エピソードⅦ 昨日、君の夢を見た

[ I Dreamed You Last Night. ]


 ただ、恋だった。
 どうしようもなく、圧倒的に。


 下駄が地面を踏み締める度、草熅れが立ち昇る。夏だった。暑い暑い、眩暈のするような季節。どろどろと何かが腐っていても誰にも分かりゃしないだろう。肌を伝う汗は、見かけばかりは瑞々しく、その癖、中身が朽ちかけた果実の表皮を下る水滴(しずく)のようで、着物の袷を濡らして何度引き剥がしても肌にぺたりと張り付いた。
 あぁ、春の穏やかさが懐かしい。秋の月が偲ばれる。だが冬はまだ来なくていい。
「なんで?」
 そう、小首を傾げ、見上げてくる稚児(ややこ)に微笑み、抱き上げて共に空を見る。真夏の太陽は天晴れで、そして清々しいほど
「人恋しくなるから、かな」
 そんな心情を露とも悟らせずに、腕の中の子を見下ろす。自分の体温を軽く凌駕する気温に逆上(のぼ)せたのか、丸みを帯びた頬が林檎のように赤い。指の背で擦れば、その熱は明らかだった。しっとりと吸い付く柔肌に妻のそれを思い出し、くすりと含み笑う。懐かしい。焦がれるほど求めて、手に入れた。濡羽色の髪を靡かせ、雪原に佇む彼女は、あぁ、匂い立つほど美しかった!
 過去(ゆめ)をなぞれば胸が太陽を孕んだかのように熱くなる。じわりとまた新たに汗が肌の表面を滑ったが、その程度で冷める熱ではない。そんな次元で愛したわけではないように。
「とうさん…?」
 ふと、子どもが何かを察してか、ぎゅっと小さな紅葉の手で着物を握って見上げてくる。不安げな、恐恐とした表情(かお)。自分と彼女の宝物がそんな顔をしているのが忍びなくて、やんわりと片笑み、安心させるように言い聞かせた。
「大丈夫だよ、大丈夫…――」
 そう言って、言いながら、多分この頃から既に自分はどこか可怪しかったのだ。妻を喪って数年の内に、怖いが胸に巣食っていた。
 それを、もしかしたら、狂気と呼ぶのかもしれなかった。


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