紅刀

〈設定〉

 時代は明治。廃刀の議論が盛んであり、また既に江戸は東京に名称を変えていた頃の話。
 老舗の呉服屋(屋号:紅絲屋)の主人には四人の娘と、そして十人の孫がいた。これがまた変わった主人で、跡取りは商才のある者ならば誰でもよいと言い、金目当てに婿入りしてきた男達には早々に見切りをつけて孫に期待することにした。
 中でも十番目に生まれた孫、征十郎という男の子は今年十五になるが、幼少の砌から何かと聡く、算盤を覚えるのも早かったし寺子屋では何でも一番だった。勤勉で礼儀正しく、しかも自分の能力を衒うことのない思慮深さを持っていて、誰が見ても他の孫達より頭一つの飛び抜けた彼を、主人は早々に跡取りに選ぼうかと考えた。
 しかしそう思う度に主人は悩む。征十郎にはどこか底知れない部分がある。闇と言っても差し支えない、何かが…。それはあの子にも言えることだ。数年前に征十郎が拾ってきた童子にも。
 主人はその子どものことを思い起こし、知らず背を震わせた。どんよりと仄暗い双眸と、幽鬼のようにない存在感。あれを何故か征十郎はひどく可愛がっている。それまで傍に誰を侍らせても外面上の親愛しか向けなかった征十郎が、何故か。
 …そうだ、と主人は思い出した。征十郎は賢い。だがその心は固く閉ざされている。商売に情はいらない。だからきっとよい商人になるだろう。その反面、よい主人にはなれまい。人に心を砕けぬ者が人の上に立つことは不幸だ。
 主人は悩んだ。悩んで、結局いつものようにその問題を先送りにした。どんな真実が根底にあろうと、征十郎以外の孫が使い物にならないことも、また事実であったから。


〈本文〉

 障子の向こう、庭から聞こえてきた鴬の朝鳴きに、征十郎はひそりと瞼を押し開けた。数度瞬きを繰り返して身を起こす。少し寝乱れた着物の袷を整えて布団から出て、障子を開け放ち空を見た。蒼い。梅雨が明けたばかりの空は徐々に夏の青に近づいていく。いずれ目に痛いほどに青くなるだろう。太陽もそれに合わせてぎらぎらと眩く輝くに違いない。起床時間が次第に早くなっていくなと、征十郎は感慨もなく思った。
 と、回廊の向こうからひたひたと小さな足音が聞こえた。本当に微かな、それこそ葉擦れの音にさえ掻き消えてしまいそうな跫音あしおと。こんな静かな朝でないと聞き逃してしまうそれに、征十郎はそっと縁側に出る。
 音のする方を見続けていると、一人の子どもがやってきた。その頃には子どもの持つ桶の中で氷同士が打つかる音も聞こえるようになる。寝汗をかいた征十郎のために氷を砕いて持ってきてくれたのだろう。子どもは立ったままでいた征十郎の数歩前で止まると桶を脇に置き、少しぎこちなく額づいて言う。

「…お早う御座います、征様」

 見下ろす子どもの躰は小さく、十を迎えたと言うのに丈は征十郎の肩にも届かない。躰の線も細く、特に着物の裾から覗く足首や手首、顕な首元は痛々しいほどだ。それがまた子どもの印象を悪くしていた。音を立てない歩き方、死んだような目に、屋敷の人間は子どもを幽霊のようだと気味悪がった。その上、骨と皮だけのような躰をしているのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
 これでも食べさせるように努めてはいるのだが、と征十郎は声が掛かるまで顔を上げないつもりの子どもの傍に膝をつくと、くしゃりと短い榛の髪を撫でた。驚いたようにぴくりと肩を揺すらせた子どもに小さく笑んで。

「おはよう、コウ」

 やっと顔を上げた子ども、コウは、笑う征十郎を眩しげに見るように目を細め、そろりと手をついて立ち上がる。征十郎とコウの身長が逆転する。普段見上げる征十郎を見下ろすのが不思議なのか、コウは暫くの間きょとんと小首を傾げたかと思うと、目元を少し和らげた。庇を擦り抜けて届く朝陽が、征十郎の髪と瞳を輝かせているのに気がついたのだ。

「…征様、綺麗」

 零された言葉、微笑に成りきれないコウの表情に征十郎は笑みを深めると、ありがとうと返して立つ。途端、あまり表情を動かさないコウが僅かに寂しげな顔をした。遠離る赤に、思うところがあるらしい。
 久方ぶりに見たコウの子どもらしい一面に征十郎は新鮮な気持ちを抱きつつ、おいで、と部屋に迎え入れる。コウは大人しく頷くと、桶を持って征十郎の部屋へと足を踏み入れた。





 祖父の命で懇意にしている酒屋にコウを連れて頼まれた物を届けると、夕飯を食べていってはどうかと引き止められた。以前より征十郎とも顔馴染みで気前の良い主人の申し出を断る理由も意味もなかった征十郎は快諾し、そして辞する頃には空は真っ黒になっていた。
 長居しすぎたな、と空を見上げて思い、征十郎とコウは屋敷の方角へと足を向ける。酒屋から随分離れ誰も歩かない河川に踏み入れた頃になって、征十郎はやっと自分の半歩後ろを荷物を持って歩くコウを肩越しに振り返り、喋りかけた。

「お腹は空いてないか? コウ」

 問えばこくりと一つ頷かれる。そう問うのは、コウが征十郎と共に夕食を食べなかったからだ。酒屋の主人はきちんと侍従であるコウの分まで夕食を用意しようと言ってくれたが、コウは許しを請うように深く頭を下げ、征十郎が酒屋で夕飯を食べることになったと家の者に知らせてくると言い置くと、逃げるように一旦屋敷に帰ってしまった。
 戻ってきたのは征十郎達が夕飯を食べ終わって談笑している頃で、知らせるだけならばこうも時間はかからないことを思えば、敢えて時間を開けて戻ってきたことは明らかだった。
 だが屋敷で食べてきたとも思えず、また昼食から大分時間が過ぎている。食が細いと言ってもコウも空腹を覚えないわけではないのだが、主人である征十郎の気遣いに逆にコウはコウで気を遣ったのかもしれない。そんな必要はないのにと思うが、仕方ないのかもしれないとも思う。
 そこまでしてコウが夕飯を固辞するのには理由があった。征十郎だけが知っていることだが、コウは他人が作ったものを決して口にしない。屋敷にいる時も同じで、自分で作ったものしか食べなかった。店屋物も食べないし、屋台のものも同様に。
 だからいつまで経ってもそんなに細いんだよと何度窘めるように言っても変わらない。コウはごめんなさいと繰り返すばかりで、変わろうとはしなかった。せめて早く帰って何か食べさせようと思っていた所、突然コウが征十郎の袖を掴んだ。遅れて気付く。―――囲まれている。

「…出てきたらどうだい」

 落ち着いた声に、わらわらと人相の悪い男達が物陰から出てくる。足の運びや隙のない雰囲気から手練であることが容易に分かる。目算で十。しかもそれぞれに刀を所持していた。

「まったく廃刀令が出るか出ないかって時に刃傷沙汰を起こしたら、お前達の商売道具の行く末が分かろうってものだけどね」

 刀は武器であると同時に美術品であり、権威の象徴でもある。だから廃刀令への反発があり、そこには権力者の圧力もあるから立法機関は中々廃刀令を法律として可決できないのが現状だ。
 だが刀がただの武器だと証明するような事件が起きれば、権力者でも守り切れないようになるだろう。そんな状態を自ら招くのかと諭すように言っても、男達はただ刀を鞘から抜き征十郎へと向けるだけ。困ったものだと溜息を吐く征十郎に焦りは見えず、コウも至って穏やかだ。
 一見武器を持たない彼等のその余裕の表情に、何か隠し持っているのかと相手は疑り深く二人を見る。そんな男達の視線を物ともせず、征十郎は懐に手を入れると布に巻かれた一本の玉簪を取り出した。具合を確かめるように月明かりに翳し、満足したように微笑むとそれをコウに手渡した。細い指に似つかわしくなく黒光りする簪。コウは大事そうに受け取って征十郎を守るように一歩前に出る。
 その光景を見て男達からは小さな笑い声が漏れた。そんなわっぱに何ができると言いたいらしい。しかも持つものは簪。それで十人の刀を持つ男を相手にするのかと。
 征十郎は嗤笑を零す。挑発的に、蠱惑的に、誘い出すように笑って。

「やってごらん」

 その言葉を合図に、男達は一斉に刀を振り上げた。詰め寄る。剣道の足運び。静かで、速い。だが――…。

「その程度では、駄目だ」

 言葉が終わる前に、終わっていた。十人が十人、駄目﹅﹅になっていた。円になって近づいてきた男達が円のまま倒れ伏す。征十郎は動いていない。ただコウが少しばかり速く動いただけだ。コウが、この小さな子が。遅れて、血が彼等の首から飛び出した。赤い、赤い。月を濡らすように、空を目掛けて血が吹いた。
 びくびくと痙攣する十の肉体を一瞥し、征十郎は元に戻ってきたコウから簪を受け取って布で丁寧に血を拭う。簪は見た目を裏切ってずっしりと重かった。それは刀と同じ材料でできていて、先は刀の鋒にも似た鋭さを持っている。征十郎が特別に職人に作らせた、殺傷能力の高い暗器といって差し支えない物。
 そうと知らず疑うこともせずに懐に飛び込んでこようとした男達。まるで飛んで火に入る夏の虫だ。そんな儚さもなければ感傷に浸る見世物でもなかったけれど。

「この子を何だと思ってるんだ?」

 征十郎は笑う。嘗て刀を失って、代わりにこの子を手に入れた。誇るように言う。全く返り血も浴びていないコウの髪を優しく撫でて。

「―――僕の守り刀だよ」





 廃刀令が囁かれていた時代、一人の少年は一人の子どもと出会った。刀を失った少年に、子どもは少年の刀になることを誓った。

『何者をも恐れず、何者からも守る。僕は、貴方の刀になろう』





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 20120714





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