エピソードⅤ 「てぅべすく」

[ "Te iubesc." ]


 ―――それは、呪文のようだった。
「ほら、もう一回」
 紅花(べに)も塗っていないはずの、なのに赤い紅い桜唇から紡がれる、その言葉。
「てぇ、べぅ、くっ」
「んー、まだちゃんと言えないか」
「仕方ないよ、まだ赤ん坊だからさ」
 そんな声を、覚えている。朗らかで、温かくて、蝋燭の灯のような。
「てぅ、べす、く?」
「惜しいっ」
「惜しいのかなぁ」
「だって、ちょっと音は似ているわ。うふ、さすが我が子、賢いわぁ」
「僕の子だってことも、忘れないで」
「そうね。似ているのは目かしら?」
「…ま、頭の出来は君に譲るさ」
「やだ、本気にしないで。それに私、貴方の優しい目が大好きよ」
「勿論、僕も」
「んー…、うぁあ」
「あら、妬いたの?」
「…だから、赤ん坊だって」
「赤ん坊と言ったって、立派な男の子だもの。お母さんとられると思ったのよね? 大丈夫、お母さんも貴方を愛してるわ」
「…あれ、おかしいな、好意の大きさが全然違うぞ」
「気の所為じゃなくて?」
 きゃらきゃらと(わら)う声がする。困ったように、まったく、と呟く声がする。その合間合間に優しくあやされて、その体温に、その揺れに、ゆったりと微睡んでいく。
 そしてそろりと睡魔が意識を掠め取ろうとした時。
「それで、さっきからこの子はなんて言おうとしているんだっけ」
「…んー。頭の出来は、この子似かしら」
「こらこら」
 そっとそっと、意識の端に聞いたのだ。
「ねぇ、貴方」
「ん?」
「て、ゆべすく、よ――…」
 覚えている。
 意味は分からなかった。
 ただ、そんな夜があったことを、覚えていた。


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