第十話 それぞれの朝

[ Each And All In The Morning ]


 蒼に侵食され、残り僅かな朝焼けが烟る空。窓の端に鎮座する陽光は辛うじて絨毯(カーペット)を淡く照らすだけで、客間(ラウンジ)全体は薄暗い。その中で征は言う。緞帳(カーテン)の影に佇み、窓の外をじっと見て、独り言のようにひっそりと。―――生きていてほしかったのだと。
「今回の件は、過去、僕に課された一件の後始末だった。それは僕達一族の秘事に関わる。…だから、お前達に何も言うわけにはいかなかった」
 いつ出発で、いつ終わるのかも。当然、連れて行くことも、途中で連絡を取ることもできなかった。征が逃げ続けていたのは、全てを秘密裏に遂行せねばならなかったからだ。…そしていつかは諦めて館に帰るものと楽観していたのに。
「まさか、百年近くも追いかけっこをすることになるとはね」
 苦笑して零す。それは、哀しいことに、征の望みと真逆の現在(みらい)だった。何より。
「…お前達が、ハンターと手を組むとは」
 やんわりと笑みに憂いが混じる。見て取って、テツヤが半ばまで目を伏せた。
 始祖が棲む城とその周辺を含む広闊な敷地、通称眷族の聖地(ヴァルハラ)は、一族が永きに亘り守護していた。人には切り立つ山に見えるよう術が施されており、もし近付いても入ることは適わない。故に、そこは吸血鬼にとって世界で最も安全な場所とされ、過去に人間の侵入を許したことはない。しかしそうして安全を期すのは、逆に言えば、外に危険があるからだ。その吸血鬼の最大の危険(てき)が、彼等を狩る人間、ヴァンパイアハンターだった。
「ハンターにはこれまで何人もの吸血鬼が殺されている。教えたはずだよ。吸血鬼(ぼくたち)人間(ひと)よりも圧倒的に強靭だが不死ではない。そしてその事実がある限り、無敵ではないと」
 なのに何故、と問う征に、テツヤが静かに答える。
「山の獲物のことを知りたければは山立(またぎ)に聞けばいい。海なら漁師に。だから、吸血鬼のことはヴァンパイアハンターにと…。僕等は外界(そと)の吸血鬼を知りません。ですから闇雲に探すよりも、そうした方が効率がいいと考えたんです」
「それでお前達の血が穢されてもか」
 征が苦く吐き捨てる。血は吸血鬼の生命の根源と言っても過言ではない。それが穢された。普通なら有り得ないことだ。その発想も、その決断も。何故なら。
「―――それで、寿命(いのち)を縮めても」
「…テツヤ」
 いつもは穏やかな水宝玉(アクアマリン)の瞳が、今は太陽に照らされた海面のように燦めいて征を見る。そのを自覚してか、テツヤは恥じ入るようにそっと瞼を下ろした。それだけのことで、テツヤの存在は部屋の日陰に交じって融ける。
「分かっていました、それが命を捨てるほどの愚行だったと…。でも僕等にとって、君が何も言わずいなくなったことは大きな衝撃でした。僕は…、僕等は、何をしても赤司君の傍に辿り着きたかった。…只管君を待ち続ける日々は、まるで地獄でしたよ」
 当然、迷いはあった。そこにいることが征の「約束(ねがい)」だと知っていてあの館を出るのに十年掛けたように、ハンターを頼るまでにテツヤ達は九十年近くも掛けた。しかし世間知らずな彼等ではどうしても限界があった。征の行方は(よう)として知れなかった。だから。
「…結果、君を見付けた。少々、痛い目と怖い目に遇いましたが」
「……自業自得だよ」
 外方(そっぽ)を向いてどことなく拗ねたように言う征を、テツヤは優しく目を細めて見た。
「えぇ、そうですね」
 言って、服の上から胸に手を当てる。とくとくと規則正しく動く心臓(そこ)。既に穢れた血は一掃され、躰を巡る全ての血は征のものだ。…今なら分かる。それまで掠りもしなかった征の居所の情報が運良く手に入った理由(わけ)も、扉の仕掛け(ギミック)も、敷地内が征の血で汚されていたのも。全て―――全て。
(僕等を、救うためですね)
 やっぱり君は優しい。思って、けれどそれを言葉にしない。ただ。
「…もう二度と、僕にお前達を殺させるな」
 その小さな、朝焼けに解ける願いの声にしっかと深く頷いて。
「大丈夫です」
 誓う。そして隔たっていた距離を詰め、背を少し伸ばしたテツヤは。
「今度は、僕が〈約束〉します」
 征の額に口付ける。優しく柔らかく、ただ、無垢に。征は一瞬、テツヤのその行動に虚を突かれたように目を見開いた。そしてその一瞬後。
「大きくなったね、テツヤ」
 ふわりと、とても嬉しそうに笑うから。テツヤはそれを見て、俯いて、くしゃりと笑った。―――狡いなぁ、と、思った。


 何の夢を、見ているのだろう。
 征に許しをもらって入り込んだ彼の寝室。緞帳(カーテン)は征が開けたのだろう、次第に明るさを増す朝陽が窓から侵入し、枕元をしとどに濡らす。それは計算されたように彼の顔を照らしていて、けれど彼が起きる様子は微塵もない。
「……」
 間近で見るのは二度目だ。だが一度目は混乱していて、彼を彼として認識したのは自分達以外の色だったからだ。まじまじと見る余裕なんてなかった。だから今、初めて知る。
「子どもみたいな顔」
「お前が言うな」
「ってぇ!」
 バシッと頭を容赦なく叩かれて、涙目になって振り返る。いつの間にか、大輝が直ぐ後ろに立っていた。
「青峰っち、最近俺の扱い雑過ぎっスよ!」
「最近?」
「……ずっとでした」
 ぶすくれて、ふいと視線を大輝から引き剥がす。そして今度はベッドに座り、また彼を見た。飴色(キャラメル)の柔らかな髪に、目はどんな色をしていただろうかと思い出そうとするも、これが中々に難しい。それより、別のことを思い出した。
「…この人が、あの赤司っちに啖呵切ったんスよね」
「あいつよりちっちぇのにな」
「それ関係ないでしょ」
 でも、―――驚いた。
『なぁ言葉にしろよ、伝えろよ。黙ってたって、それがお前にとってその人達のためだって思ってても、伝わんなきゃ傷付けるだけで意味ねぇだろ!!
 …思っていたことだ。いつも征は全てを自分の中で完結してしまうから、もっと言葉にしてほしいと。でもそれを口にするのは怖かった。言ってしまって、もし、征に嫌われたら…――想像するだけでも、恐ろしかった。
「…悔しい、なぁ…」
 それでも言えばよかったのかもしれない。そう思って自分の意気地なさを恨む気持ちと、やはり自分では駄目で、彼だから征を説き伏せることができたのだと思う気持ちが入り混じる。どちらにしても、結局言わなくて済んだことにホッとしている自分が、嫌だった。
「次」
 ぐしゃり。突然、乱暴な手付きで髪を乱されて驚く。見上げようとしても頭を押し付ける手が、それを許してくれない。なのに、不思議と抗おうとは思わなくて。
「次があんだろ」
 ぶっきら棒な手付きと言い方のくせに。
「……うん」
 酷く無性に、安心する。
 ありがとうは朝の空気に溶け消えて、けれどきっと伝わった。手を離す間際にまた優しく頭を撫でた手が、その証拠。不器用な人だと、小さく笑う。
「つーかいつまで寝てんだよ、こいつ」
「赤司っちによると、八時ぴったりに起きるらしいっスよ」
 言って今度こそ振り返れば、本当かよと、大輝は眉間に皺を寄せた。
「八時起床とか優雅だな」
「俺達、赤司っちに教育されて、もう完全に七時起床の癖、抜けないっスもんね」 
 それは躰に染み込んだ習慣で、今更別の時間に起きることもできやしない。困ったことだと苦笑して、朝陽に頬を擽られている彼を見る。相変わらず、起きる気配は頓とない。
「暑くねぇのか、黄瀬」
 そんな陽だまりにいて、と大輝から気遣う言葉が無造作に投げかけられるも。
「昼の陽射しよりは、マシっスよ」
 だから大丈夫とそう言って、まだそこを動かない。徐々に強くなる陽光が首筋を焼く。それでも遠い。もう少し。あとちょっと。それを繰り返し、待ち続けてやっと。
「ん…」
 秒針と長針が、文字盤の0を跨ぐ。薄らと開いていく瞼。覗く双瞳(ひとみ)の色は、―――あぁ。
狼の目(アンバー)だったのか)
 気付いて、また、涼太は笑った。
「おはー」
「…うぉっ!」
 それが自分の色に一番近いのだと知って、嫌じゃないと思った自分が、可笑しかった。


 開口一番、出てきたのは文句や愚痴や叱責の声ではなく、細やかな溜息だった。こちらは既に最低限の掃除と用意を済ませてきたと言うのに。
「まだ寝ているのか、紫原」
 苦々しく呼びかけても、返る声はない。頭から毛布(ブランケット)を被ったその大きな白の塊が動くこともなく、氷山のように泰然としてそこにある。また無意識に溜息が零れ出た。
「まったくお前は…」
 呟き、くるりと躰を反転させると、その丸まった巨体を背凭れにしてベッドの端に腰掛ける。ベッドの方は兎も角、背凭れの感触は当然硬い。だがそれを補う子どものように高い体温がじわりと肌に伝わって、近頃(とみ)に涼しさと寒さの間を揺れ動く秋の朝には有難かった。腕を組んで天井を見上げる。数瞬置いて、静かにそっと、私語(ささめ)いた。
「…お前の言った通りだったのだよ」
 嬉しいままで終わらない。征は優しくて、狡いと。―――全くその通りだった。
「一体どうなるかと思ったが…。…結局、また救われた」
 その言い様には喜色よりも哀色が霞み、秋空の雲の如くに薄く漂う。悔いているわけではない。厭う謂れも、ないのだけど。
『―――勘違いするな』
 記憶の中、秋の陽射しの中で厳しい声が耳を打つ。
『これは光樹の温情だ。僕じゃない。それを忘れるな。そして弁えろ。お前達の命は僕のものだ。その僕のものを、お前達が勝手に傷付けることは許さない』
 その厳しさの底にあるのは哀しみだ。翳る双眸に潜むのも、吐き捨てる声に(くら)むのも。
『…今度こそそれが守れるなら、傍にいろ』
 最後の弱い声は、―――誰の、所為だ。
(息が詰まりそうだ。それは罪悪感か、敗北感か。どちらにしろ、そのお陰で)
 俺はまだ、お前に許しを請えないでいる。
(ハンターと手を組むことを提案したのは、俺なのだよ、赤司…)
 館の中でもできる限りのことはした。パソコンの技術で情報を集めたりもした。だがそれでは足りなくて外に出た。外に出ても、まだ足りなかった。
(まだ、お前には届かなかった)
 それで、だから――…それが、間違いだったのか。
「何が、正解だったのだろうな…」
 問うことの無意味さを知っている。打てば響く返答を寄越す人間でないとも分かっていた。それでも期待するように零れた独語(ひとりごと)に自嘲して、真太郎は腰を上げた。もう骨休めは十分だと、僅かな休息に終止符を打つ。そうして一歩を踏み出したところで。
「みんな、生きてることでしょ」
 くぐもった返答(こえ)を聞いた。さっと肩越しに振り返っても部屋(そこ)には沈黙が満ちるだけで、時を置き去りにしたように(シン)として動かない。白い塊も、同様に。それを見て、笑い、真太郎は今度こそ歩みを進めた。
 その言葉だけで十分だと、思った。


 朝の気配に、意識が矢庭に浮上する。見ていたはずの夢は、魚が岩陰にするりと隠れるのと同じくらい、上手く意識の底に潜っていく。今ならまだ、手を伸ばせば届くだろうか。届いてどうするのだろう。それで何かが取り戻せるのか。…分からない。取り戻したいのかさえ、俺には。それでも何か…――。考え考え、ゆるゆると目を開けていく、と。
「おはー」
「…うぉっ!」
 視界いっぱいに広がる檸檬色に驚いて、眠気も夢もその余韻すら、跡形もなく霧散する。涼太が枕元に座り、光樹の顔を至近距離で覗き込んでいた。
「えっ、え…!?
 状況を飲み込めず固まる光樹にへらりと顔を緩ませた涼太は、俄に躰を浮かせて距離をとった。離れたことで海碧(コバルトブルー)の髪が光樹の視野に映り込む。そこでやっと、涼太だけでなく、大輝もいるのだと知れた。しかし何故、二人がここにいるのか。
「ええと、……俺に、何か…?」
 他に聞きようもなく、躰を起こしてそう問いかけた。その際小首を傾げて振盪した世界で、涼太が笑みを深めて蜂蜜色の髪を揺らし、双眸を細める。窓から微かに差す朝陽が、狡くそれを照らして綺麗。そう感歎して魅入る光樹に、あのね、と一言、言い置いて。
「まず、ごめんなさい」
 涼太は言った。え?、と思わぬ謝辞に瞠若した光樹を見詰めて、更に。
「俺、昨日、アンタに色々言っちゃったでしょ? アンタが悪いわけじゃないって、ほんとはちゃんと分かってたけど…。抑えらんなくて、いっぱい、ヤなこと言った」
 だからだから、ごめんねと、また言って、涼太は目を半ばまでそろりと伏せた。
「それをちゃんと謝りたかった。それが、一つ」
「…ひとつ?」
「そ。もう一つは、ありがとうって言いたかったんス」
 顔を上げて、今度はへにゃりと甘く笑う。それは照れたようで、困ったようで、でも。
「赤司っちが一緒にいてもいいって、許してくれた。俺達も、ここにいていいって」
 どうしたって滲む嬉しさを隠し切れないでいた。それは稚い子どものようで、ふわふわと綿菓子みたいな笑顔だった。思わず、光樹も表情を和らげて。
「…そっか…。そっか、…――よかった」
 ほっとしたように言って、ほんの少し泣きそうに、笑った。しかし、それも。
「それもこれもアンタの、…ううん、光樹っちの、お陰っス」
 その言葉に、失せる。
「っ、俺は、別に…」
「…お前の言葉(フォロー)がなかったら、俺達はあのまま有無を言わさず帰されただろうぜ」
 赤司(あいつ)はそういう奴だと、それまで黙って成り行きを見守っていた大輝が苦く笑んだまま言葉を足し、光樹の謙遜や自虐の言葉を先んじて制す。
 光樹は困ったように大輝を見て、涼太を見た。二人共がそれを信じていることは明白で、光樹自身、征には確かにそういうところがあると認めないわけにはいかなかった。
 だが、例えそれが正しくても…――。
「…――俺の方こそ、ごめんな」
 それは、吐息に混ぜた声になった。掠れて小さく、まして伝える気もない、独り言のように自己満足の。しかし傍らにいた涼太が、それに気付いてしまった。
「え…?」
 問い返すように、声を出す。表情にも窺う様子は現れたはずで、なのに、光樹はただ笑ってみせただけだった。困ったように、ほっとしたように、それでいて、泣きそうに。
 途端、独り言を聞いてしまった居心地の悪さより、切なさが胸を締め上げた。何故だろうと、涼太がその理由に思い至るより先に。
「おい、起きたのなら朝食の用意を手伝うのだよ」
 寝室の扉が開かれて声が掛かる。見れば、声の主は真太郎で。
「緑間君だけじゃ、心許ないですから」
 その後ろからテツヤが顔を覗かせた。二人の登場に、涼太は思わずほっと息を吐いた。
「わぁったよ。おい、黄瀬」
「あ、はいっス」
 大輝に促され、涼太は上体を起こしただけの格好でいた光樹の手を引いた。光樹はすっかり先ほどの表情(かお)を捨てて、大人しく涼太に手を引かれるままベッドを下りる。寝室を出た五人は食堂(ダイニング)を目指した。
「しっかし、料理とか久々…、つかやったことねぇけど、こいつがいるから何とかなるか」
「…いや、俺は家事やっちゃ駄目って、征に言われてるから…」
「あぁ? なんだそれ。甘やかされてんのか」
「そのことについては他人(ひと)のこと言えませんよ、青峰君」
「基本、赤司っちに丸投げっスからね、俺達…。って、あれ? そう言や赤司っちは?」
「…狸の所なのだよ」
 涼太の問いに応えた真太郎は、素気なく肩を竦めた。その口元は、仄かに綻んでいた。


 窓から忍び込む朝陽を電気(あかり)代わりに、家具も寝具も真白の部屋へと足を踏み入れる。他のベッドが平らに、そして綺麗に整えられている中、一つだけ立体を保っていた。征は呆れた目でそれを見て、近付き、手加減なしに揺さぶる。
「起きろ、敦。疾うに七時は――…」
 と言いかけたところで素早く毛布(ブランケット)の中に引き入れられ、ぎゅうと痛いほど抱き締められた。あまりにも予想通りのその行動に、征の顰め面が剥がれ、窃笑が浮かぶ。以前の仕返しなのだろうなと思えば、尚更だ。だが甘やかしてはいけないと窘めようとした時。
「おはよ、赤ちん―――お帰りなさい」
 敦がそう、口にした。驚いて、言葉が数瞬、宙に浮く。
「…ここは、(いえ)じゃないよ」
「関係ないよ。だって俺達の帰る場所は、赤ちんがいる所だから」
 だからそれでいいの、と、頑是ない幼子のように言い張る。…まったく。躰は自分よりもずっと大きくなったと言うのに。
「いつまでも子ども気分でいられると、困るんだけどね、敦」
「嫌?」
 そう聞き返されて、苦笑が漏れた。こういう時、頭のいい子だと改めて思う。
「…そうだな、嫌じゃないな」
 じゃあ、と一層強く抱き付いて願うように擦り寄る敦に、しょうがないなと嘯いて。
「ただいま」
 囁きほどの声で言い、そっと背中に手を伸ばして抱き返す。そうすれば、満足そうに喉を鳴らす気配と、ふわりと上がる頬の熱。そのままで少し、甘やかすことに――…。
  ―――ガチャンッ
「………」
「……何、今の音」
「敦、行くぞ」
 きょとんとする敦とは違い、征は全てを悟った顔で敦の拘束を解くと、するりとベッドを抜け出した。えー、と敦は大層不満気な声を漏らしたが、しかし、そのまま征のいないベッドにしがみついていても仕方ないと渋々這い出て征の後を追い、廊下に出る。
「今の、絶対、らぶらぶする流れだと思ったのにー」
「また今度だ」
「うー…。まぁ、でも」
 いいか、と、敦は思った。また今度。征が何気なく言ったそれは、今までを振り返れば重く深い意味がある。だからそれは、いいのだけど。
「…ねぇ、赤ちん」
「ん?」
「まだ故国(ヴァルハラ)に帰らないのは…、ううん、帰れないのは、あの人のためなんだね」
 疑問形ですらない敦の言に、征は足を止め、振り返って敦を仰ぎ見る。睨むでもなくただ真っ直ぐな、それでも幾許かの威圧感を覚えずにはいられない征の視線を、深い灰簾石(タンザナイト)の瞳で受け止めた敦は、ことり、と首を傾けて。
「理由、聞いてもいい?」
 踏み込む。征が敢えて口を閉ざしていた領域に、無遠慮なほど無粋なほど、躊躇いもなく惑わずに。征は暫しの間口を閉ざして、けれど遂に、その桜唇を割り裂いて呟いた。
「………生きていてほしいんだよ」
 そう、独り言のように、ひっそりと。


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