閻魔の色事
最近誰しもが抱えている違和感。その大元の原因を知っている。気づかないはずがない。だが誰もが知らないふりをしていた。それを指摘してしまったら、なんだか恐ろしいことが起きそうで。
「でもっ、もー我慢できないっス!」
着替え終わってベンチに座った途端そう叫んだ黄瀬を咎める者はいなかった。そろそろ誰かがこの膠着状態を断ち切ってくれないだろうかとひっそり願っていたところで、部活後のそのそと時間を稼ぐように着替えていたのはそのためだ。よくやった、と青峰は言わないまま黄瀬の頭を撫でて。
「よーし、お兄さんが聞いてやろう」
「俺も聞いてやるのだよ」
「俺もー」
「僕もお兄さんとして聞いてあげます」
「なんなのこの連帯感! そして黒子っちはお兄さんの部分をそんな嬉しそうな顔で強調しないの!」
妙にあっさり乗ってきた四人に突っ込みながらも、黄瀬は話を展開させる。話題の中心は、今いない人。
「この頃の赤司っち、変っス」
いないからこそ言えること。だがいないからと言って口にするのが怖くないわけじゃない。彼が地獄耳であることは、嫌というほど知っている。それでももう我慢の限界だった。聞かれたっていい。いっそ聞いて欲しいくらいだ。そのくらいの意気込みで黄瀬は喋っていた―――のに。
「前からだろ」
「前からなのだよ」
「前からだよね」
「前からです」
「もうなんなの今日の結束力! 確かに前からだけど、最近はもっとおかしいでしょ!?」
うがー!!、とモデルってなんだっけ?、という感じで髪を掻き乱す黄瀬。ふざけ過ぎたと反省してか、まぁまぁと言って黒子が乱れた髪を手早く整えてやる。
その手櫛の柔らかな感触と微かに感じる人肌の温もりに落ち着きを取り戻して、黄瀬は黒子をちらりと見た。かと思うと、へにゃりと眉を八の字に下げてその目にじわりと涙を滲ませる。一等近くにいた黒子が、黄瀬の異変にいち早く気がついた。
「黄瀬君?」
「……赤司っちが、変なんス…」
「…えぇ、そうですね」
精神的にキテいるらしい。勘付いて、黒子は尚更優しく黄瀬の髪を梳いた。声音も温かみを増して穏やか。青峰達も黄瀬の様子に表情を引き締めた。
「俺がミスして怒らない赤司っちなんて、赤司っちじゃないっスよ…」
ぱちりと瞬きをすれば、淵に溜まった涙がつと頬を伝う。それを他人ごとのように感じながら黄瀬は思い返していた。
いつからだろう。彼が、赤司が、ミスをする自分に何も言わなくなったのは。諦めたように、ただ瞼を閉じるだけになったのは。…あぁ、あの青峰との試合からだ。普段ならば最後まで気を抜くなという声が体育館を震撼させただろうに、あの時はひどく静かだった。
1on1の最中もそれが気になってしょうがなかった。青峰もそうらしく、結局終始調子に乗れないままゲームを終えたのだっけ。
「…嫌っス…」
怒られるのは怖い。睨まれるのは恐ろしい。けれど、その裏には黄瀬の能力を最大限に引き出そうという意図があることを知っている。自分のために、もしかしたら究極的には勝利のためというのが本音かもしれないが、それでも伸ばそうとするから赤司はみんなに檄を飛ばすのだ。
できると信じられている。それは心地の良い、優越感とも言えるもの。だから黄瀬は怖くても頑張れる。青峰だってなんだかんだ言いつつ赤司の言葉を待っている。緑間も紫原も黒子だって同じこと。みんなが赤司の声を、怒声を、激励を、聞きたがっている。なのに、どうして。
「なんで、何も言ってくれないの…」
ノルマをこなしてなくても怒らない。ふざけている青峰を注意しない。緑間の無茶を黙認する。こっそりお菓子を食べる紫原を見ても反応せず、黒子がバテても声を掛けもしない。
赤司が口を閉ざしてしまった。仕舞いには瞼さえ閉じて何も見ようとしない。溜息を零されたのなら、ただ呆れられたと思えるのに。それすらなくて、ただ、静か。今では練習内容を伝えるだけで赤司の声は消えてしまう。体育館に響かない。今がこれでは、もしかしたら、これから、ずっと。
「そんなの、やだ…」
ぽたぽた。部室の床に小さな水たまりができる。いくつも、いくつも。雨が降り始めたばかりの地面のよう。いつか覆い尽くしてしまうだろうか。そう、ぼんやりと思っていると。
「…お前達、まだ帰ってなかったのか」
戸締りをしにきたらしい赤司が部室のドアを開いて入ってきた。そして内部の様子に眉を顰める。皆一様に赤司を凝視していた。何か言いたげな様子に疑問を抱きつつも、赤司は一直線に涙を浮かべた黄瀬に近付く。腰を屈めて頭を撫でた。
「どうした、黄瀬。こいつらに虐められたか?」
優しい。澄んだ声も、口端にある笑みも、撫でる手の仕草も、全て。…なん、で? なんで、今、――…優しくするの。
「…ッ、赤司、っちぃ…」
そのままでいいんス。怖くていい。頑張るから、怒っていいから、だからだから、赤司っち。
「俺達のこと、嫌いになっちゃ、嫌っスよぉ…」
くしゃりと顔を歪めて子どものように泣く黄瀬を、赤司は一瞬驚いた顔をして、けれどあぁと何かに気付いたらしく、困ったように笑った。
「嫌いになったわけじゃない。ただ方針を変えようかと思っただけだ。怒ってばかりだと、お前達のストレスになってしまうのではないかと思ってな。ビクビクされながらゲームされるのを見るのも中々に辛いものだから」
それに、と言葉を接ぐ。
「そろそろ俺が何も言わなくても自分達で何をしていいか悪いか、すべきことかを考えて欲しかったんだが…」
微笑。赤司の口元にあるのはそれだ。けれどふと、黒子は何かに気がついた。青峰もなんだか変だと思い始めた。紫原はんーと考え込んでいる。緑間はただ、眼鏡のブリッジを上げた。黄瀬は何も気づかない。赤司の嫌いじゃないという言葉に勢いづいて、ぴょこりと犬耳を峙たせた。
「俺達には赤司っちの言葉が必要なんス!」
「今まで通りでいいと?」
「願ったり叶ったりっスよ!」
その台詞の流れで、黒子がはっと顔を上げた。青峰は慌てた様子で、紫原はあちゃーと言いたげ。緑間はそっぽを向いている。黄瀬は全力で尻尾を振っていた。
「大事な戦力の黄瀬にそこまで言われちゃあ、俺も心を鬼にして頑張るしかないな」
「はいっス!」
にやり―――その擬音とともに、赤司の笑みが種類を変える。
これはものの見事に―――嵌められた。
これでこれから赤司がどんな無茶ぶりをしようが、自分達は今日のことがある限り反抗する手立てはない。下手をすれば少しのことでしっぺ返しを食らうような状況に自分達を追い込んだことになる。
「赤司、てめ…!」
「あー、青峰っち、赤司っちに暴力ふったらダメっスよ!」
「おめぇも気付けよ!」
「いたっ」
「峰ちん、ごーごー」
「紫原、煽るななのだよ」
急に活気づいた部室内に、赤司はのほほんと笑う。黒子はその隣に立ち、溜息を吐いた。
「赤司君。君がそういう人だとは知っていましたし諦めてもいますが、
「騙すというのは語調が強すぎるな。俺はいつまで経ってもお前達が同じことを繰り返すから、俺の指導が間違っているんじゃないかと不安になって指導方法を見直そうとしただけだ。ただこうなるだろうな、というシナリオは既に頭の中にあったけれどね」
まったくその通りになったでしょうね、とは、さすがに口にしなかった。言っても赤司は微笑むだけだと知っていたが、そう何度も鬼の笑顔を目の当たりにしたくない。困った人だと黒子が思う最中、赤司が少し躊躇いがちに口を開いた。
「…でも、まぁ」
見れば、赤司は笑いながらどことなく沈んだ顔をしていた。何に心を痛めているのか。黒子が首を傾ぐと。
「泣かせる気は、なかったんだが」
その言葉に、ひっそりと笑む。知っていますよ、そんなこと。赤司がキセキの世代を大事にしてくれていることも。気にかけてくれていることなんて。それを知るから、みんなはどれだけ無理難題を突き付けられようとそれを達成してしまうのだ。変わる必要などどこにもない。誰もそれを望んでない。
「赤司君は赤司君のままでいいんです」
例えどんな無茶を言おうと、そんな貴方に自分達は付いて行こうと思ったのだから。