⑩Te amo.:愛してる

注:⑨の設定を引き摺ってます。


 ガタッ、という音が、朝も早くに聞こえてきた。時計を見れば午前七時過ぎ。既に起きて朝食を作っていた赤司はぴくりと肩を揺すらせて顔を上げ、鍋にかけていた火を消して音のした部屋へと足を向けた。そこは赤司の恋人で同居人の、降旗に宛てがわれた部屋だった。一応、とんとん、と礼儀上のノックをしてから、しかし勝手知ったる、とばかりに返事も待たずドアを開けて覗きこむ。朝陽が眩しいからとカーテンを締め切った部屋は朝と言えど薄暗く、何かに躓いたのだろうかとベッドの傍で蹲る影に目を凝らしながら声をかける。

「大丈夫? すごい音したけど、転けた?」
「あぁ、いや…」

 返事は直ぐにあって、寝起きがあまりよろしくない降旗にしてみればすっきりした声に、ならば遠慮は要らないと赤司は傍にあったスイッチを押して電気をぱちりと点けた。途端、部屋が蜂蜜色に染められた。白熱灯では白すぎて味気ないし色的に冷たい感じがするから嫌だと文句をつけた降旗のために、わざわざ電球を付け替えたのだったか、と薄っすら思い出しながら当の本人を見れば、少々困った顔でベッドの下を凝と見てぺたりと床に座ったまま。その視線を追って、あぁ、と合点がいく。

「前板が外れたのか」

 降旗のベッドは所謂収納付きベッドと言うやつで、ベッドの下の空間が箪笥の引き出しのように収納するためのスペースになっている。特別取っ手が付いている訳でもないので、前板の下の出っ張りを引くようにして使っていたのが、今回力の加減か中に衣類を詰めすぎたかで外れてしまったようだった。あちゃー、という顔で降旗が前板を手に持ちながら元のように嵌めようとするも、何度試してもガタリとまた落ちてしまう。木工用ボンド持ってこようか、と声を掛けた所で、とうとう諦めたらしい。

「いいや。まぁ、これって中学ん時に一人部屋貰うついでに買って貰って、今まで何回も外れたのを騙し騙し使ってた奴だからなぁ。スプリングももう…って感じだし」

 とうとうがたが来たか、と持っていた前板をベッドの側面に立てかけて小さく笑う。想い出をなぞる眼差しに目を細め、それは知らなかった、と呟けば、そういや言ってなかったっけ、とこちらを向いてはらりと笑む降旗。それに笑み返しながら。

「中学からこれまで、前板が外れるほど何をそこに入れていたのか、朝食を食べながらでもじっくり聞くことにしよう」

 にこり、といっそう深く笑ってやれば、げ、と言いたげな表情の後。

「今は必要ないもんだよ」

 にやり、と降旗も負けじと返す。聞いて、赤司の胸が擽ったくなった。口元が緩む。そして。

「僕がいるから?」
「お前がいるから」

 いつかと丸っきり同じ会話に、二人は目を見合わせてまた笑う。照れと愛情と優しさが混じった、とても温かい笑顔だった。





 今日は日曜でたまたまどちらもバイトが休みということで、朝食時、新しいベッドを見に行こうかという話が赤司から持ちだされた。

「前板を外したままだと不恰好だし、収納してある衣類にとってもあまりよろしくないしね。それに君も言ったように、あのベッド、寿命だと思う。どうせベッドはこれからも必要不可欠なんだから、いっそ買い換えたらどう?」

 というのが赤司の弁だった。それもそうだな、と降旗はしばし考える素振りを見せて、けれど結局頷かずに止めておくと言う。金銭的に余裕がないのだろうか、と訝しむと、そうではないんだとまた首を振った。

「ベッドならさ、まだあと一つ残ってんじゃん」
「…それは、僕の?」
「そう。そこで寝させて」

 あっけらかんと言う降旗に赤司が渋面を作ったのは、別段、嫌だからと言う訳ではない。だが何のために今までベッドが二つ必要だったかを考えれば、自然とこういう顔にもなる。大体、言い出したのは降旗だ。

「どういう心境の変化?」

 丁度食べ終えたこともあって箸を箸置きに置いて問う。降旗は一瞬肩を竦めて、別に、と言うと。

「心境の変化っつぅか、…あぁ、でも、そうなのかな」

 反論をしかけた所で小首を傾げて天井を見る。それが考え事をする時の降旗の癖だと、赤司はいつからか知っていた。降旗は一分か数分、そのままで考え続けたかと思うと、考えがまとまったのか視線を戻して赤司を見て、するりと通りすぎて机と自分の躰の隙間から覗える床を見た。
 おや、と赤司の表情に疑問がよぎった。他人に物怖じしないタイプの降旗は、基本的に人の目から視線を逸らすことはあまりない。それを嫌う人間に対しては機敏に察知して対策を練るけれど、赤司と喋る時は恥ずかしい時以外、喧嘩をする時にだって目を合わせてくる。そんな降旗が何故、と赤司は不思議に思った。表情からして恥じている風ではない。厳密に言うと気落ちしている風である。だのに口端には微笑が鎮座しているから、なんだか奇妙に自嘲している顔にも見えた。

「……ちょっと、ヤな話、するよ」

 それでも、聞きたい?

 押し黙る赤司に、降旗は逸らしていた視線をちらりと目を上げることで合わせてきて、そう聞く。聞けば降旗は傷つくだろうか。常にない表情にその考えはひしひしと真実味を帯びていて、赤司は少し躊躇した。だが聞かなければ降旗はこの事柄について一生涯口を閉ざすだろう。今を逃せば永遠にこの時の降旗の心情を解する場も時も失う。なんだかそれは降旗を構成する一部分を永久に失うことと等しく思えて、赤司は惑う心を叱咤して頷いた。

「聞かせて」

 短く請えば、降旗はじゃあと前置き、さっきまでの逡巡を思わせない気軽さで言い出した。

「俺達はさ、大学までの付き合いじゃん。それは、前に二人で決めた通り。それでいいし、それがいいんだと思う。そのことに今更異議なんてない」

 まず、それは言っとく。降旗は少々強い言い方で、聞き方によっては憤然とさえ受け取れる口調でそんなことを言い、またこちらの返事は最初から待つつもりはないようで、さっさと再度口を開いた。

「だからこそ、かな。前板が外れた時、なんでかこれが最後だって、ふと思ったんだ。その言葉が脳裏にふっと湧いてでた感じでさ。自分でも訳分かんないって思って、だからお前が部屋に来た後もちょっとぼんやり考えてたんだけどさ。多分、そういうことなんだ。これが最後なんだよ」

 その言い様が自分に言い聞かせるようだと思って、またもや逸らされた視線がいっそうその思いを強固にした。降旗にはそんな嫌いが前からあり、言い聞かせなければ本当にはならないのだと思っている節があった。それは降旗自身、気づいていてのことだろう。次の言葉で、それは知れた。

「俺は、俺に自信がない。今でもお前に釣り合うなんて思っちゃいない。思えないんだ。好きだったらそれでいいじゃんって、開き直ることもできない。だからお前との関係を誰かにバレるのが凄く怖い。お隣さんにバレんのも、俺やお前の親にバレんのも怖い。本当は黒子や火神、青峰達にだってバレたくなんかなかった。言わないで欲しかった。俺とお前の関係は、俺とお前で完結しているべきなんだと思ってる。ベッドは、その象徴だったんだ」

 普通、友人だからと言って男同士で一つのベッドに寝ることはない。必要にかられてと言うのなら分かるが、四年間棲むことが前提の家に片方がベッドを持ち込まないなんてことは、不自然以外の何物でもなかった。だから降旗は嫌がった。自分達の関係が同居の理由の最たるものであっても、それを誰かに漏らすべきでないと言い張った。

「でも、それが壊れちまった」

 たがが外れるように、ぱかりと落ちた前板。それを見て、降旗の中でも何かが壊れてしまったということだろうか。壊れて、これが最後なのだと思った。これが、最後。それは一体、なんだろう。

「…もう、大学生活の半分以上が過ぎてるんだ。あと二年もねぇんだって、最近ずっと思ってた。三年の後半からは就活も始まる。四年になれば卒論だ。そうそう暇もない。多分、恋人らしいことなんてやれねぇし、俺の方にそんな余裕があるとは思えねぇ。そもそも自信がない俺のことだ、そんな時にベッドが二つあったら、俺は絶対お前から離れようとする。凹んだ時、どうしたってお前と比べちまう自分が嫌で、比べてその差に落ち込む自分が嫌で、段々お前と喋んなくなりそうで…。自然消滅みたく、お前と終わりたくないって、思った」
「…それで、僕のベッドに、ってこと?」
「うん」

 はっきり言われて、確かにこれは嫌な話だ、と赤司は表情を変えずに思った。こんな話をされた後に共寝をするのは中々きついものがある。だがそれだけではないのだと、降旗は言葉を続けた。消えていた笑みが、またほのかに上る。視線はまだこちらに向かない。

「俺、お前と恋人でいたいよ。最後まできっちり、恋人としてここに住んで、そして終わりたい。終わったらこの家ともおさらばで、次に住むのは別々の場所。俺とお前が付き合ってた、なんてのは俺達の記憶に残るだけで、後はどこにも残らない」

 高校時代は別として、大学に入ってから互いにプレゼントを贈り合わなかったのはその所為だった。形に残る物は贈らないと二人で決めた。だからこの二年と少し、誕生日も記念日も、クリスマスといった祝日も、二人の間で物を贈ったことは一度もない。ケーキか、言葉か、精々遊園地のチケットを贈るくらいのものだった。これからもそうだろう。よって最後の四年間、自炊して問題もあって喧嘩もして愛し合った二人だけの密な日々は、何に仮託されるでもなく、何れ風化する記憶にしか残らない。

「後ちょっとなんだって思ったら、寂しいって思いたくねぇけど寂しいって思った。何か残したいと思った。記憶なんて曖昧なもんじゃなくて、これっていう何かが欲しいって思った」

 今更こんなこと言ってごめんな、と降旗はしばらくぶりに赤司を見て微笑んだ。泣き笑いのそれにどう返していいか分からなくて、赤司は小さく首を振ることで応えに代えた。それを見届けて、降旗は。

「だから、お前のベッドに残そうって思いついた」

 そう、ぽつりと言う。

「今でも、俺達の関係は俺達が知ってりゃいいってその考えに変わりはないよ。でも、前板が壊れたのは最後のチャンスなんだって思ったのも本当なんだ。俺が嫌だからってずっと避けてたもんを、そんな弱い心を取っ払うチャンスなんだって。俺達の記憶を何かに残したい…って」

 だから、さ。

「俺のベッドはもう要らない。お前のベッドを使う。二人で使って、毎日思い出残してさ、そんで別れても思い出してくれたらって」

 そう、思ったんだ。言ってふわりと目を閉じた降旗に、赤司は笑う。無理矢理ではない、けれど純然と零れたとも言いがたいその笑顔を、降旗は見ないまま。

「身勝手だね」
「うん」
「僕だけに君との思い出を押し付けるんだ」
「うん」
「ヤな、話だね」
「うん」

 赤司の穏やかな口調で紡がれる辛辣な批難を、終始穏やかに受け止めて、それでも、と目を開ける。榛の色を薄めた琥珀の双眸が、柔らかに細められて。

「俺の思い出、背負ってくれる?」

 いつかお前のベッドが寿命を迎えて、役目が終わるその時まででいい。そう言えばそんな日々もあったと、思い出してくれるだけでいい。願うように降旗が零す言葉と寄越す視線に。

「…背負うよ」

 赤司は厳かに言って、また小さく笑った。





 腕の中で静かに寝入る降旗を、赤司は微笑みを浮かべて見下ろしていた。さわりと榛の髪を梳く。瞼の下に隠された琥珀を恋しく思った。いつか手放す存在。そのいつかはあっという間に来るだろう。寂しい。それはどうしたって拭えない感情だけれど。

(それでも、ねぇ)

 光樹、と恋人を呼ぶ。いらえはない。ただ穏やかな寝息だけが夜の帳に対抗する中で。

「僕の愛を見くびらないで」

 赤司はひそり、そう囁いた。





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 20121209





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