(一)

[ 花言葉:嘘をつくなら上手に騙して、騙し討ち、ひとりぼっち ]



 静かな夜の夢をみる。山から見下ろした人里。雪に掻き消された音。薄暗い中焚かれた篝火。遠くに見える、親子の姿。それはどうしたって手の届かない、向こう側の世界だった。

(人の世界…おれが、いられない場所…)

 生まれついた変化の能力は、母さんから受け継いだものだった。父さんはできず、他の兄弟も能力を開花させることはなかった。その前に、死んでしまっただけなのかもしれないけれど。

(…それでも、人じゃ、ないから)

 混じることはできない。一時身を寄せても、結局はどこかへ流れて行かなければならなかった。正体が露見した時の恐ろしさは、それはつまり人の恐ろしさに直結するのだけれど、母さんからよくよく聞かされていた。母さんの姉が、それで無残に殺されたのだと言う。

『人は恐ろしい…腹を満たす動物だけじゃなく、食べられない人間同士でも時には殺し合いをするんだからねぇ』

 母さんの口癖だった。それに対し、いつもそうだねと返してはいたけれど。

 ―――……き…

(ほんとは、ね…おれ、ほんとは…)

 ―――…うき…!

 それでも…人に、なりたかったんだよ…。





「コウキ!」
「ふぇ…?」

 ぱちり。目を開ければ、白い光が容赦なく降り注いで、目に痛い。緩和するようにコウキはぱちぱちと瞬きを繰り返して、目を擦った。まだどこかぼんやりしたままの頭と視界を巡らせれば、ぎょっとするほど近くに赤司の顔が見えた。一気に目が冴える。

「せ、征十郎…」

 既にぴしりと着替えている赤司は寝転んだままのコウキを睨めつけるように見て。

「寝坊助だな。もう起きないと待ち合わせに間に合わないぞ」

 と時計を指さす。見ると、既に八時を過ぎていた。待ち合わせと言うのは黒子達との約束で、時間は九時、しかも赤司の家の前なのだが、それでも着替えて洗顔をし、朝食を食べるとなると、まだこの時代の生活に慣れていないコウキにはそれなりに時間がかかる。
 しかしコウキにはその自覚以前に。

「え、と…九時は、ここだから…うん…?」

 時計の読み方がいまいち分からないらしい。確かに今まで時計のない生活をしていたのだから当然とは言え、読めないと知った時、赤司はカルチャーショックに似た衝撃を受けた。
 今もその残滓に目眩を覚えながら、時計と睨めっこするコウキから布団を剥ぎ、首根っこを掴んでベッドから追い出した。

「兎に角顔を洗ってこい。着る物は俺が用意しておくから」
「はーい」

 良い子の返事をしてコウキはタタッと部屋から飛び出し、洗面所へ向かって階段を駆け下りる。狐らしく俊敏な動きに、バスケをやらせたら面白いかもな、と内心で思案しながら、赤司はクローゼットを開けてコウキの服を見繕うことにした。
 しかしいくら待てども帰ってこない。どうしたんだと階下に行ってみると、洗面所で楽しげに石鹸を泡立てているコウキがいた。

「……コウキ」
「あ、征十郎! すごいねぇ、見て! ふわふわしてるよ」

 テレビで見て一度やってみたかったんだと興奮を隠し切れない様子で頬を紅潮させるコウキは、大きな姿とは言えまるきりの子どもで、そんな彼に怒鳴るのも大人気ないと、赤司は「あぁすごいな」と頷くだけにとどめて奥の手を出す。

「でもそんな泡だらけの手だと、朝食は食べられないぞ? 今日はコウキの好きなメロンパンなんだが…」

 どこに惹かれたのかは分からないが、コウキは最初の日に黒子がコンビニで買ってきたメロンパンを甚く気に入ったらしい。以来、何かにつけてメロンパンを買って帰ると、ひどく喜んだ。仕舞ってあるはずの尻尾を振っているのが見える気がするほどに。今日もそれに漏れず、コウキはメロンパンという単語に食いついた。

「めろんぱん! あるの?」
「あぁ。ここしばらくは和食だったからな、久々に食べたいだろうと買っておいた。紫原のおすすめだぞ」
「敦の? やった!」

 にこりと顔を綻ばせたコウキは、いそいそと水で泡を落としていく。そもそも何のために泡立てたのかとその様子を見て赤司は思うが、きっとコウキは悪びれもせず「やってみたかっただけ」と言うに違いない。無駄遣いという言葉も教えないとな、と思いながら今度はリビングに連れて行く。
 そうしてメロンパンを与えた頃には、既に針は八時四十五分を過ぎていた。





 ―――結果。

「コウちんおそーい」
「ご、ごめ、なさい…ッ」

 時間通りににチャイムが鳴って、二人が出てきたのはそれから大体十分後のことだった。メールで大まかな流れを聞いていた五人はしょうがないなと、小さな子どもが悪戯がバレた時のように決まり悪そうに縮こまるコウキを見る。今日は赤司の服を借りてシックな装いをしているだけに、その幼さが一層浮き彫りになってアンバランスだ。

「やっぱ赤司の服はこいつ向けじゃねぇな」
「んー。まぁ、赤司っちの格好は赤司っちにしか似合わないというか…」
「系統が違うのだからしょうがないのだよ」
「そうですね。どちらかと言うと青峰君寄りでしょうか」
「あー、元気っ子ねー」
「え、元気っ子って言ったら俺じゃないっスか?」
「おめぇはウザいっ子だろ」
「どことなく〈〜っ子〉っていう響きが可愛くてイラッとしますね」
「と言うか気持ち悪いのだよ…」
「やだねー」
「みんな酷ッ!」

 そんなやり取りをしばらく黙って聞いていた赤司が、一言。

「どうでもいいが、行かないのか?」

 そう問えば、「行きまーす」と五人揃って良い子の返事。コウキ並か…と赤司は一瞬遠い目をして、「じゃあ行くっスよー!」と先頭に立って張り切る黄瀬の斜め後ろを歩く。気づいた黄瀬が赤司に歩調を合わせた。

「コウキっち、もう人の生活に慣れたっスか?」
「まぁ、そこそこな。この一週間、詰め込むだけ詰め込んだし」

 あの、コウキが自分達の傍にいることを決めた日から、今日で一週間。その間赤司の家に寝泊まりしていたコウキは、赤司から自分が学校に行っている時間帯はテレビを見ることを厳命され、帰ってきてからは料理や洗濯物など、家事について片っ端から教えこまれた。
 コウキは一度も泣き言を言わなかったが、しかし、困ったことに反比例してごめんなさいと言う回数はそれまでと比べて格段に増えた。失敗した時、赤司の言葉が理解できなかった時、思い通りにならない時、コウキは全部を「ごめんなさい」で贖おうとする。謝らなくていいと、赤司は何度も言ったのに。

(まだ、引きずってる)

 ここにいることを決めたのに、コウキは自分の存在を未だ異物として認識している。だからせめて役に立とうと頑張るのだが、時折それが空回る。旨くいかない。失敗する。ごめんなさい―――という具合だ。

(また見事な悪循環だな…)

 思いながらちらりと肩越しにコウキを見れば、黒子と紫原にサンドされていた。無垢な笑顔をほろほろ零し、無邪気にみんなでいることを喜んでいる。二人が何故自分の脇を固めているのかなんて気づきもしない。興味の引かれるままに車の有無も考えずあっちこっちへ行ってしまうコウキを守るためだとも、もしかしたら自分を庇ってどちらかが傷ついてしまうかも、なんてことさえ想像の範囲外。

(……でも、まぁ)

 最初はそういうものかと思ってしまう。それはまるで赤ん坊に対する許容に似ていて、コウキが知れば機嫌を損ねてしまいそうだけれど。

(ゆっくりでいい)

 気の長い話だ。けれど背負うと決めた。一緒に歩こうと手を伸ばしたのは赤司の方だ。だからコウキの手を引く。導く。時には一緒に立ち止まったっていい。それで、目指す場所にいけるなら。

「だがさっき石鹸で遊んでるのを見た時は、正直不安に思った」
「あはは、コウキっちらしいじゃないっスか。可愛い。シャボン玉あげたら喜ぶっスかねー」
「やめておけ。多分誤飲する」

 それは確かに、と頷く黄瀬も、大方コウキに抱く印象は赤司と同じなのだろう。いや、黄瀬に限らず他の四人も一様に似たり寄ったりな感想に違いない。あの青峰や緑間でさえ、コウキに対しては些か口調が柔らかくなる。まぁ元々彼等の口調が厳しくなるのは決まって黄瀬に向けられる時なのだが、その気持ちが赤司にも分かるだけに咎めたことはない。

「しかし、悪いな」

 見上げて言えば、黄瀬はその視線に微笑んで返した。

「いいんスよ。コウキっち引きとめようと思った時から頭にあった考えだし、言い包めるのはそんな難しくなかったっス」

 それに、と黄瀬はコウキを一瞬見て深く笑う。照れたように含羞はにかんで。

「コウキっちのためっスから」

 それが全てと、言うように。





『ほんとはね、行っちゃダメって、言われたんだ』

 蝋燭の火に暖められてほうっと息を吐く。微温湯に浸かっているような心地よさに、寒さに固まった躰が解されたのと同様、心の口も綻びてしまったよう。そう呟いてしまったことに、慌てて口を手で塞ぐ。
 けれど静かな夜にそのささめきが聞こえないはずはなく、セイは向かい合って膝上に座るおれを落とさないようにと背に回した手で続きを促すようにとんと叩く。黙ることもできなくて、ほろりと唇を緩めた。

『いつか離れるなら、いっそ早く別れてしまいなさいって…』

 そうしたら辛くないよと母さんに言われたんだと言えば、セイは溜息を吐くように、そう、と言う。どこか思案するように目を伏せて、ふわりと長い睫毛が瞬いた。蝋燭が隙間風に揺れて、セイの顔の陰影を濃くする。
 少し経って、影の中、色違いの両目が開かれて火に反射し、やんわりと滲んだ。

『コウキも、そう思う?』

 優しく問われて、眉尻を下げて困った顔を作る。答えることに躊躇して、でもその瞳から逃げるのは卑怯な気がした。言わなくちゃいけない気がして、だから。

『…そうかもしれないとは、思った』

 そう正直に言い、でもね、でも、と、舌足らずに言い繋ぐ。

『会えるのに会わないのも、寂しいし、辛いよ…』

 ぴと、と縋るようにセイの頬に触れる。自分とセイの体温が混じり合って、温かい。この温もりから離れることなど考えたくもない。冬にしか会えないことだって辛いのに、もうずっとセイに会えなくなるなんて、そんなの嘘だ。

『どっちが辛いかなんて、おれには分かんないよ。でも、だったら、おれはセイにできるだけ会いたい』

 忘れたくない。覚えてる。だからだから、思い出をいっぱい作ろう? ――…そんな言葉を重ねるおれに。

『なら、遠慮なく会いにおいで』

 セイはどこまでも優しく言う。ほんわりと胸と頬が熱くなる。セイから貰った熱が、躰の隅々まで飛び火する。温かい。熱い。少し、過ぎるほど。でも――…逃したく、ない。

『僕はいつもここにいる。人の世での、君の帰る場所になるよ』

 セイはそう言って、頬に当てたままだったおれの手に触れた。熱い。ぴくりと震える。手が、肩が。宥めるようにセイはまたとんと背を叩いて。

『セイ――…』

 声が消える。炎が揺らめく。約束が唇に、灯る。





 通りすがる店をウィンドウショッピングしながら歩き、丁度いい時間だからと適当な店に入って昼食を取ることになった。
 歩いている時と同じように紫原と黒子がコウキの隣りに陣取って世話を焼く。お母さんが二人っスね、と揶揄した黄瀬は、向かいに座っていた黒子に向こう脛を蹴られて今も悶えている。青峰と緑間は素知らぬふりでさっさとメニューを決め、迷っていたコウキもよく分からないからと紫原に勧められたセットを頼んだようだ。

「…では、少々お待ち下さいませ」

 店員が去るのを待って、コウキが大きく息を吐く。そう言えば自分達以外の人前に出るのは初めてだったと思い差し、疲れたかと赤司が声をかければ、大丈夫と健気な言葉と笑顔が返ってくる。それでも顔の強張りが直ぐに消えるはずもなく、紫原がそれを気遣ってかつんつんと頬を突つつく。コウキはされるがままで、時折擽ったげに笑みを零した。徐々に柔らかくなる表情に、見ている方の表情や肩からも力が抜ける。
 和んだ雰囲気を見計らったように食事がどんどん運ばれてきて、おかずの交換などを楽しみながらコウキもやっと様になってきた箸捌きでぱくぱくと食べていく。皿の上が空になるのに、然程時間は掛からなかった。

「あー、腹いっぱい」
「美味しかったですか、コウキ君」
「うん。お箸使うの、まだぎこちないけど」
「えー、上手かったっスよ?」
「一週間で習得したことを思えば、上出来なのだよ」
「うんうん、俺より綺麗だったんじゃない?」
「…それはそれで困るぞ、紫原」

 そんな会話の後、ところで、とコウキは小首を傾げた。

「今から、どこに行くの?」

 え、と固まったのは、全員がコウキも行き先を知っているものと思っていたからだ。自然、赤司に視線が集中する。五人とコウキの視線を受け、赤司は。

「コウキは家事を覚えるのに必死だったからな」

 と、どこか言葉を濁す言い方をした。恐らく赤司は伝えたのだろうが、コウキの方が覚えることが多すぎて頭がパンクしたということなのだろうと他の五人は察し、コウキは大変だったなぁと一人遠い目をする。そのまま過去を延々遡ってしまいそうなコウキをまた紫原が頬を突くことで阻止し、説明のために口を開いた。

「えっとねー、確か黄瀬ちんの隠れ家?、だっけ、黒ちん」
「それを言うなら、黄瀬君がお仕事する時に、仕事が長引いて家に帰れない場合を考え、用意してあるもう一つのお家、という感じでしょうか」
「んと…涼太には帰る場所が二つもある、ってこと?」
「あぁ、そう言った方が分かりやすいですね。そしてその片方をコウキ君が生活する家として貸してくれるんですよ」

 しばらくは赤司の家に居候する形でゆっくりコウキに現代の生活に慣れ親しんでほしかったのだが、急遽外国に行っていた赤司の親が帰ってくるという連絡が来たためにそれができなくなってしまった。
 だったらと、黄瀬が以前から考えていた計画を前倒しすることにした。それが今から行く、黄瀬の所属するモデル事務所が黄瀬のために用意した家にコウキが住むというものだった。

「そうなんス!」

 黒子の言葉に相槌を打ち、黄瀬はコウキに笑いかける。

「マンションなんだけど、セキュリティは万全だし、コウキっちが知らない人と喋ることは絶対ないっス。寝るためだけの部屋だからちょっと味気ないかもしれないっスけど、変な俺宛の郵便とか小包は直接部屋には届かないし、インターホンも鳴ることは先ずないっス。近所付き合いも考えなくて大丈夫だし、電話も置いてないから尚安心! 俺も何回か使ったっスけど、中々の物件でした」

 嬉々として喋る黄瀬のセリフを聞いていた赤司がふと眉を顰める。聞いていると些か度を越した安全対策を施してあるような気がするのだが、まぁ黄瀬は人気モデルだし、微に入り細を穿つ対策をしていても不思議じゃないか、と赤司は思うことにした。それよりも。

「電話がないのか…」

 それは初耳で、赤司は胸の前で腕を組み、思案するように目を眇める。黒子も困りましたねと肩を竦めた。

「確かに電話がないとコウキ君が困ったことになった時、そのマンションだとお隣さんもいない状態で、誰も助けに呼べません」

 黄瀬も今更そのことに気づいて「あ」と身を硬くした。

「…俺、ケータイあるから、今まで電話なくても気にしたことなかったっス…」

 さっきまでとは違いしょぼんと肩を落としてしまった黄瀬に、隣に座る青峰がおざなりに宥める。緑間は眼鏡のブリッジを上げて呆れたように黄瀬を見て、次いで赤司に答えを伺うように視線を遣る。赤司はそれに対し。

「だったら携帯を買い与えるしかないだろうな」

 と、なんでもないことのように言った。

「あれ。でも携帯って僕達だと未成年だから勝手に買えないんじゃ…」
「なんとかするさ」

 言ってのけた赤司に、もう黒子は何も言わず曖昧に微笑むだけだ。他の四人もそういったことは慣れたものだと悟ったような顔をしていて、コウキだけがよく理解できずに首を傾げている。

「んじゃまー、ケータイは赤ちんに任せるとして、兎に角俺達はコウちんが住む部屋に行こっか」

 紫原のその一言で、七人は店を出た。





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