エピソードⅨ サイレント・ノイズ

[ Silent Noise ]


 電話越しにも冴え冴えと響いた声に一瞬怯んだ自分を、木吉は認めないわけにはいかなかった。思えば彼と顔を見合わせて会話したことはない。ただ遠くその姿を見たことはあって、当時、彼はまだ十にも満たない幼子だったはずだ。だと言うのに、既にある種の風格が漂っていたのを鮮明に覚えている。あぁさすがあの方の御令孫だと、嘗ての姿、声の雰囲気に、沁々と思う。だがその心情を僅かも声に覗かせないまま。
「…絡繰りを聞いても?」
『ここの電話は、発信用なんだ』
 聞いて、なるほど、と如才なく相槌を打つ。まったく彼は賢い。しかしあいつはその賢さに競り勝ったのだ。それが例え、知略と言うより執念と熱意の勝利だとしても。
『それで? 首謀者は誰だ。光樹は』
「降旗君は無事です。そして首謀者ですが、…もう誰か、なんて関係ありませんよ」
『何?』
「死んでしまいましたから」
 咄嗟に、無言がよぎる。それが戸惑いと言うより懸念であることを悟って、言葉を接いだ。
「降旗君が殺したんじゃありません。俺達が見付けた時には、既に死期が近かったんです」
 言えば、少しの沈黙の後、そうか、と繕った声を返されて。
『…何故、先々代に仕えたお前達が、こんなことを?』
 静かに問われる。あぁなんだ、やっぱり自分達だとバレていたのかと、手伝ったのはあの虎の子だろうかと、木吉は悪戯を見破られた子どものように口元を綻ばせ。
「…さぁ、何故でしょう。血に逆らってみたかったのか」
 心の中、既に風化してしまった純血種サラブレッドへの憎悪を優しく眺めて、呟く。
「もしくは、…同情だったのかも、しれませんね」
 その言葉にも不器用にそうかと返した彼は、それ以上何も言わなかった。


 パタリと通話を終えて携帯を畳んだ木吉は、それにしてもと振り返る。
「こいつにしては、大層遠回りで臆病な恋だったな」
 呆れた口調で、それでも何か思う風に笑えば、今吉が同じように笑って返す。
「しゃあないやろ。自分の躰がどうとかより、吸血鬼バケモンになってでも傍にいたい思うくらい、命賭けるくらい、でも結局あの子思って手放すくらい、好きやったんやからなぁ」
 本当は――と、いつかの真は言った――あの時、自分は踏ん張れたんだと。川に落ちる寸前、頑張れば踏み止まれたんだと。でも、そうはしなかったのだと。
『…あいつは優しかったから、きっとどんな手を使っても助けてくれるって信じてた。そしたら俺はあいつとになる。同じになって、傍に、ずっといてやれるって』
 そう、思っていた。それが全てだと。そうすれば、何もかもが丸く収まると。
『……馬鹿だよな。一番に考えなきゃいけなかったのは、光樹の心だったのに…』
 父親の血を飲んでから人から血を飲むのが怖くて、獣の血しか飲めなかった光樹。雨の音で飛び起きて、身を震わせて泣く光樹。そんな光樹がやっと父親のことを乗り越えようとしていたのに、自分がその足を引っ張った。傷付けた。深く、深く、…許されないほど。
 だから別れる間際に言ったんだ、忘れろと。過去も自分のことも、全部全部消してしまえと。そして今度こそ倖せになってほしいと願ったことは、確かだったけれど。
『…まさか本当に、全部忘れちまうなんてな』
 どこまで素直なんだか、と笑った真の横顔には優しさだけがあって、それは二人の心を否が応でも締め付けた。そして、その流れ、その顔で。
『だから、――…ありがとな』
 真はそう言ったのだ。二人に対しては、最初で最後の。
『お前達が俺を見付けてくれて、手伝ってくれたお陰で…』
 ―――俺は光樹に看取られて、死んでいける。
 彼らしくもなく、柔らかな声で。
「もっと早く、会いたかったな」
 思えば連れ添ったのは一年にも満たない間だったと零すと、今吉がからりと言う。
「会えただけえぇやろ」
 …そうだ。会えただけ、よかったのだ。一瞬より長く目を閉じて、木吉は思った。
 何もかもを諦めていた世界で、思いがけず似た境遇の彼と出会い、少しの間でも友人のような関係を築けたことは、堪らなく倖せなことだろうから。
「…ゆっくり休め、花宮」
「ワシ等もそろそろそっち行くから、寂しないで」
 それでも幸福の影に寄り添う淋しさは確かにあって、それを誤魔化すように語りかけた。しかし待てども返る声はない。木吉や今吉が何か言えば、一つ二つ、暴言に似た言葉が投げ返されるのが常だったのに。
 何も聞こえない。何も返らない。…還っては、こないのだ。それを漠然と広がる静寂しじまに感じて、二人は寂しく微笑んだ。
 後はただ、忌まわしいほど穏やかで優しい沈黙が、荒屋の中を満たしていた。


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