エピソードⅢ 雨の日の俯瞰風景

[ A Bird's Eye View For A Rainy Day ]


 ―――ポツリ
 微かな衝撃に薄ぼんやりと瞼を開ければ、一粒の雫が目に入ってきた。
 染みる。滲む。
 それでも見上げた先は、機嫌の悪そうな灰鼠(はいねず)色に烟る空。そこから次々と落下する雨。肌に当たって砕け散る。全身を濡らして、全身を穿つように。
 …冷たい。寒い。
 考えたその瞬間から、それは端から消えていく。今何を思っただろう。…分からない。
 ―――ポツリ
 既に感覚を失った四肢に侵食し、熱を奪うほどの氷雨が無情にも肌を打つ。だが躰はもう熱を生み出すことを諦めていた。生きることを諦めていた。諦めろと言うように、動かなくなっていく。
(……死ぬのか…)
 その言葉は、雨粒が地に落ちるのと同じような自然さで脳裏に浮かび、不思議と不自然なほど、怖くはなかった。やっとか、という思いさえあった。
(…そうだ、自分はあまりにも死に近すぎた)
 常に死と隣合わせで生きてきて、今まで死ななかったのが奇跡のようなもので、…だから。
(やっと、やっと…、今度こそ…――)
 ゆっくりと目を閉じる。それはまるで祈るよう。後は時間が解決してくれると、委ねるように徐に力を抜いていく。
 恐ろしいとは思わない。安寧も感じなかったが、嫌だとも思わなかった。
 瞼裏の黒が圧しかかる。思考を黒に塗り潰す。暗い、昏い、泥沼のように。
(続いていないような人生を生きるなら、いっそ終わってしまった方がいい)
 黒に塗り替えられた世界に思う。疲れていた。壊れていた。自分は自分の人生が、大嫌いだった。
(いつか本で見た御伽話、自分は物語の主人公になることは決してない。きっと描写もされない端役の一人で、もしかしたらそれすらも許されない、空や太陽や草や蝶といったものが精々で、例えば影のようなありそうでないものとしてでしか、存在を許されないのだとしたら、)
 ―――ポツリ

 黒に混じり混濁した意識から我に返る。驚いたように目を開ける。世界が灰色に戻る。雨が、目に入った。
 同じだ。同じことだ。同じことの繰り返し。少し前の、人生(いままで)のように。
(朝起きて、昼を過ごし、夜を迎え、闇に落ちる)
 それが全てだった日常。懐かしいか。愛おしいか。取り戻したいか。―――まったく!
(戦争なんて後付けだ。灰色の空は赤に、赤は黒く染まってまた灰になっただけ。理由にもならない。戦争の前後で変わったことなんて、空の色ほどの差もありはしない)
 死にやすくなっただけ。それまで臆病でできなかったことが、あと一歩のところにあるだけだ。
 だから、だから。
 ―――ポツリ
 何を、泣くことがある。
 ―――ポツリ
 何を、雨に流すことがある。
 ―――ポツリ
 何も何も、ないくせに。
 ―――ポツリ
 自分にはもう、何もな――…。
 ―――ポツ―…カサリ
「……見付けた」
 雨の音が遮られて、思考の中の自分が応えたのではない、そもそも自分のものでない声が聞こえた。
 なんだ? 誰、だ?
「ねぇ、君」
 呼びかけに、薄く目を開く。
 空を見る。
 目を瞬く。
 何か、あぁ。
 空の灰に、炎のような赤が、映える。
 ―――ポツ、リ 
「君を、虹に還してあげようか」
 最後の一滴が落ちて、もう、雨は届かない。


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