で、現代の光樹は初代に瓜二つ。後にその理由を知って「顔かよ!」と現代の光樹に突っ込まれる)。

▼初代降旗光樹
 天才陰陽師として幼少より力を発揮していた人
 能力に反して性格は天然気味で穏やか
 だが融通が利かないところがあり、セイと言い合うこと数知れず
 声を荒げることはあまりなかった
 武闘よりかは知能派
 体術は習わず、そのため躰を攻撃されるとダメージが酷い
 が、攻撃を受けるより先に大抵呪術で撃退してしまうし、攻撃を受けても呪術で回復できる便利な人
 異端とも言える強さで歴代最強を謳われ、そのため彼の死後、当主は彼の名を冠することが定められた
 だが十の半ばより体調不良に陥る。それは彼の体質が先天的に周りの力(主に妖力)を勝手に吸い取ってしまうものであったため、人の躰では吸い取った力を留め切れず最後は衰弱死
 享年は二十歳
 つまり強い妖怪がいればいるほど彼の力は強くなるが、限度があり、それを超えてしまうと躰がついていかなくなる
 =限度を知り限度を超えなければほぼ人として最強
 元々躰が弱かったのも原因で、またそのために躰を鍛えられなかったことも死んだ理由にあげられる
 =何事も過ぎれば毒
 後にその体質を知ったセイは自分が傍にいた所為だと嘆くが、光樹はセイがいてもいなくても、自分の生まれた家を思えば妖怪と関わりあいにならないことは不可能で、結局いつかはこうなるだろうと知っていた。ならばできるだけ大切な仲間達と共にいたいという思いが光樹にはあった

▼現代の降旗光樹
 初代光樹と違ってバリバリの武闘派だが、総じて能力値は高い
 馬鹿ではないし、機転も利く。その場その場で最善を尽くせるタイプ
 だが生かし切れない時もあり、周りからの評価は微妙なところ
 初代光樹とは正反対で、先天的に力を外に放出してしまうタイプなので傍に妖怪がいなければ生きていけない
 光樹の名を持つために家の敷地から出ることを禁止されそうになった過去がある
 妖怪の友達(=契った妖怪)は火神と水戸部と小金井と木吉etc.

▼降旗家
 今も尚連綿と続く陰陽師の一族※
 降旗=降る旗のもとに百鬼を従えん
 一族がまとまって住んでおり、周囲の住民からは大家族だと思われている

▼契
 初代光樹が編み出した術
 本来降旗はその家の性質から妖怪は滅するか下僕にするかの二択であった
(妖怪に知性はなく、粗野で蛮行を行う生物という位置づけがあったため、術で縛らねば使えないという妖怪を下に見る傾向があった。確かに妖怪は本能のままに戦い人を殺めるものもいたが、そうでない妖怪も確かにいた)
 だが初代光樹はそれをよしとせず、妖怪が高潔な存在であることを認め、彼等と渡り合うために言葉を惜しまず、できる限り友好的な関係を築こうとした
 その思いから『言霊による強制力のない、ただ友と友の情を前提とした誓い』を考案。主従関係ではなく、お友達になりましょうというだけの、術とも言えない、つまりは絆を前提にした口約束。制約はなく、裏切ったところで竹箆返しがあるわけでもない
 この契で彼は百鬼夜行ができるほどの妖と絆を持ったが、彼を裏切ったものは結局ただの一人もいなかったという
 因みにタイトルの「黒白」は陰陽のマークを意識してたような気がする(タイトル考えたの前すぎて覚えてない。





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 20121022





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