(終)




 ぺたぺたと、素足でアスファルトを歩く。土とは違う感覚に、やっぱり変わったんだなぁと時代の流れをぼんやりと感じながら、コウキは前へ前へと進んでいった。アスファルトの熱いような冷たいようなとどっちつかずの不思議な感覚を楽しみながら、コウキは歩く。時折感じる痛みと滑りは気にしないことにした。

(それにしても、あの姿に慣れちゃうと、この姿はあまり早く歩くのに適してないなぁ)

 今のコウキは赤司達と最初に出会った甚平を着た幼子の姿に戻っていた。何故かというとこれはコウキが唯一服込みで変化できる姿で、だから人の服を必要としない。その一点でコウキは速度の不便さを黙殺してその姿でいることを押し通していた。赤司の出してくれた服を着たまま山に帰るのは、あまりにも忍びなかった。

(…ごめんね…ごめんね…)

 繰り返しコウキは心の中で呟く。ともすれば泣き顔になってしまいそうな表情を固めて、夜道を黙々と歩いていた。
 ほんとはとても嬉しかった。黄瀬が言ってくれたことも、黒子や青峰、緑間や紫原がここにいてもいいよと頷いてくれたこと。赤司が、大事なものだと言ってくれたこと。
 全部が全部、コウキの欲しい言葉で、言われた瞬間、心の中がふわっとして、セイと一緒にいる時みたいな感じがした。幸せというのは、きっとあのふわりとした感覚を言うのだろう。ほかほかして、あったかくて、セイに触れてもらった時のような。嬉しかった。幸せだった。思わず―――頷いてしまいそうになるほどに。

(でも、駄目だ)

 みんなはまだ若い。まだまだ、これからなんだ。きっといつかおれに構っていられなくなって、なんであの時呼び止めたんだろうって、嫌になる。きっとあんなことを言ってくれたのは一時の気の迷いで、それは嬉しかったけど、それでそのいつかを台なしにしてはいけない。

(やっぱり、おれは違う生き物なんだ)

 だから帰ろうと思った。眠ったふりをして、寝静まった頃、赤司の家をそっと抜けだした。夜を一人で歩くのは慣れているし、夜目も利くから進む足に迷いはなかった。
 心配なのは誰かに会うことだったけれど、幸い道には誰もいない。それもそうか、既に夜も深く過ぎた丁夜に差し掛かっていて、誰かいるはずもない。静かで、静か。
 ただ街灯の明るさが些か煩わしかった。それがコウキがやっと立ち止まって見遣る更地を一層際立たせるから、余計に。

(…もう、ないんだなぁ)

 帰り際、最後にひと目と足が向いた。朝に一度見たのに、なんだか夜に見ると一際虚無感が強くなる。がらんとした空間。埋めようもない隙間。コウキの心の穴とぴったり合うようなそれを、コウキはゆったりと瞬きを繰り返して見た。
 何故壊されたのかは分からない。古くなっていたからか、時代に合わないからか。何にせよ、ないことが哀しい。

(家まで、なくすことないのにね)

 なんて、自分勝手にもほどがあると、コウキは自分で思って小さく笑う。母を亡くし、セイを失くした。自分にはもう帰る場所などありはしない。漠然と山に帰ると言ったけれど、そこに思い入れなどなかった。母がいるから山が好きだった。セイがいるから街が好きだった。ただそれだけだ。ただ、それだけの。

(母が好きだった。セイが好きだった。自分にあるのは、ただ、それだけだったのに)

 火に母を奪われて、時にセイを失った。だからもう、誰も求めなければ自分は何もなくさない。そう思ったから離れようとしたのに、思いがけず引き止められた。そして、それが嬉しいと思ってしまった。

(…馬鹿だなぁ)

 いられるわけがないのに。ずっと、なんて夢物語、信じる方が辛いのに。

(でも信じたいと思える人と出会えたのは、嬉しいね…幸せだね…)

 そうでしょう? セイ…。

 空き地を見つめ、心に零したその声に微笑む。後少し、夜の帳に耳を澄ませていれば、目の淵に溜まった涙は零れ落ちるだけだったのに。

「どうした、コウキ」

 闇夜に響いた凛とした声。数日であまりにも耳に馴染んだその声を、聞き間違えるはずもなく。

「…征十郎」

 ぎこちなく振り返る。二歩三歩後ろにいる赤司に呼びかける。声は掠れて聞き取りづらい。それでもこれだけの静寂で聞こえないことはなく、あぁ、それはあの雪の日の静けさに似て、しかも街灯が赤司の髪どころか色違いの瞳まで具に見せ、彼の人の似姿にコウキは思わず目を細めた。…煩わしい。季節と時間を逆転させればあの日を再現できると、思ってしまう自分の心が、何よりも。

「今の時代、未成年、つまり子どもが夜に出歩くことはあまり歓迎されないんだ」
「…そう、なの。変わったね」
「色々とな」

 色々と―――本当にその通りだ。赤司の咎める響きのない声に、ただ注意するだけの言葉に、怒られるか連れ戻されるかと身構えていたコウキは緊張が緩んだせいか、なんだか唐突に心身共に気怠さを覚えた。一つ息を吐いてまた視線を空き地に遣る。赤司の言う変化には、ここも間違いなく含まれるだろう。

(呆れるほど驚くほど、世界は小忠実こまめに動いている)

 一々その変化に目をやってはいられない。しかもこれからはそれがより顕著になる。自分はいつか時代に置き去りにされる。時代だけならばまだいい。だかいずれ彼等にも…――。

(…いや、止めよう)

 コウキは緩く目を閉じる。視界を閉ざして、思考を切った。どうせ自分には関係ない。細々としたものは人に任せてしまえばいい。自分はただ、山に篭って過ごせばいい。

(それは多分、楽な、生き方だ)

 寂しいだろうし、切ないだろう。黄瀬の言葉は真実だった。たかだか数十年、もしくはそれ以上を一人で生きた身としては、あの言葉は切ないほど心に響いた。

(一人は、寂しい…)

 分かっていながらまたその寂しさに身をやつそうとしている自分は愚かなのだろう。少しの間でも安らぎをくれるという彼等の手から逃れる自分は、とんでもなく大馬鹿者なのだろう。それは自分が一番分かっていた。それでも、と思う。

(自分は、みんなの所にいちゃいけない)

 その思いがコウキの足を山へと向かわせた。やはり帰るべきなのだと、思わせた。

「…だったら、征十郎は帰った方がいいよ」

 自分はまだここにいたいと、追い返すようにそう言えば、呆れたような声が返ってきた。

「お前もだぞ。実年齢がどうであろうと、今のお前の外見はどう見たって幼稚園児だ」

 ヨウチエンジ。その単語はよく分からないが、お前も、と言うからにはこれもまた子どもを指す言葉なのだろう。赤司達もチュウガクセイという身分なのだと教えてくれた黒子の言葉を思えば、それも身分を表す語彙なのかもしれない。
 それにしたって変なの、とコウキは思う。あれだけ孤独を生きた自分も、まだ子どもと言うわけか。

(でももう、関係ないよね)

 身分なんて、他人がいるから気になるもの。今からは気にしなくていいんだから。そう思うことで自分を追い詰めている自覚はあった。赤司の登場で引いた涙が、ちくちく痛む心にまた出てこようとする。
 それでも耐えた。嬉しいとか幸せだとか、思ってしまえばそれに引き摺られてしまうから、敢えて心を痛めつけた。赤司が去ったら、泣けばいい。その思いで、耐えた。

「…まだ帰りたくない」

 来て然程時間は経ってない。せめて後少し、長くても誰か通りがかるくらいまではここにいたい。きっと最後だから。もう、来ないから…。

「そうか」

 穏やかに頷く気配がして、だから帰るのかと思えば、赤司はコウキの隣りに立った。見上げるコウキを見ず、何もない空き地を見下ろす。風が吹いて、赤司の髪を乱す。コウキの髪もさわりと揺れて、雑草の葉擦れが唱和する。それが終わった頃に、コウキは赤司に話しかけた。

「帰らないの?」
「あぁ、まだな」
「…ここ、何もないよ」
「そんなことない」
「? …何かあるの?」
「お前がいる」
「…?」

 自分がいれば、どうだと言うのだろう。まさか山に帰るのを見越して追いかけてきて、見送ってくれると言うのだろうか。それはそれで辛いものがあるとコウキは顔を強ばらせた。ひっそりと去りたい。できるなら、一人で。
 そんなコウキの思いなど赤司は知る由もないのだろう。それを言えば、コウキだって赤司の思いなど知る由もなかった。

「どうせ一緒の所に帰るんだ。別々に帰る理由はないだろう」

 聞いて最初に、どうしよう、とコウキは思った。それが当然だと言う風な顔をする赤司に、どう説明しようかと迷った。きっとこう言うからには赤司はコウキを一人にはしてくれない。ならばいっそ言ってしまった方がいいのだろうか。自分は山に帰るつもりなのだと。だからだから、ごめんなさいと。
 悩むコウキは赤司を見ていられなくて、逃げるように空き地に視線を移そうとして、その瞬間を初めから狙っていたかのよう。

「そうじゃないと、お前は一人で山に帰るだろうからな」

 その言葉に、もうコウキは赤司から目を逸らせない。目は赤司に釘付けになって、耳も赤司の声を拾おうと躍起になる。ドクドクと頭や躰に響く心音が邪魔だと思いながら。

「……なん、で…」

 辛うじて、そう言えば。

「言ったろ。お前は〈より大事なもの〉だと」

 赤司はコウキを見て、それが全てだと言う。そう言われたって、ほんと言うとコウキはよく分からなかった。その言葉がどこまで含んでいるのかが分からなくて、赤司は敢えてぼかしている気がしていた。だから分からないまま、そうじゃないんだよと、コウキは慄きながらゆるりと首を振った。それじゃあ、駄目なのだと。

「そう、言ってもらえるのは嬉しいよ? すっごくすっごく、嬉しいんだよ? でも、ね、おれをそれにしちゃ、いけないの。おれは違うから。おれは、」
「関係ないからと、また言うつもりか」

 同じ問答を繰り返す気はないと、赤司は呆れた顔を隠しもしない。それでもコウキはそう言うしか術がなかった。赤司が倒れていたのなら何度だって助けてあげる。でも自分は見捨ててもらって構わない。半ば本気で思いながら、コウキは言った。

「おれは、大丈夫だよ」

 笑う。笑う。笑う。ほんとは泣きそうなくせに、精一杯笑ってみせてそれで誤魔化した気でいる。本当に大丈夫な奴はそんな「大丈夫だ」なんて言葉をわざわざ言うことはないのだと、教えてやらねば気づかないのだろうか。

「…馬鹿だな」

 としみじみ言ってやれば、コウキはぐむと言葉を詰まらせた。言い返せないのは、ある程度自覚があるからだろう。
 そんなコウキの様子に赤司は膝を折ってできる限り目線を合わせた。どうしたって自分の方が高かったけれど、しゃがんだ分、コウキとの距離は近くなる。まじまじと見れば、街灯が傍にあるお陰で夜目にも大きな瞳が困惑を表して揺れているのが見えた。
 見詰められることに耐え切れず、とうとうコウキの目がそろりと外方そっぽを向く。そこにある程度羞恥が混じっているのは気まずげに震える視線と睫毛で知れて、そのことに気づき、そしてその理由にも思い至った赤司は仄かに笑んだ。

「セイに似てるか?」

 ぴくり、と跳ねた肩。なんで考えていたことが分かったのと、再度向けられた素直な瞳と表情に、隠すことを知らない子どもの片鱗を見て赤司は尚笑う。嫌悪は浮かばなかった。胸の痛みも覚えなかった。

「ずっと言われてきたからな。俺はセイに…祖父に酷く似ていると」

 そう言ってしまうことに、驚くほど躊躇いなんて覚えなかった。その言葉を理解して、徐々に大きく見開かれていくコウキの目を真っ直ぐ見詰めながら、赤司はコウキが心に自分の言葉を沈着させるのを待った。ゆっくりでいいと、願うように思う。
 そんな穏やかな赤と黄の瞳を呆然と見詰め返すコウキは、息をするのも忘れて思い出の中のセイと今目の前にいる赤司を重ねていた。重ねるまでもなく似ていることなんて、これまでで重々承知だと言うのに、それでもせずにはいられなかった。

(…祖父。父親の、父親。セイが――…征十郎、の…?)

 そ…っとコウキの右手が持ち上がる。力なく項垂れていた腕が赤司の顔に伸ばされて、頬を撫でた。震える指で輪郭を辿り、そしてそれは赤司の目元で止まる。親指が、涙袋の部分に沿って動いた。
 侵食する沈黙の中、瞬きで指に触れた睫毛の擽ったさに促されるようにして、コウキが小さく、揺れる声を零した。

「…征十郎は、セイを、知ってたの?」
「あぁ。会ったのは数度だけだがな」
「もしかして、おれのことも、知ってた…?」
「話には聞いていた。冬になると、自分を訪ねてくる子狐がいたんだと」
「じゃ、あ…征十郎は、最初から…」
「…見つけた瞬間、お前がその子狐だとピンときた」

 淡々と呟かれる言葉に、胸がきゅうっと切なくなる。途切れてしまったと思っていたセイとの繋がりが、こんなところでまた結ばれるなんて。こんな、もう思い出の形を成さない場所で。

「…ひどい」
「そうだな」

 穏やかに頷いて、赤司はその批難を受け止めた。力が抜けてするりと自分の頬から滑り落ちそうだったコウキの右手も、受け止めた。
 擦り合わせて温めたはずなのに時間が経ってまたすっかり冷えてしまっている赤司の手と、子ども特有の高い体温を持つコウキの手が重なりあう。逃げを打つコウキを赤司はぎゅっと握ることで許さない。闇の中で一瞬顔を歪ませたコウキを知りながら、赤司は知らないふりをした。

「でも黙っていなかったら、お前はその名前のためにここにいることを選んだだろう?」

 セイはもういないのに。セイに縛られて、ここに残ることを選んでしまいそうで。そうなったらコウキはきっと不幸になる。一々セイの影を捉えようと躍起になって、いつかそれに疲れてしまうだろう。そうなれば、周りにいる赤司達だって例外じゃない。みんなが幸せでいられない。

「まぁ、理由はそれだけではないけど」

 と言葉を濁した赤司に、けれどコウキは敢えて別の理由を聞こうとは思わなかった。知らされた事実に心と頭が飽和して、何がなんだか分からなかった。ふにゃりと表情が崩れる。ぐらりと決心が鈍りそうになる。駄目だ。駄目だ。俯いて思う。じゃあなんで。

「なんで、今更、そんなこと…」

 責める響きを伴ったひび割れた声が地面に哀しく落とされる。そう思うのなら何故、最後まで黙っていてくれないのか。ここまで沈黙を守ったのなら、後少し耐えて欲しかった。どうしたって自分は、――…セイの名前に惹かれないわけにはいかないのに。

「…祖父は、最後の時までお前を待っていた」

 急に転換した話に、けれどそれがセイに纏わることだとコウキは俯けていた顔を上げる。静かな色違いの双眸が一直線に自分を見ていることにコウキは一瞬怯んだけれど、頑張って堪えた。

「セイ、が?」

 あぁ、と短く頷いて、赤司は記憶を浚うように半ばまで目を伏せた。

「俺が、看取ったんだ」

 直前までお前の話をしていた。毎年冬になると縁側で待っていたことや、お前に強請られて作った手袋は破れてやしないかと心配していたこと。土産がいつも山にしか生息しない草花であったことも。

「どんな小さなことも祖父は鮮明に覚えていた。語る祖父は楽しそうで、時折俺には通じない話題もあったけど、話の腰を折ることはできなかった。…そうして語り終えた時、祖父は静かに息を引き取った」

 冬が終わって、春になる頃。柔らかな空気に攫われたような、そんな終焉さいごだったと語った赤司を見て、今度はコウキが目を閉じた。その光景を思い描くように。さながら、黙祷するように。

(そう…セイが…)

 待っててくれた。ずっと。約束の冬を越えても、幾つ季節を重ねても、ずっとずっと、最期まで…。嬉しい。――…嬉しい。だからこそ、約束を守れなかった自分が腹立たしくて、哀しくて、じわりと滲みかけた視界。堰き止めたのは、赤司の言葉だった。

「俺は、その祖父にお前を頼むと託されたんだ」

 いつかやってくるかもしれないお前を頼むと。そう聞いて、―――ぱちり。コウキが一つ、瞬きをした。それは酷くゆっくりとして、何故か赤司の目についた。そしてそのまま赤司を真っ直ぐに見上げると。

「……だから﹅﹅﹅、征十郎はここに来たの?」

 コウキの瞳の中を、ちらりと影がよぎる。それは見逃しそうなほど微かで、でも、純粋を形にしたようなコウキにしてみればあまりにもくらい。絶望に似て、落胆に近いもの。赤司は敏く見て取って。

「…お前とはもっと言葉を交わすべきだったな」

 そう言うと、唐突にコウキの髪を撫でた。くしゃり、と前にしてもらったのより遠慮のない、乱暴な手付きで。でもそこにあるのは面倒なことをという苛立ちの感情でなく、多分、――コウキが漠然と感じたのは――照れ隠しのようなもので。

「はっきり言って最初はただ頼まれたから、託されたから、お前を世話したし、宿も提供した。祖父の今際の際の言葉は、守るべきだろうと。お前の辿ってきた境遇に同情もした。黄瀬達があぁ言った心情も理解できた。だがそれでも、俺はここがお前のいるべき場所ではないと思った。…それにお前は、どうせセイのいない世界など望んでやしないだろうと」
「…っ」
「違ったか?」
「…違わ、ない…、っ、でも…!」
「あぁ、分かってる」

 コウキが言いかけた言葉を、赤司は穏やかに遮る。

「今はそうじゃないって、分かってるよ」

 そうしてまた、ぎゅ、と手が握られて、ただそれだけでコウキは波立った心が落ち着くのを感じた。コウキの表情から激情が凪いでいく。その様をじっと見て、穏やかさを取り戻すのを待ってから赤司はそっと言葉を吐き出した。

「俺達は要らぬ意地を張り合っていただけだ。後少し言葉を足していたら届いたことを、言う前に諦めていただけだ。多分聞きたい言葉も言いたい言葉も、同じなのに」

 臆病になっていた。コウキは自分の存在の異端さに、赤司はそれまでの過去から、どうせ言葉にしたところで願いが叶うことはないのだと。

「…同、じ?」
「あぁ、きっとな」

 だからコウキ、と赤司は目の前の子どもに呼びかけた。じっと目を見詰めて、けれど同時に、促すように微笑んで。

「俺に、お前の願いを聞かせてくれないか」

 コウキは露骨に顔を強ばらせて躊躇った。怖い。顔にその心が如実に表れる。同じかもしれない。違うかもしれない。どっちだろう。答えが怖い――…恐ろしい。その思いに、胸のうちにある言葉は怯えるように震えて喉元で蹲る。…けれど。

「コウキ」

 呼ぶ、声。ずっと昔に馴染んだのとは違い、ほんの少し若く鋭い声。容貌も同じでいて、でもどこかしらの違いは否めない。彼の孫。似てる。被る。けれど、―――全く同じでは、なくて。

(…なのに、ねぇ)

 惹かれたんだ、その赤に。その色違いの紅葉のような双眸に。冬を感じさせる彼に、春とは違う彼に、笑いかけてもらって嬉しかった。触れてもらって温かかった。その優しさを向けられる存在で、いたかった。

(だから…)

 コウキは浅く息を吐いた。それは夜に溶け消えて、後は目の前に赤司がいる。征十郎が、いる。そう思えば、石が坂を転がり落ちるように、言葉はころりと零れ出た。

「おれは、ね…征十郎、…おれ、――…ここにいても、いい…?」

 ここにいたいよ…傍に、いたいよ…。

 言った途端、コウキのヘーゼルが柔らかく潤む。言い切った安心と、何を言われるのだろうという不安が瞳の中で鬩ぎ合う。見て、赤司は笑った。そう言われて返す言葉など、たった一つしかない。

「いいよ」

 静かに、返す。夜に還すように、空気に孵すように。コウキの息を呑む音が静けさに響く。それにさえ、赤司は笑みを深くして。

だから﹅﹅﹅来たんだ。お前を迎えに、ここまで」

 祖父に言われたからじゃない。義務感からじゃない。同情じゃない。黄瀬達に便乗しているわけじゃない。

(…コウキが、自分を自分として見てくれた、初めての存在だった)

 祖父を知る誰もが勝手に自分の顔に祖父を見て、そのくせ、祖父とは違う物言いや雰囲気にあの人ではないと、言葉や表情に落胆を混ぜる。
 違うのは当たり前だ。何度言いたかったことだろう。何故自分を自分として見てくれないのか。何かを探すように目を眇めて見られるのはもううんざりだ。違うことを認めて、そうして自分を見てくれたなら赤司はそれでよかったのに。
 向けられる視線はいつだって赤司を通り過ぎていた。「征十郎」という名前に意味を与えてくれる人はいつまで経っても現れなくて、半ば赤司は諦めかけていた。それが。

『お、おれっ、コウキって言うの! ―――名前、なんて、言うの…っ?』

 この小さな存在に与えられるなんて。あの時から、本心では帰す気なんかなかったのだろう。ただそんな自分の心を見ないように頑張って、見てしまっても偽っていただけのこと。そんなはずはないのだと、自分自身を欺いて。

「コウキ」

 でも今はもう、そんな必要もない。

「約束のいらない距離で、どんな季節が来ても」

 ただ、これを伝えるだけでいい。

「俺の傍に、いてほしい」

 凛とした声が、静かな声が、柔らかな声が、夜空の下、耳朶に響いて、擽ったい。躰の真ん中がむずむずする。首筋が粟立って、喉が戦慄く。…嬉しい。嬉しい。嬉しくて、―――心が、震えた。

「……征十郎は、ずるい…っ」

 その嬉しさを素直に表すのはなんだか恥ずかしくて、だからコウキは睫毛を伏せて詰るようにそう言った。ずるい。冬みたいに冷たいくせに、春みたいにあったかくて…セイみたいで、嫌になる。

(ずるい、ずるい…でも)

 その言葉が、おれはずっとほしかったんだよ…。

 あの時黄瀬は言ってくれた。黒子達も頷いてくれた。でも結局赤司だけは言ってくれなかった。そうだ。赤司の言う通り、自分達には言葉が足りなかった。圧倒的に不足していた。最初から素直になっていれば、たったこれだけの言葉を交わすだけで事は済んだのに。
 随分遠回りをしたものだ。コウキも赤司も、同じことを思った。でもちゃんと、ここに辿り着いたのだ、とも思った。

「おれ…っ、征十郎の傍にいるよ。もう帰れ、なんて言っても、帰ってやらないんだから…っ」

 胸に迫り上がる大きな感情を抑えこむのに必死で、コウキは顔を上げることさえできなかった。震える声でそう言うだけで精一杯。そんな努力も。

「それでいい。その答えこそ、俺達が、――…俺が、望んだものだ」

 そんな言葉で、無意味になってしまったけれど。





 ぽろぽろと、ずっと我慢していた涙が流れる。後から後から溢れてきて、止まらない。

(なんで、かな…)

 泣き虫だねと、優しく微笑んだ人の顔と声を覚えている。温かい指が頬に触れて涙を攫ってくれた感触だって、昨日のことのように思い出せた。

(それに縋るように、生きてきたのに)

 でも今はもう聞こえない。温かい指なんて、どこにもない。あの別れの日とは季節も時間も逆転した世界の中。

(聞こえるのはただ、触れるのは、ただ)

 自分の傍に、いてくれるのは。

「泣き虫だな、コウキ」

 ――…冬のふりした、春の人の。





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 20120701-20120817





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