(六)




 結局新しく出したタオルで摩擦するようにコウキの躰を拭き、ドライヤーで髪を完璧に乾かすことで風呂の一件は決着した。申し訳なさそうにするコウキを他所に赤司はテキパキと服を着せると、上から下まで視線を走らせて一つよしと言うように頷いた。

「これで、どこからどう見ても人間にしか見えないだろう」

 赤司がコウキに着せたのは、青峰だか黄瀬だかが泊まりに来た時に「また来るかもしれないから」と置いていった服の内の一着だ。自分が着る服よりこういったカジュアルなものの方がコウキに似合うだろうと思ったのだが、その予感は的中し、少しばかり袖や裾が余っているものの、それがある意味でプラスになっている。勝手に着せて!、と持ち主に怒られるかもしれないが、まぁいいだろう。置いていった奴が悪い。
 赤司は投槍にそう軽く考えて、最後にコウキの前髪をさらりと搔き上げた。そこで赤らんだ目元と半ば伏せられた双眸に目を止め、まだ浮かない表情をしているのかとコウキの両頬を抓る。驚いたようにパッと顔を上げてコウキは咄嗟に「いひゃい!」と不明瞭に叫んだ。またヘーゼルの瞳が滲んだが、そこにはちゃんと力強さと光がある。安堵を覚えて赤司は手を離すと、コウキに言い聞かせるように語りかけた。

「いつまでも暗い顔をするな。過ぎたことだし、別の解決策もあった。それでいいだろう」

 もしかしたら自分が思うこととは違うことで思い悩んでいるのかもしれない。そう思ったが、言ってくれない限り自分がそれについて言及できるはずもなく、だから赤司は自分が知る範囲内でコウキの悩みを解決してやるしかないと、そう言葉をかけた。
 しかし何故そこまでするのだろう。赤司は自分でも不思議に思う。出会った当初は持て余し気味だった彼を、今は何故、こんなにも気にかけるのだろうか。分からない、と言うのが正直なところだった。涙に絆ほだされたのか、一々垣間見える稚さに心動かされたのか、どうにも分からない。
 だから最終的に、自分は祖父の言葉に従ってこの子狐を構っているだけなのだ、と赤司は思うことにした。それは思考の停止を許さない赤司にしてみれば酷く短絡的で自虐に富んでいたが、それを疑問を挟まず受け入れてしまうほど、赤司は祖父の存在に対して盲目的に臆病だった。

「…うん、そうだね」

 いずれにせよ、そう言ってコウキが笑ったことで、赤司の小さな疑念は脳裏の奥の奥まで潜り込んでしまった。コウキは当然気づかないし、赤司自身、気にしないままコウキの返答に微笑んで返す。
 と、赤司の携帯がメールの着信を知らせて鳴った。机に放りっぱなしにしていたなと手に取れば、黒子の名前が表示されていて、携帯を開けば黒子だけでなく他の四人からもメールが届いていた。どうやら風呂場でゴタゴタしている時に丁度集中して送られてきたようだった。新着順に開けていくと。
その後、コウキ君の様子はいかがですか?
やべぇ、黄瀬と紫原がお前からメール来ねぇってうるせぇ
ご飯食べてる? まいう棒あげてる?
狐の熱は下がったのか?
コウキっち、ちゃんと眠れたっスかー?(´・ω・`)
 ふ、と笑って画面をコウキに見せる。見せてから文字が読めるだろうかと懸念したが、コウキは所々詰まりながらも、大抵は自力で読むことができた。辿々しく読むコウキに、もしかしたら祖父に教えてもらったのかもしれない、と考えているところに。

「おれ、元気だよ」

 大真面目に携帯にそう言葉をかけている様を見て、赤司は思わず吹き出しそうになった。まったく携帯をどんな道具だと思ったのかと、くつくつ笑いながら直接言っても駄目だとキーの打ち方を教えてやった。

「これは、何? 他のと少し違うけど…」
「あぁ、顔文字と言って、記号、線と点を組み合わせて顔のように見せてるんだ。ここが輪郭でこれが下がった眉、両目、口で、どことなく気落ちしている顔に見えないか?」
「んー…よく分かんないや…」

 と喋りながら、コウキはやっと一文を完成させた。それはとても短く、全員への回答を横着にもひとまとめにしたようなものだが、四苦八苦して打ち込んだコウキは『頑張った!』と言いたげに胸を反らし、その様子に赤司はまた笑いがこみ上げてくる。抑えこんで、それを一斉送信でみんなに送ってやった。
げんき! こうき
 送ってから、コウキは何故かきょろきょろしだした。どうした、と問うと、あの文字はどこへ行ったのだと首を傾げる。あぁ、携帯の説明をする時に「打ち込んだ文字が相手の方に飛んでいってくれる」と、電波云々の話を交えず言った説明をそのまま信じ込んだらしい。仕方ないこととは言え、やはりこのジェネレーションギャップには驚くと言うより笑えると、赤司は肩を震わせた。
 最初の小さな姿や今の姿からは想像もできないが、確かにこの狐は五〇年前を生きていた存在なのだと了解せずにはいられない。言ってしまえば、孫が祖父に携帯の使い方を教えるようなものだ。

「しばらく待ってると青峰達から返事がくる。それよりも遅くなったが朝食にしよう。居間に行くぞ」
「うん…」

 頷きながらも未だはてなマークを飛ばして辺りを見渡すコウキに、朝食を洋風にしてやろうかと赤司は意地悪く思った。





 思った通り、純和風をそのままにしたような祖父の家で洋食は出なかったようで、コウキはトーストやハム、サラダに面白いくらい一々反応し、終始赤司は機嫌よく過ごした。
 朝食の後は放置していた携帯を二人して覗きこみ、コウキが青峰達とメールの遣り取りをするのを手助けしたり、メールが来るまでの時間がもどかしいと直接電話をかけてきた黄瀬と喋らせたりした。最初は機械を通して聞こえる声に黄瀬と気づかず「知らない人間の声がする」と怯えたコウキも、段々と遠くの誰かと喋ることが楽しくなったらしい。
 だが黄瀬が仕事に行かねばならないと名残惜しげに通話を切った後、ソファに深々と身を沈ませて、

「…昔に、こんなのがあったらよかったのに」

 そう笑いながらも切なげに呟いたのには、赤司も閉口してしまったけれど。その後二人は外に出た。

「おれ、行きたいところがあるんだ」

 コウキがそう言い出したからだ。それはなんでもない風に、直ぐそこのコンビニに行ってくると言うように。けれど近隣の地理を知らないはずのコウキがそう言ったことに違和を感じ、赤司はそれに同行することにした。
 コウキは「いいよ」と承諾し、家を出てから迷いも見せず淡々と歩を進めていく。どこに向かっているのかと問うてもやけに穏やかな笑顔が返されるだけで、また地図もなく何を頼りに歩いているのかと尋ねると、それには。

「野生の勘」

 と、今度は至極納得のいく答えを返される。
 まったく、先ほどまで子どもの顔で一喜一憂していたくせに、今はその顔は鳴りを潜めて酷く静かだ。移ろいゆく風が凪いでしまったかのようで、狐の老成した部分を切り出したような。
 横顔をそろりと窺い見ても赤司が得るものは何もなく、薄氷で作られた能面のようなそれに、溜息を殺すしかない。内心、まさか、という思いがあった。

(今から山に帰るつもりだろうか)

 一歩進むごとにその考えは真実味を帯びてくる。それはコウキの足が向く方向に山があったからで、そこが赤司の知る道であったからだ。嘗て赤司が数度だけ辿った道。それは、祖父の家へと続いていた道だった。近づいて、後一度角を曲がるだけだという時に。

「―――…」

 赤司は呼び止めようかと、迷った。迷って、惑って、止めた。
 元々、深く関わりあう気はなかった。最低限の世話だけして山へ還す、自分はそう決めたはずだ。祖父に頼まれて、だから一夜家に泊めて世話をしたし、看病もした。祖父への義理はもう果たしたと言ってもいい。
 そうじゃないか。だから言う必要はない。だから最後まで口を噤めばいい。だから―――だから。

「………」

 コウキが立ち止まって見る先にもう祖父の家さえないことを、一緒に哀しむ必要はどこにもない。赤司は呆然とするコウキの横に一歩遅れで立つ。…そんなこと、本気で思ったわけじゃなかったけれど。





 夢を見た。寝苦しい夜に魘されるようにして見たのは、半ば昔の記憶だった。赤がほど近い所にあって、心地いい距離を保っていた頃の。だから目覚めた瞬間コウキの目から涙が溢れたのは、哀しかったからじゃない、夢でまた会えたことへの純粋な歓喜だった。

「セイ…」

 躰を起こし、自分で自分を抱き締める。嘗て赤の彼が温もりを分け与えるためにしてくれたように、それを真似て抱き締めた。あの不思議なほどの安心感を求めて、全てを擲ってもいいとさえ思った微温湯の幸せに浸りたくて。
 でも結局感じたのは虚無感で、そのことに気づいた瞬間、腕をだらりと躰の脇に垂らした。呆然として、暫く。滑稽だと笑う。惨めだと笑った。泣き喚きたいほど、自分の行動が憐れで、哀しくて、可笑しくて、―――だけど。

「…征十郎」

 自分がいる脇でわざわざ布団を敷いて寝入る少年の顔に、引き攣った笑いが徐に柔らかくなっていく。閉じられた瞼の奥には赤の彼と同じ色がある。髪は彼そのままで、だから最初、見間違えたものだけれど。よくよく見れば赤の彼より随分と幼く、彼が春だったのに対し少年は冬そのものだった。
 そのことに気づいて、これほど似ているのにと絶望したのは確かだった。いっそ少年が彼であってくれさえすればよかったのにと、恨むようにも思った。…今ではもう、そんな気持ちは微塵もない。少年はただ少年であるのだと、痛いほど知ったからだ。他の誰でもありえない。セイが、セイでしかなかったように。

「ありがとう…」

 謝辞が自然と唇から零れ落ちた。柔らかさを伴い切なさをその裏に隠して、自分と出会ってくれてありがとうとコウキは言う。そうして視線を動かし笑みを殺すと、眼前にすっと目を凝らす。暗闇の中にまた闇を探すように凝視して、ふと、瞼を閉じた。

(…だからこそ、行かなくちゃ)

 避けていた、〈今〉を見るために。





 更地を前に、二人して立ち竦む。コウキは一瞬顔を強ばらせて、でもそれを吐息一つで掻き消した。後に残ったのは穏やかな微笑。赤司はそれを見て訝しげにコウキを窺い、次の言葉を聞いて息を呑んだ。

「…ほんとはね、なんとなく、分かってたんだ」

 コウキは笑っていて、微笑は確かにその口元にあって、赤司の蜂蜜色に似たヘーゼルの双眸も柔らかく細められていた。そんな顔で、言う。分かっては、いたのだと。

「いつもならセイはどこにいるんだろうって考えなくても、あぁこっちにいるんだなぁって感じてた。家にいても分かったし、出かけてても分かったんだ。…でも今回はそれがなくてさ…全然、感じられなかった」

 一呼吸―――たったそれだけで、コウキは全てを呑み込んで。

「もう…セイはいないんだね」

 寂しく、そう、零した。

「…コウキ」

 言う言葉なんかなくて、自分が何を言ったってそれは全て上滑りの言葉でしかなく、だから口を閉ざすことが賢明だと知りながら、それでも赤司は何か言わずにはいられなかった。
 だがそれも名を呟くだけで終わった。情けなくもあり、腹立たしくもあって、赤司は唇をぎりと噛み締める。
 コウキはそれに気づきもしなかった。ただ前をしかと見て、広がる土色の土地に懐かしむ目を向けた。あぁ、そこに自分はいないのだと、赤司はぼんやりと気づいてしまった。
 見詰める先で、コウキがまた口を開く。震えを押し殺した声で、言った。

「おれ、ね、セイに、会いたかったんだぁ…」

 また会って喋りたかった。色んなことがあったんだよって、聞かせたかった。もう一度あの柔らかな色違いの瞳に自分を映してほしくて、あの優しい温かい指で撫でてもらいたかった。帰ってきたよって言って、お帰りって、言ってもらいたかった。遅れてごめんなさいと謝りたかった。約束を破ってごめんなさいって伝えたかった。全部全部、―――会って、叶えたかった。

「…帰ってくるのが、遅すぎたんだね…」

 様変わりした街に、自分が知るのとは全く異なる様子に、漠然と自分が置き去りにされたような気がしていた。やっと生まれ育った山まで帰ってきて、そこから見下ろした街のそんな様子に目を見開いて愕然とし、その拍子に足を踏み外したのだ。そして、セイにそっくりの赤司に出会った。
 自分はつくづくこの顔に縁があるらしいと今なら笑えるのに、出会った当初は混乱していて怯えることしかできなかった。心細くて、わけが分からなくて、とにかくセイに会いたくて仕方なかった。セイに会えば全てが解決するような気がしていた。でもどこかで、セイはもういないのだと、気がついてもいた。

「馬鹿だよね…それを認めるのが怖かっただけなのに、征十郎をセイだって言い張ったりして…」

 分かってたのに。全部、余すところなく、哀しいほど。それで、征十郎を詰るなんて。

「…馬鹿、だなぁ…」

 とうとう、コウキの瞳から涙がこぽりと生まれて、静かに堕ちた。それでも笑みは頑固に口端を彩っていて、赤司はそれが無性に腹立たしかった。
 泣くなら泣けと言いたかった。そんな綺麗な泣き方なんてただ寂しいだけだ。泣き喚いていい。哀しいと全力で表していい。…そんな顔をして、泣くな。
 そのどれもが言いたくて、でも言えないまま、赤司は唐突にコウキの手を握った。優しくはなく、荒っぽい動作だったけれど。

「っ…征十郎…?」

 驚いたコウキは赤司を見て、その頑なな横顔に何を思ったか、ふにゃりと相好を崩した。そうしてきゅっと微かな力で握り返したコウキは、幼い、泣き笑いの顔で。

「えへへ…せいじゅうろは、あったかいねぇ…」

 ―――お前の手は、温かいね。

 それは嘗て祖父に言われたのと同じ言葉だった。だが、何故だろう。祖父に繋がる言葉も記憶も、今までは嫌悪と共に受け止めてきたのに。
 赤司は遠く遠く、青の連続である空を見ながら思う。嫌だとは感じなかった。全く、―――微かさえ。





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