良くも悪くも、神サマであるということ

[ 人になれない神様は。 ]



 思うことがある。何度も思って、何度も否定して、何度も否定しきれなかったことがある。それは喉元まで迫り上がり、後は吐き出すだけ―――なのに。

(…言うつもりはない)

 それは藪をつついて蛇を出すようなものだ。危険行為だ。赤信号の手前の黄信号。だから口を手で遮って出させない。息を殺すように声を殺した。声を殺して心を殺したように。

(気づかせるつもりはない)

 何も、誰にも、一つも。だから黙ったままだった。だから口を噤んだままだった。悪態をつく口を許した。

(言うつもりは、なかった)

 ―――本心、など。





「たまに思うんですよ」

 突然そう呟いた桃太郎は、頬杖をついて考えこむように虚空を見つめていた。いつも穏やかな顔をしている彼にしてみればひどく真剣な顔をしている。そのことに少しばかり驚きと新鮮みを感じてぱちぱちと瞬きを数回しながらも、「何を?」と問わずとも続きを言ってくれることは分かりきっていたから、白澤は口を開かず大人しく耳を澄ませていた。
 そうして一泊置いて零されたのは、白澤にしてみれば的外れもいいところの言葉だった。

「白澤様が女遊びするのって、昔、手酷く振られた所為なのかなって」

 なんでそうなるんだ。そしてなんでそんなことを真剣に悩んでるんだ。思わず机に突っ伏した。て言うか手酷く振られて女遊びに走るって、矛盾してない?
 机から顔を上げずじろりと見れば、その視線に気づいた桃太郎は、逃げるように一瞬合った視線を逸らしてぽりぽりと頬を掻いた。

「や、なんか、『僕を振るなんて百年早い! モテることを実証してやるよ!』とか『この想いを他の女の子で…!』とか思いそうだなぁ、と」
「ただの気持ち悪い男じゃないか!」

 確かに白澤は女性が好きだ。大好きだ。しかしだからと言って女性みんなが無条件に自分を好いてくれるとか、自分がモテるとか、女性は全員自分のものとか、そんなナルシスト全開で危ない考え方は持っていない。ただ純粋に好きなだけだ。柔らかい躰とか、甘い匂いとか、愛に生きる姿とか、そう言ったものが。

「僕を何だと思ってるんだよ…。て言うかそういう目で僕を見てたのかよ…」

 ぶつぶつ文句を言う白澤に、いやぁ、と桃太郎はまた真剣な表情に戻って。

「そうだったら現状を許せる気がする」
「なんで桃タロー君に許してもらわなきゃいけないのさ」

 「恋愛は自由だ!」などと今更言うつもりはない。恋愛に限らず白澤は基本的に思想や常識からも自由だった。それを桃太郎も浅からぬ日々の付き合いから分かっているのか深くはつっこまず、ただ一つ溜息を零す。

「確かに、ここは白澤様の住まいですし、俺は居候です。この家で何をなさろうと白澤様の勝手ですよ。でもね、ほぼ毎朝別の女性がこの家から帰っていくのを見ていると、苛々するって言うか腹立たしいと言うか、女性はもっと大事にしろよ!、とか、そんな思いがふつふつと…」
「で、理由付けがしたかった、と」
「はい。理由があれば耐えられる気がして」

 なるほど精神衛生上のバランスを取る為、ね。まさか自分の女性遍歴が桃太郎の心にそれほど負荷をかけていたとは思わず、白澤はなんとも言い難い顔をした。
 反省する、のは違う気がするし、きっと反省なんかしても止めないだろう。かと言ってご愁傷様諦めて!、と言い切ってしまうのもどうかと思う。
 まぁそれが嫉妬からくるものではなく、偏に女性を案じての意見であることが桃太郎かれらしいな、と言う感想だけ持つことにしてやっと机から顔を離した。ガタン、と勢い良く背もたれにぶつかった所為で椅子と床が音を鳴らす。

「兎に角、僕にそんな過去はないよ。僕はただ女の子が好きなだけの男の子さ」

 とは言え――白澤は表情を変えないまま、冷静に思う――白澤が女性を求めるのは男が女を求めるのは当然という、好悪の問題を無視した自然の摂理に則っての情動と行動であるという部分がない訳ではない。否、率直に言えばむしろ白澤にとっては最も大きな割合を占めていた。つまり気持ち悪い男ではないがひどい男ではあり、白澤はそれに対して自覚的であった。
 それを言ってしまえば桃太郎から貰う視線はひどく冷たいものになるだろうし、その視線をこれから度々貰うかと思うと気が塞ぐから言わないけれど。

(恋や愛に夢を持ってるんだねぇ、桃タロー君は)

 それが普通なのだろう。持っていい。恋愛は甘美なものと思うのも自由だ。だが。

「まぁ桃タロー君も男なんだし、分かるでしょ?」

 それを相手も了解しているはずと思い込むのは、―――間違ってる。





「―――って言う遣り取りがあってさぁ」
「きゃー、白澤さん、さいてー」
「おい女子高生みたいな言い方すんな気持ち悪い。しかも棒かよ」

 言うなら演じる、演じないなら言うな。ぴしゃりと言って白澤は酒を呷った。それにはいはいとどうでもよさそうに返したのは、なんと鬼灯だった。
 二人が並んで酒を飲んでいる。鬼灯の隣に白澤、白澤の隣に鬼灯が。常ならありえないその光景―――という訳でも実はなかった。
 何故か二人はよく居酒屋で会う。遇う。遭う。どの文字が相応しいか分からない程度に、おおよそ三回の内二回は顔を合わせていた。最初は当然のように目くじらを立てていた彼等は、しかし段々面倒になってきて、最近では喋るか喋らないかはともかく、隣同士で座るようになっていた。
 今宵もそれに漏れずばったりと会い、暫くの沈黙の後口火を切ったのは白澤で、昼間の桃太郎との会話を鬼灯に語って聞かせた。

「にしても、桃タロー君は純だねぇ」
「貴方が穢れきってるだけでは?」
「神獣になんてこと言うんだお前は。そこんじょそこらのやつよりは清らかだよ」
「きよらか…。…後で「清らか」の意味を地獄大辞典で調べなければ…」
「お前本当に失礼だな」

 酒の力を借りてか、いつもより軽口が突いて出る。こうして話しているのも悪い気はしない。酔いが覚めれば、この言い合いの声に言葉に棘が生えるけれど。今は違う、今は―――その安堵感に白澤が浸りきっている時。

「しかし、皮肉ですね」

 鬼灯が言う。ちらりと見遣れば、こちらもこちらで酒を呷るように豪快に呑みながら、酔った素振りも見せない無表情。そんな顔で何を言うかと思えば。

「桃太郎さんは貴方をよく見ている。よく理解している。なのに貴方がそれでは、ね」

 二人でいる時に、独り言を言わないでほしい。白澤は心底そう思った。しかも意味は分からないが貶されているような気がしてならない。
 自然、眉間に皺が寄る。穏やかな雰囲気を壊された不快感が表情に如実に表れ、鬼灯に向けられる。鬼灯は矢張り、意に介さないで、そのまま。

「貴方、初恋の経験、ないでしょう」

 それは疑問ですらない、断定の口調。推論の話ではなく知っていますよと突き付けられたよう。だがそんな話題、鬼灯相手に今まで登ったこともないはずで。なら、知らないはず。どうしたって知りようのないことだ。反論どころか抗議さえできたはず、なのに。

「?」

 白澤はただ、きょとん(ヽヽヽヽ)、とした。はつこい、と漢字変換さえできていない顔。酔っているからではないだろう。そんなもの、言い訳にさせない。

「恋もしたことないのに、愛だのなんだの、よくほざけますね」

 貶されている。今度は、完璧に。そうと分かっていながら、白澤はどこか呆然としていた。さっきから変換が上手くいかない。単語の区切りが分からない。当て嵌める漢字が分からない。互換ができない。耳から入る言葉が、脳の手前で止まってしまう。そんな感じに、不安定。

(あれ…?)

 分かっていたのに。

(…あれ…?)

 気づいていたはずなのに。

(あ、れ…――?)

 自分の、欠陥に。





『もっと、大事にして欲しいんですけどねぇ』

 そう零した彼は、相変わらず上司を心配する助手の顔をしていた。いや、むしろ子を心配する母かもしれない。

『最初は本当に心配してなかったんですよ。あぁこういう人なのかなぁって、それだけで。でもね、段々分かってきちゃったんです。可哀想な、と言ってしまえば身も蓋もないですけど、哀しい人だなぁ…って』

 生殖機能があればまだましだったのかな、なんて、思うくらいで…、と彼は苦笑した。

『気づいたら気になっちゃって、気にしちゃって。多分鬱陶しいと思われるでしょうけど…。それでも言わずにはいられないんですよね』

 それでいいんですよ、と慰めの声をかければ、彼はそれに少しだけ笑みを深めて目を瞑る。瞼の裏に何を見るのだろう。哀しい微笑は変わらない。

『本気になれないって哀しいです。それに気づいてないのも、哀しいです。たとえそれが真似事っていう前提でも、自分が恋愛していると思っているあの人を見るのは、辛いです…』

 素直に体目当てって言ってくれた方がすっきりするなんて、まったく困った人ですよと、寂しい顔を覗かせる。まるっきり同感だ。

『俺にはどうしてあぁなったのか皆目見当もつきませんけど…。…女性のみならず、自分の体も、もっと大事にしてください…、安売りしないでください、……って、言いたい、です…』

 呟かれたそれは、確かに祈りに似た願いだった。





 揺れる…()れる…揺さぶられている…、と認識するまで、長い時間かかった。胃のむかつきと揺れる脳に不快感を煽られて「うー…」と唸ると、一番に返されたのは大きな溜息。その後に。

「起きなさい、白澤さん。明日は私が薬の受け取りに行く日ですよ。薬、できてるんでしょうね」

 ったく急に寝ないでください迷惑です、と続けられた言葉を徐々に覚醒してきた頭で理解し、俯せながらくくと笑う。

「…何笑ってるんです? まだ寝ぼけてるんですか、この酔っ払い」
「や、何もない、何も」
「そう言いながら、顔がだらしなく笑ってますよ」

 不機嫌が鬼灯の瞳に剣呑の色を差す。これは素直に言った方がよさそうだと、白澤は早々にはぐらかすのを諦めた。

「やー…、待っててくれたんだなーって」
「…は?」
「ん? 起こしてくれただろ? 放って帰ってもよかったのにさ」

 お前らしくないなって、そう思っただけ。と言えば。

「…桃太郎さんが困るでしょうが」
「あー、確かに。寝ちゃったらきっと桃タロー君ここまで呼び出されちゃうね。桃タロー君が僕の助手ってのはそろそろ知れ渡ってるだろうし」

 それはさすがに可哀想だ、と、可哀想の基準がまったく分からない白澤の言葉に鬼灯は疲れたように溜息を吐いた。兎に角もう店を出ましょうと、白澤を急かして会計を済ませる。
 外に出れば酒気で充満していた店とは違った清々しい風が肌を冷やして通り過ぎる。それに救われながら遅れて出てきた白澤と別れ道まではと歩き出した。そして岐路まで後少し、と言うところで、鬼灯が不意に喋り出した。

「ところで、さっきの話の続きですが」
「さっきの話…?」
「貴方が寝る前の話です」

 何を話していたのだっけ。然程呑んではいないはずなのに、今夜は随分と記憶があやふやだ。だがそれを言うのも負けたようで嫌だなと、適当に話を合わせることにして頷いた。
 それも失敗したように思う。一瞬だが睨むように鬼灯は目を細めた。けれどどうでもいいと踏んだのだろう、言及してはこなかった。

「愛は兎も角、恋というのは、見えない相手、自分の傍にいない相手を焦がれる感情を言うんです。恋人達でさえ、互いが見える位置にいるなら、その場に恋は存在しない。白澤さん、貴方はそれ、ちゃんと分かってますか?」

 鬼灯の言葉に、白澤は首を傾げる。そんな話をしていただろうか、という疑問と、

「知ってるけど。それが何?」

 何故そんな当たり前のことをわざわざ言うのだろう、という疑問を抱いての当惑。それを見て取って、鬼灯は大きく、まるで白澤に見せつけるようにわざとらしく肩を竦めた。

「まぁ…、貴方には分からないでしょうね」

 その言い方にむっとする。知らず眉が寄り、口調が喧嘩腰になる。

「知ってるって言ったろ?」

 対して鬼灯はどこまでも冷めていた。表情も口調も、白澤を見る瞳すら、冬の夜空を切り取ったようにひやりとして。

「知っていることと分かっていることは、微妙にして絶対の差ですよ」

 そう言い残して、丁度別れ道に辿り着いたこともあり、白澤を放って帰ってしまった。未練もなく、振り返ることもなく。

「……なんなんだよ」

 呟く。すっきりしない。もやもやする。鬼灯の闇に消えかかった背を見ながら。

「…しょうがないじゃないか」

 ―――僕はそういう風に、創られなかったんだから

 小さな呟きは、風に攫われて誰にも、鬼灯にも、白澤自身にも、届かなかった。





『神様は、器、ですから』

 あの時自分は、そう言って彼を宥めたのだっけ。

『神は常に受動的、つまり受け入れ、受け止め、その分だけを返す。能動を求めるだけ無駄でしょう』

 宥める、というか、事実を突きつけただけだけれど。鬼灯は既にしょうがないと割り切っている。どうしようもないと諦めている。どうでもいいとは、思ってもいないのに。

『あの人はほぼ反射で、摂理を元に生きてますからね』

 白澤が白澤たる所以だ。好き勝手に生活しているように見えるが、それこそが自然の摂理、要は人間の欲求に即した生き方をしていると言える。基本的に思考がそれに準じてしまっているのだ。白澤自身は、どうにもそれが自然だと思っているようだけれど。

『恋をすっ飛ばして愛、というか性欲に走っちゃってるんです。男はそうするものだって、思い込んでるんですよ』

 あれでも神に属するものですから、普段は到底そうは思えなくても。私達には分からない縛りがあるんだと思いますよ。だから、ね。

『馬鹿だな、と思うくらいで丁度いいんです。またやってると笑ってやりなさい。貴方が気を揉んでもあの人は気づかないのだし、恐らく改めることは不可能でしょう。彼はそう(ヽヽ)創られた。だから可哀想でも哀しくても、受け止めてやってください。あの人を甘やかすことができるのは、貴方だけですから』

 確かそんなことを言ったな、と、酒で巡りの悪い頭から鬼灯はその時の会話を引き出す。まったく、なんの擁護にもなってない。第一何故自分があの偶蹄類のフォローをしなくちゃいけないんだ。腹立たしい。
 不機嫌をぶつけるように椅子が軋むまで背もたれに全体重を預け、首を反らす。額に手を当てる。熱い。目を閉じる。一呼吸。

「……本当、手のかかる人だ」

 それでもなんのかのと世話の真似事を続けている。近づきすぎて馬鹿が感染ったか。嫌だな、なんて思いながら。

「――――」

 額に当てていた手をそっと動かして口元を手の甲で塞ぐ。声を殺す。喉に感じる異物感を呑み込んで。

「…  」

 唇が、動く。唇だけが音をなぞる。触れる手がその振動を殺す。世界に誕生しなかった音を確かに感じて―――鬼灯は、笑った。それは嘲笑に近しく、憫笑に偏って。

(愚かだ。誰よりも、自分が)

 届かない。届かない。届けるつもりもない。だからこうして殺すのだ。一日一度、こうして。誰にも届かない声で呼ぶ。





 ―――白澤。

(その名は、喉を通り過ぎなかった、焦がれるものの感情に等しい。)





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 20120601
〈彼の存在の遠さに眩暈がする。夢見ることも、躊躇われるくらいに。〉





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