第四話 ナイトメア・パーティ

[ Nightmare Party ]


 売り出されていたのだし、もし汚れていても征ならば業者を呼んで綺麗にさせるだろうから当然だが、中は普通に、ぱっと見て手入れの必要がないと判断できる程度には、綺麗だった。
 おっかなびっくり扉を潜り、吹き抜けの玄関(エントランス)ホールを呆然と見たまま、靴は脱がなくていいんだよな…、とぼんやり思う光樹は、自分は一般家庭に生まれたに違いないと確信した。
「光樹、僕等の部屋に案内するよ」
 こっちにおいで、と早速二階に上がっていた征に呼ばれ、光樹は慌ててそちらへ向かう。しかし、少し見渡しただけでも二人住むだけというのが勿体ないほど広いと分かる。今まで住んできた所も広いとは思っていたが、ここは桁違いだ。
(一日ごとに寝る部屋を変えていって、どれくらいで制覇できるだろう…)
 くだらないことを真剣に考えている内に、征が手招いていた部屋に辿り着く。そこは、今朝まで住んでいたマンションの一階層(ワンフロア)の壁を全部ぶち破って一部屋にしたような広さだった。つまり――あぁ、語彙力のなさが悔やまれるが兎に角――物凄く、広い。
「……征」
「気に入った?」
「………」
 にこにこと聞いてくる征には悪いが、一般的な感覚(センス)しか持たない光樹にしてみれば、ただ落ち着かない部屋だ。しかも既に家具が置かれており、必要最低限の物しか持たない征の性格を思うと、これ以上増えるとすればまだ届いていない光樹のベッドしかなく…。無理だ、と光樹は首を振る。この部屋で、のんびりと過ごせる自信がない。
「俺、もっと狭い部屋でいいよ。探してくるから、ちょっと待って…」
「駄目だ」
 別の部屋を、と出ていこうとした光樹を、征が強い口調で阻む。驚いて振り返れば、口調に負けないくらい、征は厳しい顔をしていた。思わず腰が引ける。
 こんな顔の征は、初めて、見た。…怖い。―――こわい。
(  …)
 薄く、唇が動いた。それは戦慄いた程度の微かな震えに似て、けれどその時確かに、光樹はを口にした。
 それは暗い、(くら)の名だった。恐れの影に混じり、心に、脳裏に、一瞬垣間見えた、記憶の欠片。
「    」
 そのを―――確かに。
 だが光樹自身、真正面で対峙していた征も、それに気付くことはなかった。恐怖が光樹の心を、焦燥が征の目を(くら)ませた。
「な、に…? なんで…」
「ここは主人の部屋なんだよ。光樹もここで過ごすのは当たり前じゃないか」
 当たり前―――そうだろうか。光樹は征の様子に慄きながらも、冷静に思った。何が当たり前なのだろう。征にとっての当たり前とはなんだ? こういう場所に住むことか。どんな所にだって金に糸目をつけず引越しできることか。でもそれは征にとっての当たり前で、みんながみんなそうじゃなくて、と言うことは、自分にとってもそれは当たり前のことじゃない。
(…そうだ)
 光樹は思う。征と自分は違う。絶対に等号(イコール)でなんか繋がらない。征が最上階にいるなら、自分は地下にいるはずだ。何もできない。何もさせてもらえない。何度バイトをしたいと願い出ても無理で。ただ征が囲う腕の中でしか生きられない。征が用意した家に住み、征が買った服を着て、征が作った物を食べる。
(自分はただ、部屋(そこ)にいるだけ)
 こんなの対等じゃない。だから征の言葉に頷けない。ここが主人の部屋と言うのなら、征だけが住むべきだ。
(そうじゃないか…)
 だって違うんだ。お前と俺は、どうしたって違うんだよ。なぁ、征。
「…俺は、そうは思わない」
「光樹」
 意固地になっている自覚はあった。征の機嫌を損ねるだろうことも、分かっていた。事実征は気分を害したように眉を顰めていて、いつもは和らげられている目も、今は鋭い。気圧される。怖い。けれど前からずっと思っていて、何故か今言わなければならない気がした。
 俺は、俺は。
「――…俺は征の所有物じゃないよ」
 変わらなきゃ。征には良くしてもらってる。だけどもう、傷付いて何もできなかった頃の自分じゃない。立てなかった足で立てる。血だらけの手はもう綺麗なものだ。変わりたい。そうじゃなきゃ、いつまでも。
「光樹、僕は…!」
 いつまで経っても、俺は〈  〉の時と、一緒で――…。


『……コウキは優しいね』
 やさしい? …優しいかな。優しかったら、嬉しいかな。
『その優しさが、仇にならないようにと願うよ』
 …駄目、なの? 優しいのは、嫌…?
『コウキが傷付くのが、嫌だ』
 傷付かないよ、大丈夫…〈  〉が喜んでくれるなら、いいよ。
『僕は嫌だよ…。そんなのは、許せない』
 何を許せないの? 誰が駄目なの?
『…コウキ』
 ……なんで、泣くの? 痛い? 哀しい…?
『僕は…』
 いた…、痛いっ、…なに…、嫌だ、…だめ…ッ、痛い…!
『ごめん…。でも、ははっ…、駄目だ…!』
 いた、い――…!
『コウキ…、コウキ…、お前は、僕のものだろう…?』
 ―――…いやだ…っ!!


「光樹!!
 叫んで、征は光樹の肩を揺さぶった。突然大きく目を見開き躰を強張らせたかと思うと、光樹は征の目の前で静かに静かに泣き出した。瞳は虚ろで、何も見てやしない。征の姿も見えていないのだろう。だが何かは見ているはずで、それを知らないまでも、いいものでないことだけは確かだった。
「光樹、目を覚ませ、光樹!」
 じわりと滲んだ涙に縁取られた双眸は潤み、目元はそれにつられて赤く染まった。だが顔色は、血を飲んだ時以上に真っ青だ。
 そのアンバランスなまでの差が、征をとても不安にさせた。光樹は何かを恐れている。まるで出会った時のようだ。誰一人この地球上に自分を知る人はなく、味方もいない。そんな絶望の中で生きてきた顔をしている。希望を見出せないまま、ずっと生きてきたような。
 そんな顔をしては駄目だ。征は痛む心に唇を噛み締める。見ていられない。見ていたくない。やっと、―――光樹は笑顔を取り戻したところだったのに。
「…だめだ…、このままじゃ…」
「光樹、光樹、何が」
  パシ…ッ
 手を、払われた。触れるなと、言葉以上に光樹の瞳がそれを物語る。
 ―――触れるな。嫌だ。怖い。
 代わる代わる映し出される嫌悪と恐怖、拒絶の光に征は言葉を失くし、胸を痛め、だがそれを承知で近付こうとした。その時。
「俺はッ、誰のものでもない…!!
 光樹が叫ぶ。(くずお)れる。自分の頭を掻き毟って、鋭く喚く。征の存在を忘れ去ったかのよう。涙が滾々と湧き出て、後から後から溢れて止まらない。
「なん、でッ、なんで…! あんなの、望んでなんかなかったのに…ッ!」
「…光樹」
「一緒にいるだけでよかった…っ、ただ、それだけで…、それでいいって――…!」
「光樹!」
 聞いていられない。遮るように名を呼んだ。気付いたのか、ただタイミングが()ち合っただけなのか。光樹が征を見る。ぱちりと瞬きをして、押し出された涙がつるりと頬を滑る。滑っていく。
 その軌跡が、いやにゆっくりと描かれて。
「―――好きなだけじゃ、駄目だったの…?」
 その言葉を最後に、光樹はもう喋らなかった。ただ咽び泣く声だけが響く、響く。
 …止んだのは、時計が午後十一時を知らせた時。


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