第五話 静寂に雨垂れ

[ Silent Raindrop Fell ] 


 カタカタ…、とそれぞれのキーが一律の速さで無機質且つ無個性な音を奏でる。朝からずっと続いていたそれが止まったのは、居間(リビング)の時計が昼の十二時を知らせる鐘を鳴らした時だった。それと同時に、音と指とが空中でぴたりと静止し、かと思えば、定規をあてがっているのではと思われるほど真っ直ぐ伸びていた背中が、椅子の背凭れに投げ出されてそろりと伸ばされる。
 事務作業(デスクワーク)は一旦集中を切らすとあちこちが痛くてかなわないな、と伸びをした征は一息つき、すっかり冷めてしまった珈琲を一口飲むと、苦味の増したそれに見切りをつけて後は捨ててしまおうと立ち上がる。その途中、書斎机(デスク)から少し離れた所に置かれた寝椅子(カウチ)に足を向け、背凭れ越しに覗き込む。光樹が丸まって本を読んでいた。
「光樹、お昼ご飯を作るから、おいで」
 声を掛ければ、うん、と素直に本を閉じて光樹は笑う。微笑み返し、二人は連れ立って厨房(キッチン)のある階下を目指した。
 今日は何を作ろうかと呟けば、クリームパスタが食べたいなと返される。じゃあ材料はあれにしようか、これにしようか、と相談しながら、征は邪気(あどけ)無く笑う光樹をそっと気遣うように見ていた。
『俺はッ、誰のものでもない…!!
 泣き叫び、泣き疲れて眠ったあの夜。心配で眠れず、朝八時の訪れが少し怖かった。だが起きてみれば、光樹は何も覚えてやしなかった。
 いつものように起きて、いつものように「おはよう」と笑った。
 泣き腫らした目元とその笑みは、どうしたって釣り合うはずがない。征は驚くよりも更に心を乱し、当然、安心などできなかった。
 あれだけ嫌だと言ったこの部屋で過ごすことも、征が鎌をかけるように「ここが光樹と僕の部屋だよ」と言えば、「うわ、広いなぁ」と目を輝かせて言っただけ。光樹が忘れたふりをしているとも思えない。
 だから余計、不安になる。光樹の心が歪みを増している気がして、征は恐ろしかった。
「…征?」
「ん? …あぁ、ごめん。ちょっと考えごとをね」
 会話を不自然に途切れさせたのだろう、階段の途中で留めるように腕に手を置かれ立ち止まった征は、光樹の訝しげな表情と呼びかけを笑って流し、安心させるように光樹の髪を柔らかく梳いた。光樹は黙ってそれを享受する。猫が毛並みを優しく撫でられた時のように、ふわりと気持ちよさげに瞼が半ばまで閉じられた。
(…心配は、いらない)
 征はそんな光樹の様子に、自分自身に言い聞かす。何も、微かさえ、不安に思うことはない。ただ少し、あの夜は光樹の過去に触れてしまっただけだ。そしてそれに触れるべきでないと分かった以上、これまでと同じ日常を繰り返せばいい。
 誰とも接触を持たず持たせず、籠の中の鳥のように、大事に光樹を守っていけばいい。
「光樹」
「ん…?」
「…ううん、なんでもない。さぁ行こう」
「? …うん」
 それが、例え、光樹が望んだものでなくても。


 食後の珈琲を飲む頃になって、風が窓を叩きつけるように強くなった。光樹はぴくりと肩を揺らすと、首を巡らせて背後の窓を見る。樹々が大きく揺れ、空は薄墨色に変わってしまっていた。そう言えば報道番組(ニュース)で嵐が来ると言っていただろうか、と朝の天気予報を思い出し、ならば洗濯物を取り込まなければと腰を上げかけた時、丁度征が食堂(ダイニング)に入ってきた。
「あ、征。外が…」
「うん、どうやら嵐が来るようだね」
「洗濯物」
「取り入れたよ。天候が心配だったから、今日は少し洗濯の量も減らしてたし」
「さっすがぁ」
「でしょ」
 そんな微笑ましいやり取りの後、でも、と征は考え込むような様子を見せた。
「今日は金曜日だけど、街に行く?」
 問われて、そうか今日はもう金曜日なのかと、光樹は都会から離れて一層日付の感覚が希薄になっている自分に呆れながらも、別段気にした風はなく。
「俺は大丈夫。征はどうする?」
「僕もいらないかな。嵐の中、態々濡れて行くほど欲しくもないし」
 その言葉に、光樹は喉を鳴らして笑った。気付いた征が「なぁに?」と聞く。笑みを噛み殺しかねて「くく」と肩を揺すらせながら、光樹は言った。
「なんだか、俺達って吸血鬼らしくないなぁってさ」
 世の中の吸血鬼愛好家(ファン)が怒り出しそうなくらい、二人は真っ当な人間のように暮らしていた。血がなければ物足りないが、生きていけないほどじゃないし、金は稼ぐし家は持つ。勿論戸籍なんかは偽造で交友関係はないけれど、それでも傍から見ればそこらの人と変わりない。
 吸血鬼なのに、変なの、変なの、ときゃっきゃと笑う光樹に、征の細められた銀朱(ヴァーミリオン)の双眸が、優しく柔らかく、それでいて少量の冷たさを奥底に秘めて、光樹にひそりと向けられた。そして、蕭然と説くように言う。
「それでも僕等は吸血鬼だし、人とは相容れない存在(もの)なんだよ」
 外に吹く風よりも小さく静かな声は、けれどその時、光樹にはどんな音にも勝って聞こえた。笑みを収め、言葉を噛んで、征を見る。
(…華奢な征。幼い、征)
 どれだけ大人顔負けに弁が立ったって、雰囲気が大人びていても、どうしたって大人に見えはしない。未だ少年の域を出ない征の躰は、なのに、もうそこで成長を止めてしまった。それでも自分より、そこらのどんな大人よりも、遥かに長く生きてきた。そんな彼の言葉はいつだって重い。正に征は光樹にとって人生の先輩であり、吸血鬼の先達だった。
(そんな彼は今までに、何を、どれだけ見てきただろう)
 ふと思う。雨が降り始めた音を聞きながら、光樹はまだ、征を見ていた。じっとじっと、そこに自らの過去も落ちているのではと覗き込むように。
 けれど征はただ佇むだけ。影のように暗がりに馴染み、突然、吸血鬼の本分を思い出したかのようにひっそりとしている。
 人ではない。人では有り得ない。同じにしてはいけない。同じではいられなかった。自分も―――征も。
(哀しい、哀しい)
 それはとても。
「…哀しい、ね」
 ほろり、と零された笑みが、言葉が、征の心をつきりと刺した。光樹は柔らかく笑っていて、言葉ほど哀しみはその表情かおに見られない。だが温かみのある笑顔ともかけ離れていて、それはまるで伽藍堂(がらんどう)の微笑。あらゆる感情を拒絶したようなそれは光樹らしくなく、あまりにも淋しかった。忘れかけていた、…否、忘れたい事実に目を向けた時の諦観と傍観者の静けさをそこに見て、征は悔いるように唇を噛む。
(…分かっているのに)
 光樹が自身を吸血鬼と同一に見られない理由。それは、記憶の有無なんて話ではなく。
「……しょうがないよ」
「征…?」
「光樹、君は――…」
  ――――ドンッ!!
「わッ…!」
「…っ」
 突如、轟音が大気を裂いて轟いた。耳に、腹に、強烈な振動が響いて痛い。衝撃に驚いて傾いた光樹の躰を咄嗟に抱き留め、征は双眸を鋭く細めた。煌く瞳は剣呑の色を宿し、玄関(エントランス)を睨む。―――来たか。
「なにっ…、雷でも落ちた…!?」
 腕の中で混乱する光樹を宥めて征は微笑む。見上げて、それを目にした瞬間。
「ッ…!」
 光樹は、息を凍らせた。首筋に鳥肌がぶわりと立ち、背がぞくりと震える。向けられたのは笑顔だ。その、はずなのに。
(―――こわい)
 寒気が、した。そのまま見ていられなくて、視線を下に逃す。と、肩の震えに気が付いた征が、光樹の髪を柔らかく乱した。その指先の優しさに、光樹は躊躇いつつもそろりと目を上げる。もうあの怖さは鳴りを潜めていた。表情の隅にも瞳の奥にも見付けられない。でも、まだどこか怖くて。
「征…」
 縋るように呼ぶ。征は髪を梳く手をより柔和にしてそれに応えた。
「心配しなくていい。客が来ただけだ。…招かれざる客が、ね」
「えっ…、征!」
 抱く腕が解かれ、次いで、トン、と背を押されて、一歩二歩、距離が空く。
「大丈夫だから、光樹は部屋で待っておいで。絶対に出てきちゃ駄目だよ。あそこは安全だから」
 ね、と念を押す征に逆らいきれず、光樹は戸惑いを抱えたまま、促されるままに、二階へ上がった。件の部屋のドアが閉まる音を確認して、征は玄関(エントランス)へと足を踏み出す。
「…さて、僕のとっておきの饗しを受けてもらおうか」
 それ以前に生きているかな?、と艶笑と嗤笑を混ぜた笑みを浮かべた征は、念には念をと、親指の皮膚を噛み切って溢れた血を床に垂らす。
 瞬間、城が胎動するように揺れた。
 その戦慄きは、城門(ゲート)と城壁の内側、全てに波紋のように広がった。扉の仕掛け(トラップ)に気付いた直後に逃げを打ったとしても、これでもう逃げられない。そも、逃がすはずもなかった。ここは砦だ。征がありとあらゆる策と罠を施した城塞(シタデル)。征の血で隅々まで汚したこの城は、最早征の体内と言っても過言ではなかった。
(それも全て――…すべて…)
 一瞬、征は痛みを堪える顔をして、けれどその表情は数瞬も保たずに霧散する。後には無表情があるだけ。その顔で征は玄関(エントランス)の扉を押し開けた。横殴りの雨が無防備な躰を強かに打つ。頓着せず、雨天(そら)を見遣って目を眇めた。暗い。昼間であるはずの空は黒く、時折雲の合間から雷が覗く。
 その中を征は進んだ。光に頼らず、己の血が命じるままに。そして。
「…あぁ、見付けた」
 鬼ごっこの鬼になった気分で、征はそうにこやかに微笑んだ。見詰める先は城門(ゲート)のほど近く。そこに倒れている人影。近付きながら「ひぃふぅみぃ」と数え、それが丁度五人分あることを確認した征は。
「久しぶりだね、みんな」
 立ち止まって、征の血の洗礼を受けて蹲る影達に笑いかけた。青の彼が、黄の彼が、緑の彼が、紫の彼が、黒の彼が、―――征を、仰ぐ。
「…赤司、君…」
 引き攣れた、掠れた誰かの声に。
「―――態々殺されに来たの?」
 征は冷たく、そう返した。


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