第十三話 夢喰いバラッド

[ Ballad Of Charon ]


 知っていた。夜の深さより尚深い、深淵に似て非なる暗澹を。
 闇は光があるからこそより濃く暗く、黒くなる。一層翳りを増して絶望を嬲る。ただ漆黒であればそれだけで済んだものを、光は徒に希望を煽るからいけない。
 闇が悪なのではない、光が罪なのだ。いっそ清々しいほど、滑稽なほどに。
 それを知っていた。闇を闇と知覚させる光を、だから自分はあれほど嫌っていたと言うのに…――。
『みぃつけた』
 知っていた、分かっていた。それでも手を伸ばした自分が、…弱かったのだ。


 光樹が最初に感じたのは寒さだった。頬を舐めた冷たさに、首を竦めて薄く目を開ける。しばしばと緩慢な瞬きを繰り返し、辺りが薄暗いことを知る。自分が起きたということは朝の八時…、ならばこの暗さは天候が悪い所為だろう。また瞼を閉じて耳を欹てると、風が荒く吹いていた。時折、風と共に水滴が肌を打つ。小雨も降っているらしかった。
「う…」
 喉奥で、呻く。それは躰が思うように動かせないもどかしさと、左腕が僅かに熱を持って疼く、その違和感への反射的な抗議の声だった。だから、まさかそれに声が返されるとは思わなかった。まして。
「あ、起きた?」
「よぉ寝てたなぁ」
 聞いたことのない声が返されるとは、微かも、思わなかった。
「………」
 動かし辛い躰をなんとか起こす。掛けられていた布のようなものが伴ってずり落ちたが、気にせず声を辿った。そこで初めて、老朽化の激しい掘っ建て小屋のような所にいるのだと知った。所々に亀裂が入ってそこから風が吹き込み、窓に遮蔽物はなく、そのために雨が降りかかっていたのだとも。そして、扉付近に一つだけ置かれた電灯。それが、傍に座る二人の人間の姿を浮かび上がらせていた。穏やかに微笑む偉丈夫に、へらりと笑う眼鏡の男。声と同様、どちらも覚えのない顔だ。
「…誰?」
 胡乱げに見遣り、問いかける。応えたのは眼鏡の男だった。
「人に名前を尋ねる時は自分から、って、知らん?」
 狐に似た笑みで言われた戯言に、光樹は下らないと興味の失せた目で男を一瞥し、改めて辺りを見渡しながら記憶を浚う。
(征達が買い物から帰ってきて、俺は、征とお茶の用意を…。それで、その後…、どうしたのだっけ…)
 いくら考えてもその先は思い出せなかった。だが、不鮮明でも自分があの館にいたことは確かだ。だとすれば…、と整理して出た結論に、顔を伏せて浅く溜息を吐く。
 面倒だ、と思った。何故かは分からないが、どうやら自分は誘拐されたらしいと分かってしまったことさえ、今の光樹には煩わしかった。
(まったく、なんで…――俺なんか)
 その気鬱さがどこから来るものなのかを知らず、知ろうとも思わないまま、光樹はすっと立ち上がり、今思えば扉を塞ぐように座る二人を見下ろした。相変わらず彼等の口端には薄い笑みがあって、癪に障る。苛立ちが弥増し、発した声にも、それは滲んだ。
「退いて」
 端的に言って、その要求が叶えられるのを待つ。しかし二人にその心算はなさそうで、動きは光樹を見上げる最小限の程度に留まったにすぎなかった。そして。
「なんで?」
 眼鏡の男が、退く気なんてさらさらないと分かる口調で緩く問う。口元に座す微笑は瞬く間に深笑に変わり、彼を一層怪しく見せた。と同時に覚えた、ちり、と脳裏を焼く不快感。元々の鬱憤と混じって気持ち悪さすら覚えながらもそれを抑え、「帰る」と短く言えば、今度口を開いたのは穏やかに笑む偉丈夫。けれど、その口から零れ耳を打ったのは。
「帰る? あそこが君の居場所だとでも?」
 笑みに似つかわしくない、酷く辛辣な言葉だった。
 煩い―――咄嗟に出かかった言葉は、しかし唇でなぞられただけで世界に生まれず、喉奥で鈍い痛みになった。誤魔化すようにくちりと唇を噛んでみても、痛みは別個に存在して混じらない。そのことに、光樹は泣きそうに歪めた顔を俯かせて思った。
(でも、じゃあ、―――俺はどこに帰ればいい)
 過去をどこかに置き忘れた光樹にとって、征の腕で囲われ、征に与えられた世界こそが全てだった。居場所と言えばそこだった。寄る辺と言うならそうなのだろう。例えそこが。
(―――…俺は、(そこ)に混じれない)
 本来、光樹のいるべきでない場所なのだとしても。
(自分は、は、征の傍しか知らないのに…!)
 心の中、絶叫に似た響きで八つ当たりのようにそう思い、唇を食い破る勢いで噛み締める歯に力を込めようとした。その瞬間、その時を、狙い澄ましていたかのよう。
「ねぇ」
 穏やかな、それでいて器用に奈辺に笑いを含ませた声で、彼は。
「―――ふりはた、こうきクン?」
 ―――トクリ。
 鼓動が一瞬高鳴って、一瞬後、それは音も大きさも増し、連続して胸を押した。
 ―――トクリ、トクリ、トクリ、…。
 痛いほど、感じた。痛いほど、大きくて。伏せられていた顔が、ゆっくりと上げられる。
 ―――トクリ、トクリ、トクリ、トクリ、…。
 きつく結ばれていた唇が緩む。そんな自分と対照に、緩みきった口元の二人を、見て。
「……ふり、はた…?」
 辛うじて細く開かれた唇から出た声は、震えて、掠れた。小さくて、外の颶風(かぜ)に負けてしまいそうなほど、弱く朽ちる。
 それでも二人の耳にはちゃんと届いたようだった。運良く聞こえたか、もしくは、問われることを予期していたのかもしれない。
「あぁ、ごめんなぁ。あぁ言っといて何やけど、ワシ等は君の名前、知っとったんや。君の苗字が、雨が降るの「降」に旗本の「旗」で降旗って言うんも、「光」る「樹」ぃで光樹って書くんも、知っとった」
 かっこえぇ名前やなぁ、と、眼鏡の男は言って空々(カラカラ)と笑う。凩に似て、乾いた笑み。なのにどうしてか薄ら寒いと思いながらも。
「征が、付けてくれたのは…、光樹って、名前だけ…」
 辿々しく無意識に発したそれが、きちんと一廉(ひとかど)の言葉になったのは奇跡だった。
「へぇ、そうなのか。変だな」
 けれどその奇跡の傑作も。
「彼は、君の名前も苗字も、知っていたはずなのにね」
 たった一度の反論で、(ひび)割れる―――粉々に砕け散る。
「――――…」
 あれだけ高鳴っていた心臓が、嘘の、よう。
(…何を言うのだろう。何を、笑うのだろう…?)
 瞬くことを忘れた目は、涸びて痛い。声を呑んだ喉も、ただ脈打つ心臓さえ痛かった。そして悲鳴の産声を上げた心に。
(――…征)
 彼の名を呼ぶ。


 あの時も、高層マンションの最上階だったと記憶している。遠いはずの月が近く、煌々と彼を責めるように白く照らして、目を眇めたから。
 疎ましげに窓に背を向ける形で寝返りを打ち、頭から布団を被る。目を瞑って、胸の内にあるに意識を向けた。
 あるようでなく、ないようであるを、どう発散していいのか彼には分からなかった。傍観できるものならそうした。耐えられるものならそうしただろう。最悪、諦観でだってよかったのだ。
『ッ…は、ぁ…!』
 できなかったから全てを痛みに仮託した。空白を埋めるように、何か紛らわせるために、布団に潜り、痛みを次から次へと継ぎ足した。自分で自分を、傷付けることで。
『ん…っ…』
 征の存在に救われた部分もあった。が、それ以上に、彼にとって征はだった。
『―――君の名前は、光樹だ』
 名は人の存在の基盤で、他と区別するための記号(ツール)で、なくては色々と不便で…。だから征が自分に名を与えたのだと分かっている。頭では、心でも、分かっていたのに。
『…光樹…―――光樹!!
 目覚めてから七日目。自傷がとうとう、征に見抜かれてしまった。
『光樹…ッ、何故こんな…!!
 逃げを打つ躰は許されず、拒絶の声にも耳を貸さずに、力任せに袖をたくし上げられた。割れてボロボロの爪から、掻き毟って蚯蚓腫れに覆われた肌から、隙間なく刻まれた夥しい擦過傷から、生々しく染みる血が、伝って征の手を汚した。
 眩暈がした。征の肌の白さと自分の血の紅さの対比(コントラスト)に。そして苛々した。言葉の合間合間に挟まれる、「光樹」と言う、その、名前に。
『―――それは誰だ!!
 だから彼はそう叫んでいた。征の声を、その一言が一閃して。
『…こう、き…?』
 征の戸惑いの声を無視して、胸の内に沸き立つ怒りのままに声を上げた。上気した頬に睨め付ける双眸、握り締められた手は震えて、爪が掌を傷付けたのか、新たな血がポタポタと床に滴った。
『光樹光樹光樹! バカのひとつ覚えみたいにそればっか!』
『光樹…、手が…』
『俺が昔のことを何か思い出そうとする度、その名前が邪魔するんだ! 本当の俺が遠くなって、光樹としての俺しか残らない!』
『光樹…』
『俺は俺を思い出したいだけなのに! なのに、光樹、ばっかりが…!』
『…こうき…』
 大粒の雫が重力に逆らえずに頬を伝って落ちていく。ぽろぽろと、ぽろぽろと。血に混じって、血を溶かして、床に赤い海を作る。
『―――俺は、誰なんだよ…!』
 涙に(そぼ)つ哭き声に、征は暫し何も返さず、けれど、ゆるりと一つ瞬いた後。
『……君は、光樹だよ…』
 震える声でそう言った。血を吐くような、声だった。


 …そうだ。そうだった。今まで思い出しもしなかった白々とした望月の夜の記憶に、光樹は唇を小さく戦慄かせた。噛み締めて、思う。―――なんだ、そうだったのかと。
(光樹と名付けられた。降旗光樹と、呼ばれた)
 その時、自己の根幹とも言うべき胸の内が揺らいだのは、覚えなどないはずのそれがあまりに耳に馴染んだからだ。不自然なほど自然と心に浸透(なじ)み、困惑する気持ちとは裏腹に、躰が勝手にその名前を受け入れる。…あぁ、そうだ。誰かが自分をそう呼んだ。もう取り戻せない(せかい)で、優しく柔らかく、沢山の愛情とともに。時に哀切に塗れながら。
(それを覚えている。(きおく)でなく(ここ)が、どうしようもなく)
 だからそれ以外の名前なんてきっとない。根拠なんてなくても、真実が、どうあれ。
(俺は、降旗光樹、なんだろう)
 だが、何故征は知っていた? そして。
「……アンタ達は、誰だ」
 この二人は、何故。すっと眇めた目で静かに見れば、一瞬、互いを見交わした彼等は。
「…俺は木吉鉄平、こいつは今吉翔一」
「覚えんでえぇよ。大切なんはワシ等の名前より、あいつのことや」
 やっと名を明かしたかと思うと、変なことを言う。ひくりと、光樹は眉間に皺寄せた。
「あいつ…?」
「しかし、この場所を見て、名前を明かしても記憶が戻らないとなると…」
「…ま、しゃーないわな」
「おい、あいつって…――!」
 言葉が終わる前、問いかけの途中で、ガッと腕を掴まれた。体格に似合わぬ素早さで両側を二人に挟まれ、冷えきった風と雨が暴れる外に連れ出される。離せと本気で藻掻いてもびくともしない。吸血鬼の膂力は人間のそれの比ではないと、いつか征は教えてくれた。なら、彼等は―――彼等も。
「吸血鬼か…!」
 睨めば二人は飄々とした顔のまま、その癖、どこか困ったように笑った。
「覚えのない君には悪いけど、俺達ものんびりしていられないんだ」
「もう時間が尽きかけてるさかい、ショック療法でいくで」
 相変わらず何を言っているのか分からない。だが反論も反抗も全て流されて、どうしようもないのかと焦る光樹の耳が、雨音に混じる何かを敏感に拾った。
 それが、嫌に気になった。心臓がぞくりとして、首筋がざわざわする。何だろうと、暴れるのも止めて感覚を研ぎ澄ませた。目を凝らす。耳を澄ます。そう、すれば。
(…これ、は…)
 徐々に増す、暴れる風の合間合間に聞こえる音。何より、鼻孔を擽る、臭い。
(まさか…)
 息が早くなる。喘ぐ。嫌な汗が流れて、手が、震えた。耳鳴りがする。
(…嫌だ、…――駄目だ…!)
 行きたくない。見たくない。駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ。それは、これは。
「―――いやだ…ッ」
 躰が、感覚が、頭が、心が、光樹を構成する何もかもが、それを拒絶していた。全てで嫌悪して、恐怖していた。何故そうなるのかも分からないまま、なのにその拒絶を、嫌悪を、恐怖を、光樹は正当なものだと思った。心底、真っ当なものだと、思った。
 だから腕を振り、足を突っ張らせてそこに踏み留まろうとした。さっきの襤褸屋に戻れなくてもいい、だがせめてその場に居続けようと、あらん限りの力で抗った。だが二人はそんな光樹の抵抗など、その心情なぞ、気にも掛けなかった。
「それでも、思い出してもらわなきゃいけないんだよ」
「あいつが待っとるからなぁ」
 思考も言葉も、もう用をなさなかった。空白が頭を占めて、躰を嬲る寒さ以上の氷点下の恐怖に、ガチガチと歯が鳴る。引き攣った頬を細い涙がつと伝う。喉奥が塩辛い。指先から、足先から、すっと感覚がなくなっていく。早鐘を打つ心臓は、いつ止まってもおかしくはない。寧ろ、今止まってしまった方が幸せだとさえ、思った。
 でもそれは、叶わなくて。
「―――――――――――――――」
 光樹は、見てしまった。その瞬間、腹の底から迸った絶叫は、世界を喧しく満たす水と水が、水と岩とがぶつかり合う音に殺された。
 三人が立つ崖下には、仄暗い海原が広がっていた。


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