玉兎に蝕む

[ これぞまさに適材適所。 ]



 チチ、チチ…

 遠くから、音が聞こえた。耳に届いたその音に起こされて、白澤は小さく唸りながらもぞりと布団の中で寝返りを打つ。…なんだろう、鳥の啼く声だろうか。でもこれはコンロに火を点ける音に似てる。…でも誰が、そんなことを…。
 寝ぼけ眼を擦りながら考えて、あぁ、と不意に腑に落ちる。思い至れば眠気は吹っ飛び、くくと笑いがこみ上げた。
 まったく、彼が来て随分と経つというのに、まだ家に他の誰かがいる感覚に慣れない。…それもそうか。同居なんて、この僕が。

(しかも、男と、ねぇ?)

 思えば思うほど、常の自分からは想像できない現状に笑いは膨れ上がるばかり。このままでは笑い死にしそうだと、一度大きく息を吐く。
 そうして心を落ち着かせた白澤は、またそっと目を瞑った。耳を澄ませる。誰かが歩く音。鍋を火にかける音。扉を開く音。草を踏む音。色んな音が届く。自分以外の誰かが生活する音。
 一人きりじゃ得られない生活感。煩わしいとは思わない。むしろ。

(こういうのも、いいなぁ…)

 嘗て自分は一人きりだった。それを淋しいと思ったことはない。退屈だとは思っていたけれど、誰か傍にいてほしいと願ったことはなかった。けれど今、また一人きりの状態に戻ったのなら、自分は淋しさのあまり死んでしまうかもしれない。

(兎か)

 自分の考えに自分で突っ込んでまた笑う。だがそれもそこそこに、そろそろ起きなければ同居人にまた酒か女か夜遊びかと小言を食らうことになる。それも困ったことに、満更嫌ではないのだけれど。

(たまには真面目な面も見せないとね)

 と、張り切って身を起こそうとして―――失敗、した。

(、え…?)

 くらり、と視界が歪む。僅かに起こされた躰がまた寝台に沈む。力の抜けきった躰を受け止めた寝台は、嫌に大きな音を立てた。遠く聞こえた音は同居人が自分の名を呼んだからだろう。だがその音も、先程より不明瞭で朧気だ。

(なに…?)

 景色が揺れる、音が遠い。躰の端から感覚が失くなっていく。…これは、これは。

(―――(しょく)、だ)





 鬼灯様、という声を、どこか遠くで聞いた。執務中、唐突に現れた桃の彼。言う言葉が、劈く声が、耳を素通って。
 持っていた書類が床に散る。手を引かれるまま、寧ろ手を引く勢いで地を駆けた。

(まさかまさか)

 耳元で風が音を立てて後ろに遠ざかる。煩い。煩い。煩わしい。

(まさ、か)

 目を眇める。過ぎていく景色。今日も常春桃源郷。なのに、何故。

(こうも心が凍るのか)





 そろり、と家主の寝室を出て数歩、硬い表情で床を睨みつけていた桃太郎は、そう言えば、と視線を上げて仕事場となっている空間を見渡し、誰もいないことに気づいて首を傾げた。彼がいたはずだが帰ったのだろうかと、開け放した扉を潜って外に出る。
 多忙だし、あり得ない話じゃない。そう思いながらもどこかにいる気がして見渡しながら少し歩くと、探していた人を桃樹の影に見つけてほっと息を吐いた。

「鬼灯さん」

 少し声を張って呼べば、鬼灯の顔がこちらに向いた。いつも通りの無表情を貫く彼に、見た目通りの芯の強さを見せられた気がして羨ましく思った。
 自分には到底無理だ。桃太郎は今朝の光景を思い出し、胸を迫り上がる息苦しさに眉間に微かに皺を寄せつつ鬼灯に近寄る。対する鬼灯は桃太郎に顔を向けるばかりで、一歩も足を踏み出さない。
 そもそも何故こんな所にいるのだろう。いつも薬が処方されるのを待つように、座って待っていればよかったのではないか。桃太郎はそう疑問に思って、けれどそれは声に形作られないまま。

「落ち着きましたか?」

 鬼灯のその問いに掻き消える。それは彼のことのようにも、自分のことを言われているようにも聞こえて、桃太郎は取り乱した過去の自分から目を背けるように視線を下に逸らして応えた。

「はい、なんとか…」
「それはよかった」

 鬼灯の頷きに、けれど安心はできないと桃太郎は表情を緩めない。

(白澤様…)

 桃太郎がそう呼ぶ彼は、寝台に四肢を投げ打った状態で目を見開き、痙攣を繰り返す姿で見つかった。何かあったのだと急ぎ目を覗きこみ彼の名を叫んでみても、彼は一向に反応を返さなかった。何も見えず、何も聞こえてないらしい。
 そうと気づいた桃太郎は一目散に地獄に向かい、既に仕事に勤しんでいた鬼灯を掻っ攫うように連れて来た。連れてくる相手を間違えただろうかなどとは露とも思わなかった。鬼灯ならばなんとかしてくれる。嫌にその確信があって、そしてそれは当たっていた。鬼灯は彼の様子を見て直ぐ、桃太郎に指示を飛ばした。

『家中の窓や戸を開け放って風の通りを良くし、塩を家の隅に置き、酒を家の周りに撒いてください。多ければ多いほどいい。後は桃の果汁を絞って布に含ませ、その布を白澤さんの口に入れて、少しずつでも飲ませてください』
『はい…!』

 後は我武者羅に動いた。言われた通りに窓という窓を開け、戸を開きっぱなしにした。塩を置き、養老の滝から拝借した酒を撒き散らした。兎は嫌がったが、しかし今それを気にしている場合ではないと放っておいて、桃の果実を採ってきては絞って彼に飲ませた。
 それでも変わらず自分を認知しない彼に泣きそうになりながらも、桃太郎は鬼灯の言葉に縋るようにそれを繰り返し、そしてようやっと彼に変化が現れたのはつい数刻前のこと。震えが収まり、顔色が俄によくなった。
 だがそれだけだ。まだ、彼は目覚めない。

「……鬼灯さん」
「はい」
「…白澤様、どうしたんですか? あれは、…病気、ですか…?」

 聞いて、聞かれて、鬼灯は一度目を伏せたかと思うと、薄く目を開けて遠くを見た。それが一瞬、彼のいる方角へ向けられたのは気の所為ではないだろう。視線は一周りして桃太郎の足元へ投げられた。そして。

「数百年に一度の周期で、あの人にはこんな日が来るんです」

 桃太郎の視線の先、鬼灯が、溜息と紛う吐息と共にそんな言葉を吐き出した。桃太郎の表情が驚愕に強張る。

「こんなことが、前にも…?」
「えぇ。私達は仮に『触』と呼んでいるのですが、桃太郎さんがここに来る前から、あれはもう何度も繰り返していることです。ただ最近は遅れがちだったせいか、自分でもすっかり忘れていたみたいですけどね」

 だから、無様に貴方に醜態を見せてしまったのでしょう、と(から)く言って、鬼灯はやっと桃太郎を見た。その視線を受けて、なんだろうと桃太郎が視線を返す。次の言葉に、目を剥いた。

「貴方のお陰、と言うべきでしょうか」
「俺の…?」

 どういうことです?、と言う桃太郎の疑問を受け取って、鬼灯はあからさまに視線を逸らして余所に遣る。追えば、周りの所狭しと植えられている桃樹に向けられているようだった。

「…もも…」
「モモ?」
「えぇ、桃、です。ここ、異様に桃の木が植えられていると思いませんか?」
「え? あぁ…、確かに…」
「なんでだと、思います?」

 桃太郎はその問いに口籠る。何故かなど、これまで考えたこともない。疑問に思ったことさえなかった。
 答えを見つけられなくて口を噤む桃太郎を見て、鬼灯は言葉を繋いだ。また視線が桃太郎を離れ、今度は彼が所有する養老の滝の方角へと注がれる。

「それにあの人、やけに酒を嗜むでしょう。自分の胃を焼いてまで、呑むでしょう。別に忘れたいことも、酒に溺れたい訳でも、ないのに」

 そうだ、と桃太郎は思い出す。日頃から暇さえあれば浴びるほど酒を呑む彼に、自分は何度忠告しただろう。何事も過ぎれば毒ですと。
 だが聞き入れてはくれなかった。薬があるから大丈夫だよと笑うばかりで。だから(つと)に窘めることを諦めてしまったけれど…。それにも、意味があったのか。

「…何故ですか」

 問う。聞くことに緊張が付き纏った。彼の現状と鬼灯の常にない雰囲気から、酷く重い話がなされるであろうことに気づかない訳にはいかなかった。
 鬼灯はまた一つ息を零し、視線を流して桃太郎を見た。思いがけず射抜くような視線と()ち合って桃太郎の肩が小さく跳ねる。息を呑んだ。鬼灯は気づかずに、それとも気づきながらか、そんな桃太郎を見たままで。

「桃も酒も、全ては白澤さんの躰を浄化する為のものです」

 簡潔に淀みなくそう言った。しかし意味が分からず首を傾げる。

「浄化…?」

 と訝しみながら言った桃太郎に、えぇ、と鬼灯は頷いた。

「知っての通り、あの人はあれでも神獣ですから。神獣は即ち聖獣。本来ならば清らかな天界にのみ棲む存在です。いくら中国で妖怪の長と呼ばれようと、そんな彼と地獄は縁遠い…、寧ろ相反するものなんです。よって地獄の空気や存在は、あの人の躰を蝕む毒でしかない。それは当然、私さえも」

 いつもと同じ淡々とした口調で紡がれる声とは相反する内容に、思わず桃太郎は「待ってください!」と声を荒げた。

「毒って…、そんなの、何言って…! だ、だって俺は何ともないし、誰かがあんな風になったって聞いたことも…。それに鬼灯さんが毒だなんて…っ」
「言ったでしょう、あの人は神獣だと。私とも桃太郎さんとも、その他大勢の〈誰か〉とも異なる稀有な存在なんです」
「それ、は…」
「その在り方など私達が知ることはありませんし、あの人もまた知られるつもりなどなかったでしょう。いつだって締まりなく笑って誤魔化し、酒の所為だと嘯いていた。今でもあの人があぁなることを知るのは私だけで、その私だって異変に気づくのに優に千年はかかりました。…千年も、かかったんです」

 言って、鬼灯は一瞬硬く唇を結んだ。桃太郎はそれに気がつき、その一瞬に隠された鬼灯の心を思って哀しくなった。その間、それ以前から、朝のような苦痛を一人で耐えてきた彼を思うと、胸が苦しくて仕方なかった。

「…じゃあ、浄化って言うのは…」
「彼が地獄に赴く事で、彼が(あやかし)の女に触れることで、…そして私と関係を持つことで蓄積した穢れを落とすことです」

 桃の香りで彼が帯びた地獄の空気を祓い、酒を呑むことで体内に入り込んだ魔の芥を取り払う。…植えられた桃樹も彼が所有する養老の滝も、その為にあるのだと鬼灯は言う。

「桃は仙桃と呼ばれ邪気を祓うと言われてますし、酒は百薬の長と言われる。存外、それは歴史家の法螺話でも、そして酒呑みの戯言(たわごと)でもないのですよ」

 淀みなく諭され、納得しつつ、桃太郎はきつく唇を噛んだ。それでも、そうまでして、駄目なのか。空気が薄紅に染まっているのではないかと錯覚するほどの桃の木があって、枯れることのない滝から得た酒で胃を焼きながら、それでも彼が救われることはない。

(今朝のように、四肢を硬直させ、人形のように反応を返さなくなる。どうしたってどうしても、時が来れば否応なく)

 そんなの。

「そんなのって…!」

 哀しい、切ない、苦しい、酷い―――色んな言葉が溢れて、どれも相応しいようで、その癖どれも的外れな気がして、桃太郎は言葉を呑んだ。しかし鬼灯には伝わったようで、そうですね、と一つ頷いて。

「そうして祓い切れなかった穢れが少しずつ蓄積され、一定の周期でこうして躰の機能の大半を奪う病魔に転じる。…普通に天国で過ごしているだけならば、そうはならないでしょうに」
「じゃ、あ、ずっと天国で、ここで大人しく生きていけば…!」

 桃太郎の叫びは、鬼灯がやんわりと緩く首を振ったことで途切れた。疎むようなその動作。僅かに伏せられた双眸は微かに哀しげでさえあった。何故か、と思えば。

「そんなこと、あの人にできると思います?」
「あ…」

 その言葉に、答えを見る。自由を絵に描いたような彼は、決して家に閉じこもることをしないだろう。そんな彼を想像することもできない。
 彼は奔放で闊達で、だからこそ彼だった。それを桃太郎は痛いほど知っている。もう随分、彼と一つ屋根の下で暮らしてきたのだ。

「白澤さんは誰かと触れ合うことが凄く好きな人ですから、ここに閉じ込めようとしても無理なんですよ。…何度言い聞かせたって駄目でした。分かってて、知りながら、あの人は…」

 鬼灯は言って、言い切らないままふわり目を瞑る。その言葉の先を思い出の中に見ているのだろう。静けさが、いっそ切ない。
 桃太郎は先を言う言葉を見つけられず、その静寂を破ることもしてはいけない気がして口籠っていると、その上、と鬼灯が自身で森閑を裂いて口を開く。そうして言ったのは。

「神は、常に誰かから想われなければ存在し得ないのですよ」
「―――…ッ」

 いつか、彼からも聞いたことだった。

『神様はね、別にただそこにいる訳じゃない。無意味に存在している訳じゃない。人にとって必要だから創られて、人からの祈りやお参り、尊敬や崇める気持ちがあるからこそ存在していられる。逆に言えば、祈りやお参りなんかがなくなった神は、存在していられないんだよ――…』

 神は存在を忘れられるだけで消える。それが、神にとって人の死と同義なのだと彼は言った。…あぁ、ならば。

「致し方ないことなんです。あの人はあれでも神族…、神に属する存在ですから、常に他者から自分が今も在ることを認めてもらわねばならない。地獄に降り、毒を吸い、穢れを体内に溜めてでも、そうするしかないんです。彼が、存在し続ける為に」

 誰かから忘れられるということは、それだけ彼の力や存在が無に近づくことを意味していた。

「でも、だったら…ッ、鬼灯さんが白澤様を想うだけでいいじゃないですか!」

 想いがあるだけで存在できると言うのなら、わざわざ地獄まで降りる必要も、不特定多数の女と触れ合うこともない。ただ恋人である鬼灯だけが想い、触れて、最小限に抑えられた穢れを桃や酒で清めればいい。
 言い募る桃太郎を鬼灯は凝じっと見て、そしてちらりと片笑んだ。彼に似つかわしくなく、優しく、笑うから。桃太郎の声が潰ついえる。言葉を綴っていられなくて押し黙る。鬼灯はそれを待って、そっと言葉を零した。

「…存外、不便なものですよね、神様って。特に白澤さん程にもなると、広く知れ渡っているだけに安泰か、と言えばそうでもないんですよ。人からの想いで象られた今の姿を維持するためには、結局それ相応の想いが必要となってくる。例えそれが量より質とは言え、量も必要であることは紛れもない事実ですから」
「そんな…!」
「金魚と水の関係と同じですよ。水槽に水が満たされれば金魚は元気に泳ぎ回ることができる。死ぬなんて思うこともなく…けれど水が減れば自然と動きは制限され、そして失くなれば死ぬ…」

 だから少しでも想いは多い方がいい。それで自分の存在を確保できるなら、それに越したことはない。そう言って、ふ、と吐息を零した鬼灯は、ひそりと目を細めて笑みを消す。

「…神で在るが故に全てを識り、幾星霜もの時を超え、その代償として痛みから逃れること(あた)わず」

 その恩恵と代償が過不足なく同等なのか、鬼灯には知りようがない。理不尽かどうかも分からない。
 ただ彼が永劫独りであることは分かっていた。痛みを分かち合う誰かと出会うこともなく、自分がその対象になることもできず、消えるその日まで、彼は他者の介入を受け付けないままで在り続ける。

「寂しいことです。何千何万年と生きてきたように、何千何万年と生きていくのでしょうに、ね」
「で、でも、鬼灯さんがいれば…っ」

 二人でいればいい。例えそれが毒から逃れるべき存在と、毒を与える存在とが結ばれた矛盾した関係だって構わない。一時でも心が満たされるのならその方が、と言い募る桃太郎に、矢張り鬼灯は首を振る。駄目なんですと、泣きたいくらい穏やかに言う。

「ねじれの位置なんですよ、私達は」
「ねじれの、位置…?」
「えぇ」

 決して交わらない。次元も、存在も、意思も、在り様も。せめてと、言葉が行き来する程度。鬼と神はそれほどに違う。同じ人の姿を象ろうが、同じ顔、同じ年に見えたとして、同等では有り得ない。それは幻想にも程遠い錯覚だ。

「だから私達は…、私と、あの人は、決して寄り添うことはありません」

 付かず離れずの距離を保ったままでい続ける。一夜を共にしても、翌朝にはまた何事もなかったように離れていく。恋人と関係を銘打っているものの、その実態は字義と全く噛み合わない。想いはある。だがそれだけで神を繋ぎ止めることは不可能だ。
 それは言葉では表現しがたく、当事者たちにしか分からないことで、きっと桃太郎にはどれだけ言葉を尽くした所で理解できないことだろう。諦めでなく、実感として鬼灯は、そして彼も、そう思っていた。――…あぁ、だからこそ。

「だからこそ、私は貴方をここに派遣したんです」
「え…?」
「貴方自身は実感がないかも知れませんが、桃から生まれ、桃の名を持つ貴方は、それだけで魔を祓う存在なんです。そして、私はその正反対。あの人に毒を植え付ける者…」

 鬼灯さん、と咄嗟に呼んだ声は、みっともなく掠れた。その先を言ってほしくなくて、それ以上哀しい言葉を聞きたくなくて、でもそんなことはないのだとは、もう言えなかった。
 色々聞いて知ってしまった今では、そんな言葉は慰めにもならない。鬼灯だって望んでない。でも何か言いたくて、言えないままもどかしく唇を噛み締める桃太郎に、鬼灯は。

「最初、貴方のお陰だと言ったのも、触に侵された白澤さんを貴方に託したのも、あの家に留まらなかったのも、そういった理由からです。私が近くにいたのでは、あの人の状態を悪化させるだけですから」

 初めて知らされた真実は重くて、哀しくて、胸に閊えてただ苦しい。辛うじて、そんな…、とだけ零れた声を鬼灯は拾って、しかし一つ瞬きの動作で振り落とす。そしてまた視線は桃太郎を離れて彼方へと放られて。

「だから本当は、私ではなく貴方が傍にいるべきなのだと思います」

 つと、何でもないことのように、そんなことを言う。思いがけない台詞に呆然とする桃太郎など素知らぬふりで鬼灯は更に言葉を重ねた。常の無表情を借りて、平坦な声で、心をちらりとも見せず。なのに。

「桃太郎さんは毒を与えるだけの鬼など、白澤さんから離れた方がいいとは思いませんか?」

 その瞳に映る祈りに似た願いに、桃太郎は気づいてしまった。

(…何を言わせようというのか)

 顔を歪めて、拳を作る。爪が掌を傷つけた感触を得て、でもそれで力を緩めることなんてできなかった。

(何を…なん、で)

 この、鬼は。

「――…俺はっ…、白澤様が苦しむのは、嫌、です」
「…はい」
「苦しむのも、痛い思いもさせたくないっ」
「はい」
「白澤様には笑っていて欲しいです…ッ」
「はい」
「病気になんて、なってほしくない、です…!」
「はい」

 でも、それでも。

「お二人が一緒にいないのも、嫌です…!」

 ―――望む言葉など、言ってやらない。

「どっちがいいなんて、何がいいかなんて、俺は知りませんし分かりませんよっ…、でも…!」

 ―――だってだって、嫌なんだ。

「白澤様が鬼灯さんを好きだってことも、一緒にいたいって思ってることも、俺はちゃんと知ってます!」

 ―――だから、そんなことを言わないでください。離れて欲しいなんて言葉を、俺に言わせようとしないでください。

(だって、俺は)

 貴方と同じように。

「白澤様が哀しむのが、一番、いやなんです…っ!」

 いやなんです、と繰り返した桃太郎は、顔を俯け肩を揺すらせて泣いた。柔らかな春の陽光が、隠そうとする桃太郎の心情など知らぬとばかりに伝う涙を光らせる。
 鬼灯はその泣き顔を見て、しばしつっかえていた息を深く長く吐き出した。それはれっきとした溜息で、けれど呆れを含んだものではない。感嘆と言って差し支えない、吐息だった。

(…本当に、桃太郎さんは良い人(ヽヽヽ)、ですよ)





 昔、それは多分、人の頃の話。山に入り果実を採っていると、いつも足元に擦り寄る猫がいた。
 にゃあにゃあと鳴いて媚びるでもなく、ただ擦り寄ってくるだけの猫。果実を盗ろうとするでもない。とある場所を境界線(さかい)に山から下りようともしない。ただ、擦り寄ってくるだけの、猫。

『…何なんでしょう』

 ある日ぽつりと呟けば、にゃあと声が返ってきた。返事だろうか。見れば猫は外方(そっぽ)を向いて、こちらをちらりとも見ていない。
 何を見ているのだろう。気になって猫の視線を追う。分からない。猫の目線になってみれば分かるだろうか。うつ伏せ寝の格好で猫が見る方を見た。…分からない。

『何なんでしょう』

 再度呟く。猫はにゃあと返す。もうこちらを向いているだろうかなどとは思わなかったし、見ようともしなかった。きっと向いていない。きっときっと、絶対。

(あぁ、違う(ヽヽ)のだな)

 そう思って、きっとそれは正しいのだろうと思った。猫はそれから暫く隣にいて、不意に跳躍して森の木々の中に消えてった。それ以降、見たことはない。





 それから一週間ばかり経った頃、鬼灯は夜中に彼の家を(おとな)った。既に桃太郎は寝ているようで灯りはなく、(シン)として、静か。
 そんな暗闇の中を鬼灯は器用に物音立てず歩き、そろりと寝室に入り込む。窓から差し込む月灯りで明るいそこは、女以外には思いの外きちんとしている彼の性格を体現するように整然としていて、性格上彼より何かにつけて几帳面だと見られる自分の部屋よりも綺麗だった。ただ自分の方がより仕事に追われていることを考えれば、実際はさして差はないのだろうけど。
 だが見た目の綺麗さを裏切って篭る空気の悪いこと。淀んでいる、と言うより。

(―――病んでいる)

 入るべきでない。本当なら、今の彼の状況を鑑みれば、今に限らずとも、自分は彼にとって毒でしかない。それでも、入った。日数を考えればそろそろ回復の兆しを見せる頃だという目論見もあった。

「………」

 ベッドに近づき、傍らにあった椅子を引き寄せて座った。長居するつもりはない。だが自分が作る影で彼を起こしたくはない。月影から逃げるように身を縮こまらせた鬼灯は、けれどそれが全く意味を成さなかったことに気づかない訳にはいかなかった。

「…起こして、しまいましたか」

 白澤さん。

 その呼びかけに、ぱちり、と閉じられていた瞼が押し開けられ、眠気を感じさせない双眸が覗いた。動いて、鬼灯を見る。それによって視覚も聴覚も回復したのだと知れた。
 闇に紛れるほどの微かさで、硬かった鬼灯の表情が和らぐ。それを白澤は白日の下で見たかのように知って、うっすらと微笑むと。

「別に、いい。この一週間、ずっと寝てたからね、躰がそろそろ寝るのに飽きてるんだよ。小さな音で、直ぐ目が覚める」
「そうですか」
「うん。躰はまだ、動かないけど」
「そう、ですか」
「うん」
「……」
「……」
「……」
「鬼灯」
「……」
「何か、あった?」

 何故、そう思ったのだろう。鬼灯はぼんやりと脳裏でそう疑問に思い、次いで、何かとは何だろう、と一週間ぶりに動き会話する白澤を見ながら思った。何か。何か、…あぁ。

「…桃太郎さんは、私達が一緒にいないと嫌だそうですよ」

 ぽつりと言って、ほんのりと笑う。(つが)うように、寄り添うように、一緒にと願われた。
 喜ばしいことなのだろう。地獄であろうと衆道が受け入れがたいものであることに変わりなく、奇異に見られることもしばしばだ。鬼灯と白澤が関係を公言しない理由の一端にはそれがあるし、本来なら桃太郎のような存在は彼等にとって有難いものなのだろう。嬉しいと思えるはずなのに。

(…でもそれは)

 自分達には、当てはまらなくて。

「桃タロー君は、ほんと…」

 くくと喉で白澤が笑う。嘲りはない。呆れが少しと、それ以上の優しさが内にある。そして。

「無理なのに、ねぇ…?」

 ほんの僅かな、諦観と。

(…そう。結局のところ、どう望んだ所で無理なのだ)

 どうしても、どうしようもなく。それは互いが了解していることで、それ以外の答えはない。自分は鬼で彼は神獣。どちらも鬼か、どちらも神獣か、もしくはなんでもいい、兎角片方が神でないのなら、それだけで話は違っただろうに。
 あろうことか鬼灯は閻魔大王に一等近しい鬼で、白澤は吉兆印の神だった。番えるはずもない。闇が月を食うようなもので、だから。

「桃太郎さんが、私を恨んで下さったなら、…貴方から離れろと言ったのなら」

 きっと、そうしたでしょうに。

 以前のように一人で暮らす白澤なら、鬼灯は決してそうは言わなかった。でも今は桃太郎がいる。白澤はいつかのようにもう独りではない。一人、孤独を抱くように膝を抱えて眠ることもない…。
 だからとそう言う鬼灯に、白澤は責めるでもなく口元を綻ばせた。悪戯っ子のような奔放さの裏に、年上の寛容が滲む笑顔。

「いいんだよ。今のままでいい。僕ばかりが辛い訳じゃないと、僕はちゃんと知っているからさ」

 手が伸びる。指が届く。ひやりとした鬼神の肌は、彼の冷徹さに似ていた。そのことにさえ白澤は淡く微笑んで、その笑みに鬼灯の胸の奥が鈍く痛んだ。
 いつだって痛みを傷を、苦しみを背負うのは彼だった。なのに手放せなかった自分は、心底、鬼なのだろうと思う。

「…それだけで、貴方は…」
「十分だろ?」
「……」
「僕には、それで十分なんだよ」

 鬼灯、と白澤が呼ぶ。穏やかに笑う顔に、優しい声に、縋りたいような気持ちがふと胸に湧く。伸ばされた手に手を重ねて、ずっと握っていたくなる。その掌の温度と同じくらいの、微温湯の幸せに浸っていたい。

(…叶わないのに)

 哀しい。哀しい。結局自分達は一人と一人だ。どれだけ躰を重ねて、心を通わせても。だってそうすれば自分は彼を壊してしまう。いつかいつか、絶対に。

(どうして、そんなところばかり世界は重なっているのだろう)

 手を重ねることさえ惑う世界。そんな世界も、けれどないよりはあって欲しいと強欲に願うから。

(だから)

 だから、鬼灯は。

「……白澤さん」
「ん?」
「白澤さん…」
「……」
「白澤、さん」
「…ん」

 幾度となく白澤と呼び続ける鬼灯に、何も言わず、何も聞かず、ただ呼ばれた分だけ「鬼灯」と白澤が名を紡ぐ。優しさに塗れ、慈愛に満ちたその声で。

(それでいい。…それだけで)

 息が苦しい。心が痛い。それでも。

「鬼灯」

 その声で、ずっとずっと、呼んでいて。





 寄り添うことが叶わないなら、せめて貴方の声で私の名前を呼んでください。

(離れないでとは、死んでも言えやしないから。)





戻る



 20121203
〈玉兎(=月)に蝕む:1+1で2にならない二人の関係。 〉





PAGE TOP

inserted by FC2 system