第十四話 ファミリア・ファミリア

[ Familia-Familiar ]


 彼が壊れるのは、怖いほど、哀しいほど、容易かった。
 強風に花弁を散らす桜のように、はらはらと心は剥離していった。幸せが消え行く氷細工だったのだと気付いた頃には、元の水さえ蒸発して、雫一つ、残らなかった。
 溶けるはずではなかった。なくすはずではなかった。三人で生きていくはずだった。代々続く名家の出自、跡取りの座、彼が好み蒐集した莫大な書籍、彼女との婚姻を認めなかった両親―――それまでの何もかもを捨て、彼女の手をとって逃げた未来(さき)には永劫の幸せが待つはずだった。
 ――…けれど。
『私、貴方の優しい目が大好きよ』
 そう言って少女のように含羞(はにか)んだ彼女は、雨の降りしきる朝に忽然と姿を消した。
 探して、探して、探した。さよならを綴る(ふみ)を握り締めながら、それを信じずに探し回った。何日も、何週間も。当て所なく、宛もなく。ただ、ただ、求め彷徨った。
 彼女が何者だって構わなかった。出自が分からなくても、過去を知らずとも、そんなのは些細なことだった。
 驚くほど博識で年上然としている面もあれば、十足らずのお転婆な娘子の様にも、時には外の世界をまったく知らぬ深窓の令嬢にも見えた。コロコロと七変化する様相は、しかし、彼女が生来持ち合わせている品位を損なわせはしなかった。
 彼女を愛していた。彼女から愛されていた。彼女と一緒に、生きたかった。その思いがありさえすれば、何でも乗り越えていけると、信じて疑わなかった。
 甘かったのか。それは酒呑みの法螺話に似た幻想で、彼女は掴めぬ幻氷(かげろう)だったのか。
 とうとう精魂尽き果てて(くずお)れた躰を打つ神無月の雨は冷ややかだった。それは同時に、これまで挫折を味わうことのなかった彼が初めて知った現実の非情さでもあった。
 獣の咆哮が、山間に谺した。嘆きだった。己の無力さに対する悲鳴と、世を儚む絶望の声だった。彼は叫んだ。心が望むまま、疲れ果て、気絶するように眠るまで。
 全て夢ならいい…。そう願いつつ、重い瞼をそろりと開いて目覚めた彼は、ふと腕に抱く熱に気が付いた。小さな塊。胡乱に思いながら、視線を動かせば。
「あ…――」
 一歳(ひととせ)にも満たない嬰児(えいじ)を、そこに見た。まだ日に焼けていない肌、ぽってりとした頬。自分と似て色素の薄い髪に、未だ夢を流離(さすら)う瞳が、彼女と同じ、黒水晶のそれだと知っている。
『さすが我が子、賢いわぁ』
『僕の子だってことも、忘れないで』
 …そうだ、―――そうだ。彼女の子だ。自分の子だ。この子は、僕と、彼女の。
 ―――守らなければ。
 掻き抱いて、強く思った。
 ―――守らなければ。
 せめてせめて、この子を。
 ―――
 …悲しいかな、その時から既に彼の心は病んでいた。軋み、ガリガリと摩耗して、擦り減っていた。それは雪が深々シンシンと降り積もるように、けれど確実に蝕んで。
 全てが脆く崩落したのは、子どもがまだ、神様のものだった頃。


 いつからか、彼の意識には靄がかかるようになっていた。耳に入る音にも雑音ノイズが混じって、不明瞭。彼の見聞きする世界はどこか現実離れして、夢のような浮遊感が彼を包んでいた。まだ醒めやらぬ眠りの淵に蹲る心地に、それは似て。
 しかし不思議と彼はそれを自然に受け入れていた。そういうものか、という意識もなく、変だな、という疑問もなく、寧ろ受け入れたという自覚もないまま、不透明な繭の如き世界に身を浸していた。
 そんな中で、これまたいつと明言できぬ頃から、彼の中には彼と、そして神様が住むようになっていた。この場合の神様とは、彼の俯瞰的、客観的観点を指していて、それはひび割れた心が意識さえも二分し、新たに歪んだ彼を生み出した結果に他ならなかった。
 神様は彼と対蹠に無慈悲で強欲だった。彼の悲劇は神様にとって歓迎すべき喜劇で、彼の喜劇は神様にすれば愚にも付かない微温い悲劇でしかなかった。
 悲劇は他人のものを見てこそ真価を発揮する。よって神様は基本的に自分が悲劇に見舞われるのを好まない。いつだって無垢に無邪気に残酷に誰かの悲劇を喜びたくて、自分が悲劇の指揮者マスターでいられるのなら、多少人形かれが壊れるのは致し方ないことだった。
 それ故、彼は常に悲劇ナイフを喉元に突き付けられていて、予想通り、ある日とうとう壊れてしまった。
 だが一つ神様の、そして彼の誤算だったのは、主客に名を与え、役割を分けたところで、詰まるところ、神様も彼も一個の躰を共有していたに過ぎなかったと言うこと。彼が壊れて神様はいなくなったが、また同時に神様がいなくなったことで彼には言い訳がなくなった。神様に唆されてやったはずの全ては、自分の頭で考え、己の手で実行したことだと、彼は遂に認めなければならなかった。
 その一瞬、靄が晴れ、正気に戻ってしまった彼の苦痛は、如何ばかりだっただろう。
 彼の眼前に広がるのは全ての窓を板で打ち付けた荒屋の未完成な暗がりだった。鼻が嗅ぎ付けたのは噎せ返るほどの異臭と腐臭。肌に触れたのは、淀みきった空気と生温い風で、口を閉ざしたのは舌に纏わり付くそれらが不快だったからだ。嘔吐えずきかけた彼は、不意に耳を澄ませた。己の掠れた呼吸音の他に、耳朶を微かに打つ何かがここにはある。
 じりじりと膝頭で音のする方へにじり寄る彼の喉仏が上下した。
「  さ 」
 臭いが肌を突いて、それはもう鼻を摘もうが口を塞ごうが関係ないほどだった。
「と   」
 汗が吹き出した。暑いのではない。見付けたからだ。、両手で口元を覆った。
「 う  」
 音の発信元、異臭の根源。目を閉じたいのに、ピクピクと痙攣する瞼はそれを拒否して適わない。せめてとぬめる手で口を閉ざし、悲鳴を臓腑まで引き摺り下ろすのが精々だった。
 さて、それはできただろうか。すべきだっただろうか。分からない。ただ、彼は彼でありたくなかったのだ。自己さえも捨ててしまいたかった。何故だっただろう。何が自分をそうさせただろう。…忘れてしまった。でもそれは。
「とうさん」
 我が子を闇に閉じ込め、己の手と彼の躰を壊してまで、すべきことだっただろうか。


 暗闇に慣れてしまっていた子どもの目は、父の驚愕と絶望を正確に見て取っていた。翳った蜂蜜色の双眸に灯った正気の色を見逃さなかった。途端零れた涙は、憐憫の涙だった。
(可哀想に…、可哀想に…――)
 壊れゆく父を、その原因となってしまった母を、恨んだことはない。恨んだとすれば、それは心を病んだ父を救えなかった己の非力さだ。
『とうさん…?』
 分かっていたのに。不意によぎる瞳の中の妖しい影。一瞬に紛れる夢見がちな声色。指先に漂う、虚ろな仕草。自分の幼さを理由にどうしようもなかったと言い聞かせても、何か、何か、できたのではと、何度でも思う。
 そうすれば。そう、あれば。
『―――お前は、僕のものだろう…?』
 あんな悪夢の始まりの日は、きっと、来なかった。
(あぁ、けれど)
 あれは全て、彼が生きるための自衛だったのだ。生きていくには、壊れるしかなかった。
(とうさん…)
 だからそれでよかったのだ。子どもはそれを受け入れていた。哀しみや憐れみは、いつしか愛おしさに変わった。愛する父が傍にいるのなら、拷問のような痛みにも意味はあった。腐っていく躰にさえ、意義はあった。
 子どものように泣いて、泣いて、縋るように殴る父を、救いたかった。
(…とう、さん…?)
 だから、それで、よかったのだ。
(とうさ…ッ)
 父が正気に戻ることなど望んではいなかった。遠く瀲灔れんえんの音が聞こえるここで、ずっと狂っていればよかったんだ。だって、そうでなければ。
『ごめんね…――光樹…』
 優しい父は、死ぬしかないじゃないか。


 パチリ、と瞼が押し開かれ、虎目石タイガーズアイの双眸が連れ出されたはずの小屋の天井そらを見た。頭の芯がジンとする。躰の真ん中が痛かった。震える唇を噛み締めて、食い縛る。
「……思い出した…。全部――…全部」
 自分の過去。何があったか、何が起きたか。自分がどう生きて。
(どうやって―――吸血鬼になったのかも)
 ガリ、と歯が唇を傷付けた。鉄の味、血の臭いが、今はただ煩わしい。
「畜生――…っ」
 両手で顔を覆って吐き捨てる。涙が伝う。ぼろぼろと大粒の、誤魔化しようもない涙が溢れて頬を手を袖を濡らす。その熱が、いっそ疎ましかった。
「なんで生きてる…!!
 絶望に満ちた声は、無理矢理膓から吐き出されて喉奥を痛め付け、胸を強く締め付けた。
(畜生、ちくしょう…ッ)
 何故忘れた。何故生きた。この罪悪に塗れた記憶を抱えて生きていけないのなら、忘れてのうのうと生きるくらいなら。
「あの時、死ねばよかったのに…――!」
 何故、死ななかった。生きて幸せになろうとでも思ったのか。次こそはとでも思ったのか。―――何を、馬鹿な。
…!)
 心の中で、そう、絶叫した時だった。
「んなこと言うなよ。俺は、お前と出会えてよかったと思ってるんだぜ」
 不意に、秋風のような声がした。その声は、木吉でも、今吉のものでもなく。
「―――」
 肩が揺れて、指先が震えた。時間を掛けて、顔に置かれていた両手がずり落ちる。
 いつの間に、いたのだろう。光樹の傍らに座り、鷹目石ホークスアイの双眸を暗く燻らせるその彼は。
「みぃつけた」
 光樹を見下ろし、ニッと笑って、そう言った。


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