金魚想
[昔、昔の、話だ。
『―――僕、金魚好きなんだ』
『…何故です?』
『あのひらひらしてる尾ビレとかさ、僕の服に似てると思わない?』
『金魚に謝れ』
『酷いな!』
まだあいつが幼く僕の身長の半分くらいしかなかった頃、ふと出会った際にそんな話をしたことがあった。それもたった一度だけ。一分にも満たない会話はそれきりで、言ったことさえ自分自身で忘れてしまっていた。
(でも、そこから全てが始まった)
後から知ったことだが、その直ぐ後からあいつは金魚草の品種改良に精を出しはじめたらしい。成果が出たのはずっとずっと後で、そして僕自身、金魚草の飼育には何の関心もなかったから、誰が品種改良したんだとかは気にしないまま時が過ぎていた。
その間もあいつとはちょくちょく、不思議なくらい偶然会っていたけれど、あいつは何も言わなかった。当時、僕はあいつを小さくてちょっと生意気な弟みたいに思っていた。
(だから、気づかなかった)
何も、何も。いっそ罪なくらいに、僕はあいつに対して無知だった。
(気づいた時には、遅かった)
あいつは時々、僕の好みを聞いてきた。子どもだったあいつも、そろそろ大人に近づいてきたのだろうかと楽観的に思っていた。
『そうだなー、最近は短髪の子が好きだよ』
バサリ
あいつは髪を切った。
『仕事頑張ってる子はいいよね』
あいつはただの獄卒から閻魔大王の副官にまで上り詰めた。
『あまり他人のこと首突っ込む人はちょっとなぁ』
あいつはそれまで時折口を挟んできた僕の生活について、それ以降何も言わなくなった。
『叱ってくれる子も好き』
あいつはその頃から意地悪になった。
(……気の所為、かな?)
五百年、六百年経った頃になってようやく、僕はあいつが僕との会話のほんの小さなこと、噂で聞いた中で、自分が実践できる程度に『僕の好み』に近づけるよう色々実行していることに気づきはじめた。確信したのは、それから少し、後のこと。
ある夜、深更近くになってあいつが家に訪ねてきた。すぐ近くを通りかかったからだと言う。直感的に嘘だと見抜いたけれど、言うのは怖くて黙っていた。夜の雰囲気か、あいつの闇に近い出で立ちの所為か、訳もなく怖かった。
それに、気づいたんだろうか。あいつは少しの間押し黙ると、いつものような無感情な声を出す。でも、―――でも。
「白澤さん」
「な、に…」
「貴方、自分より背の低い人、好きなんですよね」
「…ちょ、止めてよ…」
「そうなんですよね?」
「冗、談…ッ」
(笑うな)
笑うな笑うな笑うな。そんな暗い顔で笑うな。嫌だ。怖い。なんで。なんで…――!
「足を切ったら、私でも貴方より低くなれますね」
斧が月灯りに鈍く光っていた。
「は、ァ…ッぅ、あ…」
荒く息を吐く。どうやってあいつを気絶させたのかは、覚えてない。ただ我武者羅に神術を使ったのだろうことは、半端じゃない疲労感で分かった。
斧はどこかに吹き飛んで、あいつは怪我もなく、静かに寝ていた。その寝顔の幼さに、泣きたい気持ちで笑った。
「ふ、ふふ…っ」
笑声が喉に突っかかって息苦しい。ねぇ、なんでだろ。ついでに胸も痛いんだ。
「ほんと…なんで…」
なんで、こんなことになったんだろう。
震える手であいつの頭に触れる。さらりと鬼にしては珍しいほどの直毛が指を擦り抜けていって、そのことに何故かまた笑みが漏れた。小さな頃のあいつを思い出したからか。その時の状況と今とが違いすぎて滑稽だったからか。
分からない。…分からなくて、いいのかもしれない。どうせもう手遅れだ。病んだ心は僕にも治せない。だから、僕にできるのは。
「…僕のことなど、忘れてしまえ」
ぽつり。汗が頬を伝って穏やかに寝るあいつの顔にかかる。指の腹で拭って、―――でも。
「悪い夢は、ここでお仕舞い」
ぽつり。目からも伝って、また濡らす。不規則なそれは、雨みたい。
「もう、大丈夫だよ…」
それが何か、なんてもう考えず、小さく呪を唱えて最後まで言い切った後、そっとそっと目を閉じた。口も閉ざし、後は怠惰に夜の帳に沈もうとして。
…鬼灯。
そう、小さく零れたあいつの名。それは声でなく、無意識に唇だけが象った名前だけど、自分自身で気づかない訳にはいかなくて、どうしたってなかったことにできなかったから。
「――…大好きだった」
堪え切れず、吐き出した。言ってしまえば、後はもう駄目だった。自分で作った暗闇の中で、みっともない啜り泣きだけが夜に響いていた。
最後にさらりと髪を梳き、離したその手を瞑った瞼の上に置く。闇が深まる。僕の世界が黒くなる。あぁ、喉がひりついて痛い。胸が痛い。頭が痛い。痛みだけが躰のあちらこちらを蝕んで。
(後には何も、残らない。)
20121203
〈好きがお前を毀すなら、僕はその好きを殺すよ。〉