(二)




 どうにもすっきりしない朝練を終えて部室に行けば、赤司と黒子の姿はなく、その代わり青峰のロッカーの扉に折り畳まれたメモが貼り付けてあった。開くと屋上にいると短く書かれてあって、青峰は他の三人に呼びかけて着替えると早速屋上に向かった。
 見渡せば隅で赤司と黒子が固まって座っていて、近付くと二人が同じタイミングで振り返った。お疲れ様です、と言う黒子に、おう、と返し赤司に問う。

「おい、赤司、なんだったんだ?」
「…さぁ。俺にもさっぱりだよ」

 些か不機嫌な様子だが、その割に腕でしっかりと子どもが落ちないように抱き込んでいる。まだ眠っているが、目元が赤く頬に濡れた跡があるところを見るとどうやら一度起きて泣いたらしい。
 なんだかんだでちゃんとやってんな、と見た青峰は、さてどうする?、と次の問題を提示した。

「朝練はこれでなんとかなったけど、これから授業みっちり六時間だ。昼休みとかあるけど、ぶっちゃけこいつの面倒見んのはしんどいだろ」
「あ、そうっスね…」
「やっぱ保健室ー?」
「いや、保険医に任せるのも不安なのだよ。どうしたってこの耳と尻尾がある限りな」

 うーむと考えこむ四人に、赤司が言う。

「もう考えた。俺はこのままこいつを連れて家に帰る」
「は!? ちょ、赤司っち!」
「おいおい、なんでそうなんだよ」
「しょうがないんですよ、青峰君。他にどうしようもありませんし、それにこの子、どうやら赤司君を知っているみたいなんです」

 黒子の言葉に、赤司以外が目を丸くする。

「は、あ? こいつが?」
「前に赤ちんと会ったことがあるってこと?」
「俺にそんな覚えはない」

 きっぱり否定する赤司に、黒子が「でも」と言いかけた時。

「ぅ…」

 子どもが彼等の声で目を覚ます。薄っすらと開けられた目。覗くヘーゼルに、起きたところを初めて見た四人は息を呑む。ぴこぴこと動く耳に、音を払うかのように動いた尻尾。とろりと揺らめく双眸が半ばまで見開かれ、気怠げに視線を上げた時。

「ひっ、人間…!!」

 周りを囲む黒子達の存在に子どもは顔を青ざめさせ、そう叫ぶと一目散に逃げようとした。それを、赤司が阻む。

「こら、逃げてどうする」

 と、腰に手を回して抱き止める。ぎょっと見上げた子どもは、あ、と口をまぁるく開けて赤司を見つめた。

「セイ…」

 途端、また泣きそうな顔をする。もうたくさんだと思ったが、今度は泣きはしなかった。ただ緊張を漲らせた耳と尻尾が力なく項垂れる。
 もう逃げる気はなさそうで、それを見てとった黒子がひょこりと子どもの顔を覗き込む。ぴゃっと躰を強張らせた子どもを気遣ってか、黒子はできるだけ優しく話しかけた。

「君、お名前は?」
「な、まえ…? えと…こ、コウキ…」
「コウキ君ですね。道に倒れていたみたいですが、どうしてそんなことに?」
「え、えと…ずっと遠くからここまで帰ってきて、山から下りようとしたら、足踏み外して…で…気づけば、ここ?」

 こてんと首を傾けたコウキは何かを思い出すようにふわりと半ばまで目を閉じると、屋上から見える景色を遠い目で見詰めた。

「…ここ、懐かしい…久しぶり…そう、帰ってきたかった場所…」

 首を巡らせて、赤司を見る。

「セイに、会いに」

 ふにゃりと笑った子どもは無垢で眩しく、だがそれ故に赤司の神経を逆撫でた。

「俺はセイとやらじゃない」

 そうして押し出された赤司の声はとても冷たかった。冬の風に似て、鎌鼬にも似た。黒子達はその声に反射的に背筋をふるりと震わせる。何度聞いても、それに慣れることはない。

「……セイ、だよ?」

 だがコウキはきょとん首を傾げるだけ。それを信じて疑わない顔。苛立ちが弥増す。コウキはそれに気づかない。

「赤い髪も、綺麗な顔も、声も、全部、おれの知る、セイだよ?」
「…違う」
「違わない。だってセイは」
「違うと言っている。俺はお前と会ったことはない」

 言葉が、強い。怒鳴ったわけではないが、それには静かな怒気が込められていた。隠し切れない苛立ちが声に顔に表れ、コウキはびっくりしたように目を見開かせて赤司を凝視する。そして不意にコウキの目が潤む。じわりと、ヘーゼルが滲んだ。

「…なん、でぇ…? なんで、そんなこと言うの…?」

 掠れた声。何故と問う姿は真摯で、哀しみに塗れていた。

「約束、破ったから? 帰ってくるのに時間がかかったから…ッ? でも、でもおれだって頑張った! 頑張って、帰ってきたのに…!」

 セイに会いたくて、セイの元に帰るために。いくら傷ついたって平気だった。だって傷ついても向かう先にはセイがいる。セイならきっと治してくれる。いつもみたいに、手袋を直してくれたみたいに。そう信じて、ここまでやって来たのに。

「おれのこと、嫌いになったの――…?」

 とうとう零れた涙。それは赤司の手に当たって、砕けた。





 さよならの日。雪が降り積もり、世界は一面真っ白で、空だけが青々としていた。足音は全て雪に吸い取られ、耳に痛いほど、ただ静か。
 セイは玄関の外まで見送ってくれた。見上げれば空の青にセイの赤い髪が映える。いつも暗い中、蝋燭の火に揺らめくセイを見ていたから、空の下で見るセイはなんだか不思議で、でもやっぱり綺麗だった。いつもと同じように、綺麗、だった。

『忘れ物はないか』

 膝を折って目線を合わせてくれるセイ。髪に頬に、細い指が触れる。温かい。だから、寂しい。この指から伝わる体温から一年近くも離れるのかと思うと、寂しくて堪らなかった。

『うん、大丈夫』

 でもそれを言ってしまうのはもっともっと寂しいから、何も言わないことにした。そうとだけ言って、笑う。

『また来るから、だから、ね、セイがおれを忘れ物にしちゃ、嫌だよ?』

 おずおずと見上げる。セイは少し驚いた顔をしたかと思うと、当たり前だよと言う。そしてまた、額に優しい感触。

『約束だ』

 それが何かは知らなかった。ただ優しいことだけは分かって、見様見真似でセイの額に同じことをする。

『…おれも、約束』

 また絶対、会いに来る。何度も何度も約束して、何度も何度も振り返った。セイはずっと見送ってくれて、ずっと手を振ってくれていた。
 あの指が好きだった。あの温かさが好きだった。でも、多分何よりも、おれはセイが大好きだった。





 最初はタオルで簀巻きにするという意見が有力だったが、丁度黄瀬が放課後の部活の着替えに用意していたパーカーをコウキに着せてみると耳も尻尾もすっぽりと隠れたので、これを採用することにした。
 これで一つの難関を突破したはずなのだが、当の本人であるコウキは赤司の態度にショボンとしてしまっているし、また連れて帰るはずだった赤司もへそを曲げてしまって、朝礼のチャイムが鳴ったというのににっちもさっちも行かない状況へと突入していた。
 そんな無音を繋げるように黄瀬や紫原、緑間が思い出したようにコウキにコンビニで買ってきた食料を与えるも、コウキはもそもそと食べるばかりであまり食が進まないようだ。見ていられないと、黒子と青峰が赤司に詰め寄る。

「…どうしたんですか、赤司君。いつもの君らしくありませんよ。あんな風に言わなくても、他になんとでも言い様があったでしょう」
「そーだぜ。あんな小せぇ餓鬼に正論ぶつけたって仕方ねぇだろ。確かにお前はあいつを知らねぇだろうけど、会いたい奴に似てるお前にあんな言い方されちゃ、あいつが可哀想じゃねぇか」

 責めるようなそれに返されたのは一つの溜息。赤司はちらりと青峰と黒子の向こうに見えるコウキを見て、瞼を閉じる。また溜息を吐いた。

「…分かってるよ。過剰反応だった」

 赤司は渋々認めるような口調で言い、そしてそろりと瞼を開けて外方そっぽを向いたかと思うと。

「それに…本当のところ、俺はあいつを知っている」

 と、言った。

「…え?」
「な、はぁ!?」

 突然の告白に、黒子も青峰も絶句する。赤司は気にせず言葉を紡いだ。

「名をコウキと言ったな。コウキは光る樹と書いて光樹。本性は狐だ。だからあの耳と尻尾は変化が中途半端な証拠だろう。上手く行けばちゃんと人間に化けられるはずだからな。あれは以前俺の家の近くにある山に住んでいたそうだ。あんななりでも、もう五〇年以上は生きている狐だ」
「ちょ、なんでお前がそんなこと…」

 突っ込む青峰に対し、黒子は「あ」と気がついた。

「まさか赤司君、コウキ君が言うセイって…」
「…俺の祖父のことだ」

 因みに漢字は俺の名の征十郎の征だったはずと、事も無げに語る赤司に、なんだそれ、と脱力する二人。それに赤司はどこか憮然として返す。

「本当に一度も会ったことはないんだ、嘘は吐いてない。ただ祖父から伝え聞いていただけだ。冬に現れる、小さな狐の話を」
「でも、だったら尚更優しくしてやっても罰は当たらねぇだろうに」

 青峰が理解できないと言いたげにそう零す。赤司はそんな青峰を鋭く睨めつけた。

「…俺はずっと祖父と比べられて生きてきた。性格がよく人に好かれて、器用で何をやらせてもこなしてしまう祖父とな。…姿が、若い頃の祖父に生き写しなんだそうだ」

 幼少時に数度会ったきりの祖父。自分が会う頃には既に嘗て赤かった髪はすっかり白くなり、床に伏せることが多くなっていた。そんな祖父から、寝物語のように聞いた話。それがあの子狐との思い出だった。

「だから祖父の話を持ち出されるとあまりいい気はしない。まして似てると言われるのは、もううんざりだ」

 それに―――とついで空を見上げる。遠く遠くを見遣るよう。矯められた言葉は、躊躇いの色を含んだ。

「…祖父に会いたいがために傷つきながらここまで来たあいつに祖父の話をしてみろ、きっと会いたがる。そんなあいつに祖父はもう他界していると、告げるのはあまりにも酷だろう…」

 祖父は眠るように死んだ。穏やかに静かに。空が綺麗な、冬のある日に。





 祖父は穏やかな人だった。と言うより、人として存在するには些か自然に偏った人だったのかもしれない。人の声より風のを愛し、人の愛より自然の営みに心を寄せた。
 そうは言っても結局誰にでも優しい祖父は誰にでも愛される人で、だから祖父が少々変わった素振りを見せても誰もがそれも祖父の一面だと気にしなかった。…山の麓で生まれ育った祖父は、少し、不思議な力を持った人だった。

『…冬が、過ぎたね』

 ある年、久方ぶりに祖父のところに赴いた。丁度その年に喜寿を迎えた祖父は以前見た時より尚細く、弱々しく見えた。自分と似ていると言われ続けた祖父のその姿に自分の未来を見た気がして胸の奥がずくりと疼く。顔には出さないように努め、床に臥せる祖父の枕元に座ってその声を聞いた。

『はい。春が近くなってきました』

 そうか、と頷くように元々半ばまで閉じていた目を完全に伏せる祖父。寝てしまうのだろうか。思って、もそりと足先を擦り合わせる。暫く待つと、祖父は瞼を閉じた状態で口を開いた。昔ね、と、柔らかい声が耳に届く。

『冬に、小さな狐が訪ねてきたんだ』
『…狐…動物の、ですか?』
『そう…幼い子狐が、人の子どもの姿を借りて、手袋がほしいと家を訪ねてきたんだよ』

 くすくすと、微かに優しい声が溢れる。見れば笑顔も目尻の皺も柔らかく、まるで祖父を構成する何もかもが春のように優しく見えて、幼心にその話が嘘か本当かなんて、とても小さなことのように思われた。
 だからただそうなんですかと呟き、先を促すように膝を崩す。祖父はまだ、目を閉じたままで。

『…それからその子は冬の間だけの、小さな客人になった。雪が降る冬は山に人が入らないから、子狐も安心して山を下って街に降りてこられたからね…毎年飽きず、僕に会いに来てくれた。山奥に咲く、珍しい草花をお土産に』

 祖父は言う。でもある冬からぱたりと訪いがやんでしまったのだと。

『…死んで、しまったのでしょうか』

 寂しげな祖父にそう言うのは躊躇われて、けれど他に何と言っていいかも分からなかったから、変な間が開かないようにと繕うようにそう紡ぐ。
 祖父は咎めはしなかった。表情も優しいまま。ほんの少しだけ、そうかもしれないという思いがあったのかもしれない。

『さぁどうだろう…そうじゃないといいと思い続けて、毎年冬が来ると縁側で待ち続けていたのだけどね…』

 寒い思いはしていないだろうか。手袋がほしいと言われて急拵えで作った手袋は二年も使えば綻んで、新しいものを作ってやろうと言っても気に入ったからと、いつも綻びを縫うだけで間に合わせていた。それを思えば、きっとあの手袋はもう用をなしてはいないだろう。ボロボロで、あちこち穴が開いているに違いない。あぁ早く来てくれれば、直してあげられるのに…。
 祖父は静かに話した。子狐との会話を、思い出を、あったことを全て吐き出すように、静かに静かに、息の続く限り喋り続けて。

『…でも、もう…僕は待っていられない…』

 そう、零す。今か今かと待ち続けて、いつの間にか年を取っていた。冬に縁側に出るのは年々辛くなり、今では立つこともままならない。結婚し、子どもができ、孫も産まれた。気づけば、子狐が現れないまま五十余年が過ぎていた。

『恐らく、今年が待っていられる最後の冬だった…でも過ぎてしまったね…僕に、次の冬は来ないだろう…』

 何かを悟った祖父の顔は穏やかで、柔和な表情は崩れない。そんな…、と思わず呟いた声にさえ、春の暖かさで微笑んだ祖父は。

『だから、お前にあの子を託すよ…いつかまた、僕を訪ねて来てくれるかもしれないから…』

 そう、言った。途端、じわりと背筋が冷える。小さく唇が震えた。一度唇を噛み締めて、生まれた震えを噛み殺す。なんとか声を押し出した。

『何故、僕に…』

 戸惑いが声に表情に出る。きゅ、と膝の上で握った手。まさか、という思いが、次の祖父の言葉で肯定される。

『…お前は、僕に似てしまったからね…征十郎…』

 その言葉が言い終わると同時に、閉じられていた双眸が開かれる。夕焼けの緋と、そして蜂蜜を溶かしたような黄色の瞳が合間からそっと覗く。自分が赤髪や顔と合わせて祖父に似ていると言われる所以。それぞれに異なる両の眼の色。
 今その目が晒されたことで、祖父の意図を知る。顔じゃない、髪じゃない。祖父が似てしまったと言ったのは…――。

『お祖父様…』

 …薄々、感じてはいた。もしかしたら自分と祖父は同じ景色を見ているのかもしれないと。でもそれを裏付ける何かはなく、子どもじみた願望を口に出す勇気もなかった。自分と同じ世界を見る誰かがいればいいなどと、そんな弱さを曝け出す自分を許せなかった。
 だからその目で何を見ているのかなんて―――祖父にだって話したことはなかったのに。

『…………』

 言葉はない。ただ視線だけが行き来して、ただ紅と飴色の交わらない瞳がそれぞれの想いを託して交わされる。
 終わりの見えないその遣り取りが終わったのは、祖父が一つ瞬きをしたからだった。それは酷く億劫そうに行われて、あぁ祖父は疲れているのだと思った。
 祖父は子狐との過去を語るのに、自分との無言の会話に、とても労力を使ったようだった。それは更に白くなった顔色や、くたりと布団に沈む躰の様子から察せられて、眠らせてあげなくてはと部屋を辞そうとした。
 それを阻んだのは、祖父の優しい声と穏やかな微笑。そしてとろりと揺れた、黄色の瞳。

『…頼むよ、征十郎…』

 僕の代わりに、僕の小さな、友人を――…。

 返事を聞く前に、ゆっくりと祖父の瞼が閉じる。言葉がそっとくうに消える―――カラになる。ただ微笑だけが口元にあって、ただ願いだけが耳奥に遺る。
 膝上で握り締めていた手から力を抜いて、祖父の手にそろりと寄せる。静かに握る。はい…、と声にならない震えただけの吐息が落ちて、目を、閉じた。

『……お休みなさい、お祖父様…』

 それは青々とした空、春が近づく静かな冬の、とても美しい日のことだった。





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