-last scene-




 …重い、重い…泥を全身にまとわり付かせたよう。視界も奪われたように真っ暗で、光が届かない地獄のようだ。…ここは地獄か? …いや、僕の地獄はあの時に体験した、あれだけだ。あの、赤一色に染まった始まりの日の。ならばここは地獄ではないのだろう。死後の世界である可能性は否定出来ないけれど。あぁ、何があったのだっけ。何か、とても大きなことが、あった…。
 ……そうだ。上官に渡された任務内容が尽く違っていた。手が加えられているのだと気付くのが遅くて、奇襲をするはずが逆に奇襲を受けたんだ。しかも照準は端から僕等に合わせられており、また陣形や迷いのない動きから、どう考えても彼等は僕等を待ち伏せしていたと結論を出すしかない。密通者もいたのだ。ひどく正確な射撃で、動きも統制されていた。僕等のような軍学校を出て一年足らずの若輩者が、本来相手にすることさえ躊躇われるような熟練者が集まった一軍だったのだろう。部下の中には死者も出た。
 だがあそこで撤退することは全滅することより愚かしい。敵に背を向ける訳にはいかない。また奇襲部隊は目標を潰せばそのまま進撃してくることはまずない。それはつまり、僕等は踏み止まることで彼等に深追いさせず、自国の砦に近づけさせないことで守ることにも繋がる。自分の上官がどうあれ国を守らない訳にはいかない。その思いで、僕等は武器を手に取った。
 そして…守れたのか? 特攻隊長の青峰はどうしただろう。密かに切れやすい黄瀬は無理をしなかっただろうか。紫原には銃剣隊の指揮を任せて、緑間には下級士官の指揮を執らせた。黒子は密偵が主だから、後方で医療関係者や狙撃兵達に指示を与えていたと思うが。
 僕は…僕も、前線に出て、そして……あぁ、そうか。そこで、撃たれたんだ。爆煙の中ちらりと反射した光に、照準器付きの銃がこちらを狙っていることに気づいて…。それが僕を狙っていたのなら、ただ伏せるだけでよかったのに。それは真っ直ぐ青峰の頭を狙っていた。手始めに戦闘力の高い者を狩っていこうと、そういう魂胆だったのだろう。そんなこと、させるわけがない。それで、だから、僕は青峰と銃の間に飛び出して…。それからの記憶はない。
 どうしただろう。どうなっただろう。みんな無事だろうか。みんな生きてに帰れただろうか。そうであればいい。そうだったら、何も心配することはない。穏やかにこの重みに身を委ねて下へ下へと落ちていける。もう、重いと感じなくなるまで、ずっと。
 …あぁ、だがそれは許されないらしい。何かに手繰り寄せられるように、意識が上へ上へと登っていく感覚。誰かが呼んでいるのだろうか。それに応えようと僕の心が共鳴しているのか。共鳴しているのならば、行くしかあるまい。そうなるということは、彼等のうちの誰かが呼んでいるということに他ならないのだから。





 微かな呻き声と共に、赤司は目を覚ました。暗闇の中から突然真白の光の中に誕生したために、視神経は少しの間混乱をきたした。視界が薄く白く、また点滅を繰り返して徐々に落ち着いていく。思わず顰めていた眉から力が抜け、赤司の顔が穏やかになる。
 そうして数度瞬きを繰り返した後、気がついた。自分の周りにキセキの世代全員が揃っていることに。

「…赤司…!」
「っ、よかった…!」

 赤司の無事を喜ぶ全員が全員、どこかに包帯や布が宛てがわれていた。痛々しい。可哀想に。躰を起こして触れてやりたい。大丈夫かと問いたかった。けれど躰は意識を取り戻す前のように重たく、しかも片目を負傷したのかどうやら包帯を巻かれているようで視野が狭い。これでは躰を起こすこともままならず、全員をちゃんと見ることができない。
 もどかしい。でも今は兎に角、声をかけてやらなければ。

「心配をかけて…済まない…」

 声帯が久々に震えたように強ばっていて、声はみっともなく掠れた。それほどの間寝込んでいたのかと心の中で驚愕しながら、それを顔には出さず。

「あれから、どうした…?」

 戦況はどうなっているのだと。あの上官の男はどうしているのだと。その思いを彼等は鋭く察し、黒子が報告のために一歩赤司に近づいた。

「あの後、負傷し倒れた赤司君を回収し、青峰君と黄瀬君と紫原君と緑間君とそして僕が前線に出て敵軍を一人残らず殲滅しました。ですから本来与えられた任務を完遂し、帰還。その足で紫原君が君を抱えて、緑間君と僕はその付添で医務室に駆け込みました。青峰君と黄瀬君は上官にお話を聞いた上で上層部に報告。色々と省きますが、落とし前はつけさせましたのでご安心を」

 言って赤司の手をそっと握る。それが暫く続いて、その少し後。それまで常の無表情で滔々と喋っていた黒子の顔が、くしゃりと歪んだ。恥じるように、俯く。けれどそれで、肩の震えを隠せるはずもなくて。

「テツヤ…」
「…も、なんなんですか…いつもは、誰よりも遅く寝て早く起きる赤司君が…ずっと、目を覚まさないなんて…」
「…心配、かけたね」
「ほんとですよ…何しても起きないし、反応、しないし…僕等が、どんだけ心配したと、思ってるんです…!」
「うん、ごめん…ありがとう…」

 白いシーツの海が、黒子の涙でところどころ色を変える。今は加減なくぎゅっと握られた手が痛い。けれどその痛みに赤司は安堵した。生きてる。自分は、まだ。

「…お前達の、怪我は…」
「俺達も満身創痍だったが、今は大丈夫なのだよ。お前が心配するような怪我を負った者は一人もいない。部下には死者が出たが、…それはまた後で報告書を見てくれ」

 緑間の返答にこくりと頷く。そろそろ声を出すことが辛い。硝煙を吸い過ぎたか、と考えこむ赤司に、青峰が声をかける。見遣れば、いつもは射抜くようにこちらを見る青峰が視線を合わせることを嫌うように逸らしている。
 自分のせいで、などと考えているのだろうか。ならばお門違いの罪悪感だし、そんな青峰でいてほしくない。自分だって仲間が危険に晒されているのを知れば迷いなく仲間を守るくせに。…いや、しかしあの時青峰は自分が狙われていることを知らなかったし、だとしたら赤司が青峰を守ったことも知らないはずだ。何かやましいことでもあるのだろうか。
 赤司はすっと目を細める。青峰を、射た。

「大輝。僕を見ろ」

 思いの外、ちゃんとした声が出た。いつも彼等に命令を伝えるような声。習い性となってしまったか、命じられた青峰だけでなく、泣いていた黒子も他の三人も、ぴくりと躰を震えさせて背筋を伸ばした。
 そんな自分と周りに緊張が溶けてか、青峰はちらりと苦笑を零すと赤司に向き直る。表情を引き締めた。

「医者はお前の怪我は完治に向かっていると言った。だが前線復帰は暫くはどうやっても無理だ。お前は一ヶ月も死線を彷徨ってたし、それにあの日から数ヶ月経ってる。躰を本調子に戻すのは、その倍はかかるだろうとのことだ」
「…そうか」

 赤司は静かに応え、俯いた。半ば覚悟していたが、その言葉は重い。自分が軍にいる意味を奪われたのと同意だ。赤司は戦力だった。策士であり軍師であったが、なにより優秀な兵士だった。
 だが悔いはすまい。赤司はそっと思う。青峰を助けられたのだから、後悔すべきことじゃない。それにこの結末は最悪ではなかった。青峰だけでなく、自分も生きているのだから。

「…で、こっからが本題でさ」

 顔を上げる。青峰はもう逃げなかったが、何か痛みを耐える表情をしていた。怪我が痛むのだろうか。赤司は無垢にそう思っていた。だが。

「赤司、お前に司令部異動が命じられた」
「…――!」
「怪我が完治しない間も頭脳労働しろってこった」

 人使い荒いよな、とぎこちなく笑う青峰を見上げたまま、赤司は唇を戦慄かせた。…司令部に、異動? そんな。そう、なれば。

「今後一切、前線に、出るなと…?」

 司令部は頭脳派のエリートが集う部署。効率良く物資補給できる道を選出し、奇襲をかけるには地理的にどこがいいかなど、軍の戦略を一手に担う。赤司ならば何の問題もないだろう。余りある知識と機転が他の者に引けを取るとは思えない。
 だが司令部はただそれだけの部署だとも言えた。日がな一日戦略を練るだけ。剣を取ることも、敵と鍔迫つばぜり合うこともない。安寧と砦の奥で情報と睨めっこするだけのところだ。
 無論、それで軍の生存率や奇襲の成功率が飛躍的に上昇していることは認める。しかしそれは赤司が求める仕事ではないし、赤司はあくまで戦場を駆けたかった。戦闘狂という訳じゃない。赤司は共にここまで歩んできた五人といたかったのだ。
 なのに、青峰が言う意味、司令部に異動することはつまり、キセキの世代達から離れることを意味していた。

「いや、だ、…嫌だ、そんな…、っ、そんなの承服できるわけないだろう…!」

 叫ぶ赤司に、青峰が眉間の皺を深くする。怒りじゃない。それはやはり、痛みを堪える表情で。

「僕にお前達を手放せというのか…!? こんな、怪我くらいで…!」
「その怪我でお前は死にそうになったんだろうが!!」

 怒鳴った青峰が赤司の両肩を掴む。痛い。痛い。ぎりぎりと締め付けられる。連鎖して躰の傷を負った箇所が痛みを訴える。痛い。痛い。―――痛い。

「お前は俺達とは違う。お前の頭脳は必要なんだ。早い話、半身不随になろうが、お前は頭が残ってりゃあ軍に必要とされる。でもそんな話じゃねぇ。軍とか、国とか、そんなこと、今は関係ねぇよ」
「でも、大輝…!」
「俺達が、上に頼んだんだ」

 赤司の声を遮って、青峰が言う。真正面から視線がかち合う。赤司の片目と青峰の両目がぶつかり合う。聞こえた言葉より遅れて理解した赤司の目が、ほんの少し、開かれた。青峰はその様子をじっと見ていた。逸らすことなく、瞬きすることなく、静かに、見ていた。

「俺が、テツが、緑間が、黄瀬が、紫原が―――俺達が、お前を司令部に異動させてくれと、頭を下げたんだ」

 …おもねることを憎む青峰。強者であることに慣れきって、誰かの下であることを嫌った。それでも軍にいるからにはれっきとした上下関係があって、それは赤司が仲裁に入ったり圧倒的な戦力であることを見せつけることで多少の無礼は許されていたけれど。
 その青峰が、頭を、下げた。…何故? 何故、そこまでして…。

「もう…、お前達に僕は要らないのか…?」

 はらり。晒された赤司の片目から、涙が零れる。その表情は稚く、小さな子どもの泣き顔のよう。叫びにさえならなかった掠れた声が、けれどどんな声より悲痛だった。
 それまで黙っていた紫原が堪え切れないように青峰を押しのけて赤司を抱きしめる。ごめんね、ごめんねと、何度も赤司の耳元で許しを請うて。

「赤ちんは必要だよ。ずっとずっと、俺達の中心だ。そんなの、当たり前でしょ…!」
「じゃあ、なんで…ッ」

 腕の中に閉じ込められた赤司のくぐもった責める響きのある声に。

「…赤ちんに、生きてて欲しいから」

 そっと腕の力を緩めて、紫原は赤司と視線を合わせた。ぱちりと長い睫毛が上下するごとに押し出される涙を優しく拭い、笑いかける。

「この前みたいなのはね、もう見たくない。怪我するのは慣れたよ。痛いのも、別にいい。でも赤ちんが痛いのは駄目だ。怪我するのも、駄目。倒れるのはもっと駄目。目を覚まさないのは、一番、駄目」
「…敦」
「赤ちんが倒れた時、みんなどんな表情かおしてたか知らないでしょ。戦争してるのにね、分かってたのに、誰も自分達の誰かが死ぬなんて思ってなかったんだって、そんな顔してた。最前線で、しかも圧倒的に不利な状況で戦ってたのにね。みんながいれば大丈夫だって思ってた。みんな死なないって、思ってた。赤ちんが、倒れるまで」

 赤司の頬に触れる指。涙を拭うそれは涙の熱を感じて熱く、赤司の肌の感触を感じてくすぐったい。その熱を、感触を、失うかもしれないと思った時の絶望感。それはどんなに言葉を尽くしてもきっと赤司には伝わらない。自分達が如何に赤司が好きかを言い聞かせても、結局分かってもらえなかった時のように。
 だから紫原達は行動で示すことにした。怒られてもいい。呆れられてもいい。それでも、自分達は赤司に生きていて欲しいんだと何かせずにはいられなかった。

「赤ちんが死ぬなんて、嘘だよ。そんな世界は、どっちの国が勝ったって、俺は要らない」

 静かな空間に波及するその声は、誓詞のように厳かで、祝詞のように潔く、清らかだった。
 だがそれをただ聞いてやるわけにはいかなかった。それを言うなら赤司とて同じだ。最悪の事態は想定しても、そうならないようにと尽力してきた。結果、誰が欠けることなく今この時まで生きている。誰かが死ぬなんて嘘だ。みんな生きたまま戦争を終わらせる。戦争に勝つ。それを、疑問に思ったこともない。

「……駄目だ…」
「赤ちん」
「駄目だ…お前達だけ死地に追いやって、僕一人、のうのうと守られているなんて…」

 そんなの、嫌だ。赤司の言葉に紫原は一瞬目を伏せて青峰を見た。伺いを立てるようなそれに、青峰は全員に視線を遣る。応えるように、今度は黄瀬が赤司に近づいた。

「…赤司っち」

 呼んで、壊れ物に触るように赤司の髪を撫でる。ただ梳すくだけの行為。優しく、柔らかい。黄瀬は仄かに笑っていた。けれどその目元は赤く、瞼もどこか腫れぼったい。相当泣いたのだろうと、赤司はひそりと気がついた。
 と、髪に触れていた手が下に降りる。包帯で隠された赤司の左の目尻ぎりぎりを、黄瀬の指が行き来する。怖いとは思わない。でも、どうしてだろう。ゆっくり指が往復する度に、黄瀬の瞳にまた涙が溜まっていく。

「涼太…?」

 今度は赤司が呼んだ。それに返されたのは、やはり笑顔。だが少しの衝撃で崩落してしまいそうな、そんな水面にできた銀盤を思い出させる笑顔で。
 呆然と見ていると、黄瀬はとうとうぽろりと涙を落とした。

「……赤司っち、ね、ここ、怪我したの…銃弾の角度が絶妙で、ほんと、目だけを貫通してったの」

 あぁ、だから左目は包帯で隠されているのかと、赤司はようやく合点がいく。だが瞬きの感覚などに違和感がないことを思えば、義眼でも嵌められているのだろうか。その赤司の心の声を聞いたように、黄瀬は言葉を続ける。

「今はね、ちゃんと目が入ってるよ。義眼じゃなくて、ちゃんとした、人の目」
「…ひとの…?」

 うん。黄瀬は一つ頷いた。簡単で、幼い返事。それ故に赤司はなんだか恐ろしく。

「誰、の?」

 問うのがひどく、怖かった。黄瀬はまだ赤司の目元に触れ続けている。まだ笑ってて。それが、全部なくなった。ぴたりと指が止まり、笑顔が消える。新しく生まれたのは、止まりかけていた涙と。

「…降旗、君…」

 その、言葉。

「………ふり、はた…?」

 何故、今ここでその名前が出てくるのだろう。赤司には分からなかった。全く、分からなかった。どういうことだと黄瀬に問う前に、緑間が口を開く。

「…仔細は俺から話そう」

 眼鏡のブリッジに触れる緑間はいつもの癖が出たようで、だがそのレンズの向こうの瞳はいつもと同じとは言い難く影が潜んでいるような気がした。気のせいか。光陰の関係で、ただそう見えるだけなのか。…分からない。何も、分からない。
 緑間の声は、ラジオ放送の音声のように淡々と耳に届いた。

「お前を医者に診せた時、左目はもう使いものにならないと言われた。このままでは腐る一方だから取り除いて義眼を嵌めた方がいいとも。そうするしかなかった。お前の左側の世界が永遠に失われても、俺達が補えばいい。そう思っていた時に、降旗が医務室に現れた。お前のことを聞いて飛んできたらしい。だが焦っている風に見えて、中々冷静な男だった。お前を見て一瞬で事情を察したよ。そして」

 …あぁ、そして、言ったのだ。緑間は思い出す。ひっそりと緩やかに瞬いたその少しの間の、瞼の裏の黒にその時の光景を映し出す。降旗は言った。強い目をしていた。恐れも何もない。一人前の兵士の顔で。

「自分の左目を赤司に移植してやってほしいと、降旗が言ったのだよ…」





「な…本気か」

 医者が逆に慌てたようにそう言った。俺達も唖然として降旗を見た。降旗は狙撃部隊に配属されていたはずで、その上利き目が左だと聞いた。ということは赤司に左目をやるということは、降旗がもう狙撃兵として機能しないことを意味した。
 しかも狙撃兵は主に後方からの攻撃を得意とする故に接近戦に脆く、そもそも肉弾戦を想定した訓練もしていない。その意味で狙撃兵は狙撃だけに特化していて、他の隊では使い物にならなかった。つまり降旗は左目をなくせば軍にいられなくなる。それを分かっているのかと焦る医者に、降旗は。

「いいんだよ」

 医者を見て、俺達を見て、穏やかにそう言った。

「もう左目は、要らないから」

 愛おしむように左目を瞼の上から撫でて、ぽつりと零す。医者が何かを悟ったように息を呑んだ。

「…バレたのか」
「そうみたい。辞令が下りたってことは、多分そういうことなんだろう」
「……そうか」

 俺達を置いて交わされる会話に、紫原がむっと頬を膨らませた。

「ちょっとー、話が見えないんですけどー」

 その抗議に、降旗が小さく笑む。少年のまま育ったようなその笑顔は何故か眩しくて、だからこそ。

「俺、もう長くないんだ」

 降旗の言葉が、ひどく重い。

「…え」

 言葉をなくす紫原。黒子が何かに気付いたようにハッと肩を揺らす。病気、と小さく零された声に、気付く。そうだ、降旗は幼少時、呼吸器系に持病を抱えていたはずだ。治ったと言っていたが、まさか。
 降旗は各々の反応を見ながら、それでも静かに笑っていた。もう何もかもを受け止めて、どんなことにも驚かないような、老成した者の達観がその笑みには表れていた。

「うん、病気。治ったって言ったけど、ほんとは駄目だったんだ。一年間治療に専念して、でもどうにもならなかった。だけど軍に入るのは小さい頃の夢だった。それこそ、戦争が始まる前から。だから知人の医者に頼み込んで、診断書を偽造してもらった。この医者のじいさんにも色々助けてもらったよ。薬をもらったり、健康診断でも数値誤魔化してもらったり。狙撃部隊に配属希望を出したのは極力体に負担をかけないためだ。そしたら、少しでも長く国のために働けるって思った。…それももう、無理だけどね」

 ふわりと閉じられる瞼。同じように開かれた双眸に、穏やかなヘーゼルの色が覗く。

「どっかから漏れたらしいんだ。まぁ最近ちょっと具合が悪くてみんなの前でも咳き込んでたから、しょうがないんだけど。先日辞令が下りてさ、もう軍にはお前の居場所はないって言われちゃった」

 さざなみの立たない水面みなものようだ。静かで、凪いでいる。命の短さに思うこともあるだろうに。夢に見た場所を奪われる憤りもあっていいのに。降旗は落ち着いていた。とても、落ち着いていた。

「でもそんな俺とは違って赤司はこれからも軍に必要な人間だ。マイナス要素は可能な限り取り除いた方がいい。運良く俺はO型だから、赤司が何型であっても適応するはずだ。視力がどこまででるかは分からないけど、全く見えないよりはいいだろう」

 だから、と言って、降旗はくしゃりと笑う。また子どもの笑顔だ。降旗の現状を知った今となっては、とても見てはいられないのだけれど。

「俺にはもう何もない。この目で見る世界はあとほんの少しだけだ。だからどうか俺の左目を、赤司に移植してほしいんだ」

 その申し出を断る理由は、なかった。





「手術は無事成功した。眼軸は既に着床しただろうし、これから徐々に光に慣らしていけばいい。最初は違和感を覚えるだろうが、次第に馴染むだろう」

 赤司は緑間の話を始終呆然と聞いていた。理解しているのかいないのか、その様子からは分からない。そろりと左手が左目を覆う。包帯の上をなぞる。小さく、口が開いた。

「…降旗は」

 短く聞かれたそれに、緑間が一度口を開き、閉じて、その躊躇いを殺すようにぎりと手を握ってから言った。

「死んだ」

 そうか。赤司はそう言ったように唇を小さく震わせると、目を閉じる。穏やかに、静かに。黙祷のようにも見えるそれ。その光景を壊すことに、罪悪感はあったけれど。

「敵軍に特攻して、死んだよ」

 青峰が、静寂を破る。緑間と紫原が咎めるように声を上げた。

「、青峰ッ」
「峰ちん、それは…!」
「隠してどうなんだよ! ちょっと調べりゃ直ぐ分かることだ! 降旗の言った辞令が除隊じゃなくて特攻命令だったってのも! それを命じたのが俺等をハメやがったあの糞上司だってこともな! あいつは全部隠したままいっちまった! 気付いた時には全部…ッ」
「―――青峰っち!!」

 耳を劈く声。黄瀬がぽろぽろと涙を零して青峰に向かって叫んでいた。

「それ以上、言っちゃ駄目っス! せめて、今は…!」

 黄瀬の視線が青峰を離れ、別を向く。その視線を追えば赤司に辿り着いた。赤司は泣いていた。閉じられていたはずの瞳が薄っすら開かれ、そこから涙がつと頬の上を流れていく。しゃくり上げもせず、肩を震わせることもない。とても綺麗な泣き方で、そして、とても寂しい泣き方だった。

「…すまねぇ…、すまねぇ、赤司」

 青峰の目にも、涙が滲む。悔しい。悔しい。何も気付けなかった。ありがとうも言えなかった。赤司に目を、自分達に安心を与えるだけ与えて、降旗は敵の陣地で散った。誰に見送られることもなく。誰に別れも告げぬまま。たった独りでいってしまった。

「俺達はあいつを守れなかった。何も、できなかった。だから赤司、お前は生きてくれ。俺達にお前を守らせてくれ。あいつの託した目で、あいつの分まで未来を見てやってくれ」

 だから、だから赤司、生きてくれ。その言葉に、赤司はたった一つ、瞬きをした。





 これ、降旗君の部屋で見つけたものです。目覚めてから数日後、そう言って黒子から手渡されたのは手紙だった。封筒に宛名はなく、当然赤司の名も見当たらない。何故自分にと黒子を見れば、きっと君宛でしょうから、とだけ言った。そんなものを見ていいのか躊躇って、けれど結局堪え切れずに封を切る。数枚の便箋。始まりには、赤司へ、とあった。

赤司へ


 取り敢えず手紙を書こうって決めたはいいけど、こういうの、なんて書きだしたものか迷うな。滅多に手紙書かないから時候の挨拶も分からないし。だから適当に書いていくよ。始めは、そうだな、昔話でもしようか。

 出会ったのは丁度15年前だったな。お前は覚えてないかもしれないけど、俺は今も覚えてるよ。よちよち歩きの頃でさ、その上俺は持病でいつもふらふらしてた。傍から見たらすげぇ滑稽に見えたんだろうな。いつも周りの奴等が笑ってた。俺はそれに何も言えなくて、言いたいことはあったけど喉がそれを許しちゃくれなかった。悔しかったよ。言葉も声もあるのに、俺はいつだって言いたいことを飲み込んできた。それで余計病気が重くなっちゃったのかな、なんて。
 でもお前だけは笑わなかった。興味なかったって言われればそれまでだけど、そういう奴ってそれまでいなかったから、俺はとても嬉しかったんだ。困ってたら助けてくれたし、周りの奴等を宥めてくれたこともあった。俺にとってお前は大きな存在だったよ。同じ場所に住んでたのは少しの間だったけど、お前と出会えてよかったと思うんだ。

 そんな思い出を大事にしてたら、まさか軍学校が同じになるとはね。まぁあの戦争で地区なんてなくなってしまったし、ありえない話じゃなかったけど、考えもしなかったから正直びっくりした。それと同じ、いや、それ以上に嬉しかった。こんな誰がどこで死んでるか分からない時代に、また会えたんだぜ?すごいよ。
 でもお前、冷たいのな。俺のこと無視するし、返事はつんけんしてるし。過去のことなんか知りませんって感じですましてるし。結構傷ついたんだからな!
 とか言って、まぁ、お前が元気だって分かっただけよかったと思ってる。周りの奴等、キセキの世代って言われてんだっけ、そいつらとちゃんと楽しそうにやってるようで安心したし。ってオカンか!自分で突っ込んじまったわ。ハハ。

 ま、欲を言えばやっぱりまた仲良くしたかったな。もっと喋りたかったし、もっとちゃんと関係を築きたかった。俺等の関係って何?って感じだもんな。幼馴染とはちょっと言えないし、友達ってほど仲良くなれなかったし。顔見知り?知人?その程度か。折角このご時世に再会できたのに、ちょっと寂しい気がする。俺はあんなに感動したのに。独り善がりだけどさ。
 あー、あとも一個、欲があったんだ。欲っていうか、願い事っていうか、赤司にしてほしかったこと。また、光樹って呼んで欲しかった。思い返せばあだ名で俺のこと呼ばなかったのお前だけなんだよ。最初に俺の名前呼び捨てにしたのもお前だったし。なんか思い入れあるんだよね、この名前。だから今までそこそこ仲良くなっても誰にも名前呼び捨てにさせたことなかったし。なんて、それこそ独り善がりだよな、ごめん。

 お前はこれからどんな道を行くだろう。多分、俺なんかが想像もできない厳しい道を行くだろうな。お前は自分に厳しいし、絶対妥協しないし。周りにもそれを求める傾向があるから、注意な。人にはボーダーラインてもんがあるんだ。お前じゃなくその人のボーダーラインに達してたら、ある程度は許してやれよ。

 最後だからって説教しちまった。俺に言われなくても分かってるよな。あいつらがお前のこと、ちゃんと見てくれるよな。そうだったら、いいな。

 じゃあな、赤司。元気で。しばらく会えないことを願ってる。

降旗光樹

 まったく、言いたいことを言ってくれる。赤司はちらりと笑んで手紙の表面に触れた。なぞる。筆跡の凸凹を指の腹で感じた。それが「光樹」という箇所で止まる。光樹。降旗の名。

「…呼べば、よかったのか」

 悔やむ。忘れたものと思っていた。だからいきなり名で呼ぶと変に思われるかもと、一貫して苗字を呼びつづけてきた。
 それに危惧していたのだ。赤司は薄っすらと自分達の上司が後ろ暗いところがあることを知っていた。本能というか、勘のようなもので。だから自分と同じくらいの力を持つか地位にいる者でなければ近付くことを躊躇った。キセキの世代と懇意にしていると、その上司に目をつけられる。降旗にその火の粉がかかることが怖かった。
 よってあの命令書が本当に降旗の病状を知った上で送られたのか、赤司は疑問に思っている。もしかしたら、赤司と降旗の関係をどこかで耳にしたのかもしれない。だがどちらにせよ、降旗が短命であったのなら呼んでやればよかった。

「…でも君だって、僕を”征”とは呼ばなかったじゃないか」

 息の短い降旗は、長文を喋ることができなかった。だから征十郎と呼び切ることができなくて、降旗はただ”征”と赤司を呼んだ。赤司をそう呼んだのも、赤司がそう呼ぶことを許したのも、たった一人。
 そんな人間を忘れられるはずもないのにと、ほろりと笑って赤司は上体を重ねた枕やクッションに預けた。手紙を持つ手を無造作にベッドに投げる。天井を見た。真っ白の、模様さえないそれを見たまま、ゆっくりと呼吸する。深く浅く、繰り返して。そうして。

「光樹」

 呼ぶ。呼んで。

 ―――”せい”

 そう声が返ってくるのを、いつまでも待っていた。





 赤司率いるキセキの世代はその後、異例の昇進に次ぐ昇進を繰り返し、全員が二十になる頃には全軍の要となっていた。中でも赤司は上層部に食い込み、彼等を意のままに操ったと聞く。彼の目は片方ずつ色が違ったがその理由は明らかとはなっておらず、赤司も固く口を噤んだ。ただ梅雨に入ると左目を押さえる姿がよく見られたらしい。
 彼等が指揮を執るようになってから戦争は終焉に向かって転がり始める。求めた平和は、直ぐそこまで迫っていた。





戻る



 20120701





PAGE TOP

inserted by FC2 system