(一)
[ 花言葉:熱愛、不誠実、君はただ美しいだけ、健康に適する、隠されぬ愛、熱い胸の思い ]冬は、嫌い。白い
『好きじゃ、ない…』
ぽろりと零したそれに、微かな笑みが零された。そしてそっと頭を撫でる、人の、手。大きい。温かい…。冬の寒さとか冷たさとか、嫌いっていう感情もどっか行ってしまうように、ほんわかとする。痺れていた指先も、気にならなくなる。
『僕は好きだけどね。雪はとても美しいし、静かな夜は心地いい。それにこの季節があったから、僕は君に出会えたのだし』
見上げれば、ふわりと柔らかく笑う人。自分とは違う、別の生き物の、人。真似て化けているから、傍から見れば一組の親子のように見えるだろうか。どうしたって、似てないけれど。
『…うれし?』
首を傾ぐ。聞きながら、返事がとても怖い。ずっと前に買った手袋を指先で弄る。使い古して穴が開き、新しいのを作ろうかと言われても断って、何度も手直しすることで今も使い続けている手袋。ずっと捨てられないでいる。捨てられるわけがない。最初にこの人に作ってもらった、自分だけの手袋を。
『嬉しいよ』
返された言葉は、望んでいたもの。優しい人だから、自分の望みを知った上でその言葉を選んでくれたのかもしれない。それでもいい。それでもよかった。邪険にされないだけで、嬉しい。
『…どうした? どこか痛いのか?』
ぽろぽろと、涙が落ちる。違うの、違うの。首を振る。ただ嬉しいの。胸がきゅうとするくらい、嬉しいの。貴方と出会えてよかったって、思ってるの。
しゃくり上げる喉は、そんな言葉を出すことを許してはくれない。だからただ抱きついた。一瞬驚いたように強張った躰は、直ぐ解されて背中をとんとんと宥めてくれる。
『泣き虫だね、コウキ』
コウキ、―――コウキ。この人がつけてくれた名前。美しく輝くような大樹のように育ってほしいと、そういう意味があるのだと教えてくれた。そうして字も書いてくれたのだけど、少し難しくて、だからその意味だけは一生懸命覚えた。この人が教えてくれたものは何でも覚えていたかった。言葉も、声も、姿も、名前も。
『そんなコウキのまま、大きくなってね』
うん、うん。何度も頷く。まだ涙は枯れないから、その代わりに。その人はただ、優しく微笑んでいた。
緊急連絡―――そんな件名のメールが送られてきたのは朝も早くのことで、差出人は我等が主将、赤司からだった。なんだぁ?、と既に朝練のため登校中だった青峰が歩きながら携帯を開くと、そこには。
至急、それぞれコンビニで牛乳、おにぎり、サンドイッチなどを買ってくること。あまり糖分過多のものや塩分が高めのものは控えろ。一人一つくらいでいい。菓子は買いすぎるなよ、紫原とだけ書いてあった。何なんだいきなり、と思うが、買って行かねば何かしらペナルティがあるに違いないいやきっとそうだ。そこそこ長くなってきた付き合いで青峰は心底実感していた。赤司には逆らわない方がいい。
「って、至急ってことは急げってことか!?」
さらりと読み飛ばしていた部分に青峰は焦る。今の時間からして電車の時刻表やら道程を逆算すると上手く行けばいつもより早く着けるだろうが、何より大事なのは『コンビニに寄って買い物をすること』である。
「この時間帯のコンビニってめっちゃ混んでるじゃねぇか!」
叫びつつ青峰は猛スピードで走りだした。赤司の要求には答えなければならないのだ。例えどんな無理難題であっても。
部室に辿り着いたのは朝練開始の三〇分前で、いつもギリギリで到着する青峰にしてみれば快挙と言っていい。だがそんなことを考える余裕もなく、青峰はベンチに座り込んだ。既に着いていた他の四人も、大概似たような状況だった。
「青峰っち、はよっス…」
「峰ちんお疲れ…」
「ご苦労なのだよ…」
「おはようございま…ごほっ…」
「おぉ…って、テツ咽てんじゃねぇか…」
元気がない。それはそうだ。足で進める場所を全て走ればこうもなる。…で?
「当の赤司はどこだよ」
部室に入った時からの疑問。見渡さずともあの鮮烈な赤を見逃すはずもなく、いないことに直ぐ気がついた。紫原が答える。
「なんかねー、俺が最初に着いたんだけど、その時にはもういなくって、メールしたら部室で待っとけって。五分くらい前だったかな」
「んじゃそろそろ来るっスかね…」
と言っていた所に扉が開き、呼び出した張本人の赤司が姿を現した。
「おい、赤司、いきなり何なん、だ…よ…」
最初は噛み付くようだった声が徐々に失速していく。最終的に青峰の口はぽかんと開かれ、他の四人も目を丸くして固まった。
「あぁ、済まないな。どうやら腹が空いているようなんだが、さすがにこれを抱えたままコンビニに入るわけにもいかなくて」
「ちょ…、ちょっと待った!」
五人の様子を全く気にも止めないで至極普通に喋りはじめた赤司に、青峰が待ったをかける。なんだ?、と言葉を遮られた赤司は不快そうに青峰を睨めつけた。青峰もここで負けてたまるかと気力を振り絞って赤司に一言物申す。
「それは何だ、どうしたんだっ、それは!」
「それ? …あぁ」
青峰や黒子達の視線を遡って辿り着いた場所は、己の腕の中。収まりきらず飛び出したもふもふと柔らかい尻尾がふわりと揺れる。それに優しく触れて、赤司は。
「道で拾った」
まるで捨て猫を拾ったかのように簡単に言ってくれるが、赤司に抱かれているのはそんなものじゃない。
ぴょこりと飛び出した耳は尻尾と同じく橙で、夕陽を写し取ったように美しい毛並み。だがその下に続いているのは色を濃くした榛の髪で、そこからは肌色の細い首筋が見える。しかもちゃんと服を着ていた。恐らく甚平だろう。
…そうだ、全身毛で覆われているのなら、猫だろうがなんだろうがよかったのだが、これは。
「子どもじゃねぇか!」
まだ三、四歳程度の、しかも何故か耳も尻尾も生えた小さな幼子が、赤司の腕の中で眠っていた。
赤司が言うには、登校中、電柱の影に隠れるようにその子どもが蹲っていたらしい。しかもぴくぴくと橙の耳と尻尾が痙攣していて、咄嗟のことに少し目を瞑ってまた見てみたらしいが消えることもなく、何にせよ人の形をしているだけに見捨てることもできなかったらしい。
抱き上げてみればあちこちに擦り傷があり、微かに発熱もしていた。これはどうにかしなければと、既に学校の近くに来ていたこともあり、学校で様子を見ることにしたのだそうだ―――が。
「……で、結局これはなんなのだよ。耳と尻尾はどうやら狐のもののようだが…」
取り敢えずベンチに寝かせた子どもを取り囲んでいるだけでは話が進まないと問うた緑間に、赤司は「さぁ?」と言うように肩を竦めた。それを他所に黄瀬がこわごわと尻尾に触れる。ふわぁっとした肌触りに、顔を輝かせた。
「すごいっス! めっちゃ気持ちいい!」
「でも嫌がってますよ?」
黒子の言うように、触ろうとすればするほど、尻尾はするりと黄瀬の手から逃れようと動く。それを見て項垂れる黄瀬と、納得したような顔をする黒子。
「まぁ、取り敢えず尻尾も耳も神経が通っているようですから、コスプレではないですよね」
「これでコスプレだったら完成度高すぎだろ。…いや、そうなるとこいつは本当に人間じゃないのか?」
「子狐かなぁ。マニアの人に好かれちゃうねー」
紫原が頬をつつくと、ふに、と子ども特有の柔らかさが返ってきた。おぉっ、と感動したように紫原はもう一度触れようとしたが、赤司にそれを止められる。
「止めておけ、紫原。起きる」
赤司の言った通り、触れられたことで意識が覚醒しようとしたのか、子どもは
「わ、赤ちん~」
「もう触れなければ大丈夫だ。取り敢えず部室にあった救急箱で擦り傷は消毒したし、後は寝かせておくしかないだろう」
「でも俺等これから朝練じゃん。どーすんの?」
青峰の問いに、赤司は少し難しい顔をした。
「さっき訪ねてみたが、保険医はまだ来ていないようだった。まぁ、こんな子どもをおいそれと誰かに預けるわけにもいかないんだが、とは言え、俺達が朝練を休んでまで面倒を見るのは他の者に示しがつかないし…」
みんな頭を悩ませる。しばらくして、ぽん、と手を打ったのは黒子だった。
「結局僕等でしか面倒がみれないことが前提なら、ローテーションで傍にいるというのはどうですか? それだったら全員が一度にいなくなるわけじゃないし、朝練もできないわけじゃない」
「お、それでいいじゃん」
「そうだな、他に手も思いつかないのだし」
「賛成っス!」
「いいんじゃないー?」
それぞれが頷く様子を見て、赤司も。
「では、そうしよう」
そう決定を下した。
細い手が、毛を撫でる。嫌じゃなかった。優しいその手が大好きだった。眠っていいよと、膝に抱かれてその温かさに身を寄せるのが好きだった。指の背で撫でられる。整えるのではなく、ただ熱を分け合うように。
『また、山に篭るのか』
吹雪く音が言葉に被さる。あぁ…と微睡みかけた瞼を押し上げ、揺れる蝋燭の火を見る。この音が去れば、春が来る。雪という障害が取り除かれ、人が山に入ってくる。だから山奥に還るのだ。ここには、…暫く来られない。
『…うん。でもまた、帰ってくるよ…あの、ヤじゃ、なければ…』
口篭るように言えば、撫でる手が更に優しくなり、含み笑いが降ってくる。
『嫌じゃないよ。またおいで。春が過ぎ、夏を終え、秋が冬に変わる頃に』
待ってる、とその人は言う。笑みが溢れる。口元を小さな手で覆う。躰の真ん中がむずむずする。むず痒い。駄目だ。嬉しい――…。
『…待っててね』
小さな声。聞こえただろうかとちらりと見あげれば、下りてくる影。何、と驚いて目をぎゅっと閉じる。その直後、額に優しい感触。目をそろりと開ける。綺麗な顔が、見下ろしていて。
『僕は、ずっとここにいるから』
コウキ、と呼ぶ。聞いて静かに目を閉じる。その声を、そこに含まれる甘さと許しを、ずっと覚えておこうと思った。
「―――赤司君!」
朝の体育館に黒子の声が響き渡る。練習中だった全員が一斉に動きを止めて入り口を見た。黒子の声とその姿を認めて、赤司が誰よりも早く動いた。青峰達も気付く―――あの子どものことだろう。
「赤司っ」
「お前達はここにいろ」
後に続こうとした青峰達に赤司はそう命じて黒子とともに出ていった。残された部員達は何があったのかとざわめいている。チッ、と青峰は舌打ちを零して。
「なんでもねぇ! 練習を続けろ!」
口答えは許さない、という風に周囲を睨めば逆らう気はないようで、それぞれがぎこちなく動き出す。黄瀬達も気になるようだが、ここでキセキの世代全員が出ていけば余計面倒なことになる。赤司にも怒られるだろうしと青峰は踏みとどまって、不安げな顔をする黄瀬達にも練習に戻るように目線で促した。
大人しく頷いて練習に戻っていく様子を見ながら、ぽつりと言う。
「…ったく、今日はなんだってんだ」
まるで狐につままれてるみたいだと、そんなことを思った。
廊下を部室に向かって足早に歩く。何があったと聞けば、黒子は困ったように言う。
「僕が面倒を見始めてて少し経った時に、額に乗せたタオルを取り替えたらその冷たさでどうも目を覚ましたようで…暫くはぽかんとしていたんですが、急に泣き始めたんです」
「…あぁ、それであの声か…」
部室の方向から聞こえてくる子どもの泣き声に合点がいきつつ、疑問もある。
「それは俺を呼ぶほどのことなのか?」
それくらいならお前がなんとかしろ、と言外の意図をちゃんと汲み取った黒子は、えぇでも…、と言葉を濁した。
「どうした」
「…いえ、多分言葉で言うよりも直接あの子の様子を見た方が理解できると思いますから」
「おい、どうした」
子どもは体を起こし、ベンチの上で丸まっていた。自分を守るかのように頭を抱えて身を小さくして。けれど赤司の呼びかけに声を詰まらせたかと思うと、子どもはそろりと顔を上げた。
はらはらと大きな目から大粒の涙が零れ落ちていくのが見える。きらきらと潤んだヘーゼルの瞳が輝いて、真っ赤になった頬は林檎のよう。へたれていた耳がそれと同時にピンと立つ。赤司の姿に、大きな目が一層大きくなった。そして。
「…セ、イ…?」
呟いたかと思うと、よろりと危なげに立ち上がる。一瞬焦る赤司と黒子の目の前で、しかし子どもは狐のように身軽にベンチを降りて赤司に近づくと、くしゃりと顔を歪ませて一言、―――ごめんなさい、と言った。