(五)




 穏やかな風に、春を知る。枝から滴り落ちた雪解けが顔にあたり、コウキはふるりと身を震わせた。急かす母親の声に返事をしながらも足は遅々として進まない。…進みたく、なかった。

(離れてしまう…)

 振り返り、既に一つ一つの家が点になるほどまで離れた所から山の麓の街並みを目を細めて見る。どれがセイの家だろうか。近くで見たら分かるのに、こうも離れてしまっては分からない。道は覚えているから問題はないのだけれど。

(でも、ここからまた、もっと、離れなくちゃいけないなんて)

 母は言った。近頃人間は便利な道具をいっぱい作って、前ほど山に入りにくい状態ではない。雪山でも軽々と入ってくるし、自分達を殺す手段や施す罠も、段々簡単に、且つ巧妙化してきているのだと。だからいつもより山奥に行くんだと。

(…やだなぁ)

 母の後を追いながら、後ろ髪を引かれるよう。その思いを写し取ったかのように、空の色が徐に重くなっていく。青から灰に、灰から黒に。そして―――雨。それは、雷を伴った。

(冷たい…怖い…セイ…――セイ)

 鳴り響く音は、腹にも響いて痛い。その音から逃げるように、山の奥へ奥へと狐の親子は潜っていった。





 予想通り、朝になればすっかりコウキの熱は下がっていた。へたり込んでいた耳は元気よくぴょこりと立ち、ふわふわと眠気を表すように尻尾が揺れる。
 寝ぼけ眼を小さな手で擦るのを赤くなるからと言って止めさせながら、赤司はぴりっと額に貼っていた冷却シートを剥がした。だが少し勢いが強すぎたらしい。

「たっ」
「悪い、痛かったか」
「…だいじょーぶ…」

 ぱっと痛むおでこを両手で押さえてそう強がりながらも、コウキは明らかな涙目で赤司を見詰めた。赤司はそれに小さく笑って冷却シートをゴミ箱に捨てると、さて、と言って立ち上がり、ベッドに座るコウキを見下ろして思案するように目を細めた。

「服をどうするかな」
「服?」
「あぁ。何日も同じ服を着るわけにもいかないからな。それに熱を出したせいで、今着ているのは汗を吸い込んでいるはずだし。とは言え、お前の体型を考えると着せるものに困る。正直俺の幼少時の服が残ってるとは思えないしな」

 コウキは昨日学校から帰る際に不自然でないようにと、黄瀬が持っていたパーカーを着たままだった。確かになんだか背中の部分とかが濡れていて気持ち悪いと、コウキはパーカーの裾をぴらりとめくり、ん、と勢いをつけて脱ごうとする。留めたのは、赤司の手。

「こら、着替えも用意してないのに、脱いでどうする」
「だってー」

 気持ち悪いよぉ、とぐずるコウキに分かったからと適当に往なして、取り敢えずは自分の部活用のTシャツでも着せておこうか、と思いついた時。

「あ、じゃあ」

 ふと、コウキがそんなことを言ったかと思うと。

  ぽんっ

 妙に軽快な音がして、瞬間、煙が部屋に渦巻いた。なんだ?、と赤司が目を眇めてその場に立っていると、徐々に煙が晴れてくる。一体何をした、とコウキに問おうとして、その直後見えた光景に赤司は言葉をなくして固まった。―――コウキがいたベッドの上に、同年代の少年がぺたりと座っていた。

「これで、問題なし?」

 きゅ、と小首を傾げ、人好きのするあどけない顔で赤司を見上げてくる双眸はヘーゼル。髪は短い榛色はしばみで、着ているものはパーカーのみという、まぁなんとも言えない、ギリギリの格好。耳も尻尾もないが、この声、この見た目は…。

「…コウキ?」
「うん、コウキ。おっきくなった」

 無邪気に言ってくれる、と赤司は頭痛を堪えるように蟀谷を押さえた。そうだ、この狐は人に化けられるのだ。ならばその化ける人間の年齢だって任意に変えられるのは当たり前かと今更ながら気づく。
 だったら学校を出る時に教えて欲しかったものだが、まぁ、そんな状況でもなかったし仕方ないかと、自分を納得させて大きくなったコウキに向き直る。

「おっきくなった、じゃない。変化する時は先に言え。驚く」
「そ、そう? ごめん…。でもこれで、服の心配はないよね?」

 それはそうだが、そういう問題ではない。赤司はそう言おうとして、やめた。どうせこの子狐には分かるまい。

「まぁ、今の背格好なら俺の服が着られるだろう。とにかく汗を流すために風呂場に連れてくから、こっちに来い」
「ん」

 よいしょと立ち上がってみれば、すらりとした足が惜しげもなく晒される。自分の部屋でそんなものを見るとはね、となんだか微妙な気分になりながら、赤司は見て見ぬふりとコウキの前に立って風呂場まで先導する。
 コウキは一々通りがかる部屋や置物に興味をそそられたようでちらちらと見ていたが、勝手にどこか行くようなことはしなかった。けれど不意に疑問に思ったのだろう。

「ねぇ、他の人は?」

 と聞いてきた。赤司はただ、

「いないよ」

 とだけ言った。





 シャワーの基本的な操作を教えて服を取りに部屋に引き返してまた脱衣所まで戻ってくると、既にコウキがタオルを被って待っていた。だが行って帰ってくるまでに数分ほどしかかかってない。烏の行水か、と呆れながら。

「ちゃんと洗ったか?」
「うん」

 心底疑問に思ってそう問うも、コウキが躊躇なく頷く。だがその時、髪から跳ねた飛沫が赤司にかかった。その冷たさにぴくりと肌が粟立つ。まさか、と赤司は眉間に皺を寄せると唐突にコウキの髪を梳くように触れた。ひゃっ、とコウキが驚くのも構わず、ずぶ濡れた髪から下へと手を移動させて頬を撫でる。異常なほどの冷たさに眉間の皺が更に深くなった。

「…水垢離か」
「へ?」
「湯の出し方を教えただろう。何故使わない」

 溜息混じりに言えば、コウキは一瞬で顔を強張らせ、気まずそうに目線を逸らした。

「え、と、…おれ、水の方が慣れてるから…」

 …あぁ、そう。まぁ、野生の狐だからな。と、なんだか納得できてしまう理由だが、それでも、と赤司はコウキをまた風呂場に押し込んだ。

「え、なにっ?」
「今から湯を張る。直ぐ沸くから、ちょっと待ってろ」

 タイルに残ったままの水が靴下とズボンの裾を濡らして気持ち悪いが、気にしていられない。浴槽に手をついてパネルを操作していると、コウキが後ろから服を引っ張ってきた。

「い、いいよっ、もう…おれ、大丈夫だから…!」

 そう言い募るコウキを赤司は鋭く睨めつける。

「いいわけないだろ。病み上がりで水を頭から被るなんて、また躰を壊したいのか」

 ぐ、と詰まったコウキにそれ以上言わず、それを見てまたボタンを押そうとした時。

「ッ…、…」

 突然、引き攣ったしゃくりあげる声が浴室に響いた。振り返るとコウキがぽろぽろと涙を零していた。大きくなったとは言えその顔は最初に泣いた時と様子が被って見えて、赤司はなんとも言えない、困ったような顔をした。溜息を吐きたい気持ちを堪えて問う。

「…何がそんなに嫌なんだ」

 コウキは被っていたタオルで顔を隠し、くぐもった声で喋る。躰が憐れなほど震えて、声もそれに伴い掠れて風呂場に響いた。

「ご、め…でも、おれ、…駄目、なんだ…」
「…何が」

 短く促すと、すん、と鼻を鳴らして、少し。コウキがまた拙く話し始めた。

「む、昔、火に追われたことが、あって…それで、その、時から、ぅ、…火とか、熱いもの、が、っ…、全然、駄目に、なっちゃ、って…だから、…ごめ、ん…」

 ……熱いの、こわい…。

 最後にぽつりと呟かれた辿々しい言葉が、哀しく、重い。赤司はコウキの言葉に思い当たる節があった。祖父に話を聞いた後、何度かコウキの所在を知ろうとコウキが住む山について調べたことがある。その時にコウキがいたはずの山で一度山火事があったのだと聞いたのだ。恐らくそれに巻き込まれ、コウキの中で半ばトラウマになっているのだろう。
 それを考えれば、いくら躰のためとは言っても無理に入れと言うことは躊躇われた。躰を温める方法は他にもあると、言い訳のように自分に言い聞かせて。

「…分かった。分かったから」

 泣くな。

 赤司は言って、コウキをタオルごと抱きしめた。それはコウキの言葉以上に拙くぎこちないものだったが、コウキはそれを求めていたように赤司の肩に擦り寄った。震える手で赤司の服に縋り、小さく、ごめんなさい、と言った。思い返せば出会ってからそんな謝罪ばかり聞いていると、赤司はなんだか哀しくなった。





 春が好きで、夏がちょっと苦手で、秋が大好きで、冬が大嫌いだった。なのにセイと会ってから、いつからか冬が一等好きになっていた。春が来なければいいのにと、思うようになっていた。

(その、罰なのかなぁ)

 仰向けに倒れながら、思う。空が高い。いつもなら葉っぱに邪魔されて所々虫に食われたように見える空が、視界いっぱいに広がって眩しかった。それもこれも、少し前にあった落雷で山が燃えてしまったせいだ。春雷というのだと、母に聞いたことがある。

(全部燃えた…木も、花も、草も、…母さんも)

 火に呑まれて、全部。セイの家で燃えている蝋燭を嫌というほど見てきたのに、近づいてくる火は、頬を舐めた炎が、恐ろしくてたまらなかった。雨により鎮火して何日も経った今でも、思い出せばその恐怖に身が竦む。怖い。怖い。火は、駄目だ。

(…これから、どうしよう)

 あの日から起き上がる気力もなく、ただぼうっと空ばかりを眺めていた。空腹は覚えなかった。喉の渇きも気にならなかった。どうしていいか分からなくて、何かする意味も見いだせなかった。火に惑って辿り着いたここがどこかも分からない状態だった。

(どう、しよう)

 どうすればいい? 母に聞きたいと思った。セイなら教えてくれる気がした。でもどちらもいない。自分は一人だ。傍にあるのは燃え果てた木々と、蒼いばかりの空だけ。見渡せば直ぐ傍にいた母もセイも、ここにはいない。唐突に寂しさが込みあげた。

「かあ、さん…セイ…」

 ――…会いたい。

 そうして零れ落ちたのは、そんな泣き言と、たった一粒の涙だけ。泣く気力すらないのか。そう愕然と思えば、なんだか笑えた。笑えてしょうがなくて、滑稽で、薄情で、自分に絶望さえ抱いて。
 コウキは笑った。腹を抱えて笑った。涙が溢れだしたことにさえ気づかないまま。―――もう何がなんだか、分からなかった。





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