君と僕、僕と君。

[ 一に二を知り、二に一を見る。 ]



 淋しいものだ。いつも思う。帰る場所もなく、行く宛もなく、ただそっと光となって消えていく。その光景は、何度見ても慣れることがない。

(むごいもんだな…)

 傍らを通り過ぎた人間の一団を見る。総じて笑顔だった彼等は、何も気づいていない。自分達が生み出したものが切なさを訴えることもできずに消滅していることなんて。

(……あぁ、まただ)

 別の場所で灯火が消える。それにも人は気づかない。気づかないまま、灯火があった場所を踏みつけていく。

(さびしい、なぁ)

 自分が消えるのではないのに。消えた彼等と顔見知りだった訳でもないのに。胸が痛い。軋むようにではなく、穴が開いたような空虚さに苛まれて痛かった。

(…それは)

 いつか自分もと、思ってしまうからだろうか。





「つ…」

 頭が痛い。最悪の目覚めだ。白澤は目を閉じたまま眉間に皺を寄せ、布団の中で躰を丸めながらこめかみを押さえることで頭痛を和らげようとした。あーまたか、と息を詰めて考えていたその時。

「また頭が痛いのか、ハク」

 ひどく身近な所から声が聞こえた。…おかしいな、昨夜は一人で寝たはずなんだけど。と考えなくても声を聞けば分かる。分かって、しまう。
 はぁ…、と溜息を吐いて白澤はのろのろと目を開けた。視線の一直線上に自分より少しだけ幼い顔が見える。白澤と対をなす、麒麟がいた。

「…お前はまた僕の布団に潜り込んだのか、リン」

 同衾を許した覚えはないよ、と睨めつけても、いつものようにニカッと笑い返されるだけだ。まったくこの子は、と親のような気持ちで思う。
 白澤の少し後に生み出された麒麟は、どういう訳かひどく白澤に懐き、暇さえあれば白澤の居住にやってきた。だが如何せん、人の迷惑などまったく考えない上に昼夜問わず訪ねてくるものだから、大概のことは気にしないでいられる白澤も頭を悩ませていた。
 とは言っても、自分をハクと呼んで慕ってくれる弟のような麒麟を、白澤もリンと呼び可愛がっており、無碍にできないでいる。結局今日も「来る時は連絡しろ」とお決まりの説教をしただけに留めた。

「痛…」

 取り敢えず起きようと上体を起こした瞬間、リンとのやり取りで忘れかけていた頭痛がまた襲ってきた。ガンガンする。二日酔い並に、ひどい。膝に額をつけるような格好で頭を抱える。リンはそれを見て慣れたように薬湯を差し出してきた。

「ありがと…」

 一気に呷る。苦味が口に広がって気持ち悪い。良薬口に苦しと言うし自分が作ったものだが、これはひどい。飲みたくない。だがこれを飲まないと一日中寝込まなければならないだろう。それはできないのだ。

「マシになったか?」

 リンがぐったりとする白澤の背中を摩ってそう聞いてきた。摩擦による温かさと誰かが傍にいる安心を得て、白澤は小さく笑った。
 こういう時、気心の知れた仲というのは本当に有難い。勝手に布団の中に入って来られるのは困ったものだけれど、帳消しにしてもいいな。
 そう思いながら白澤はこれからの薬の効果に期待しつつ何とか起き上がると、感謝の意を込めてリンの額に口付ける。

「謝謝。リンのお陰で、なんとかなりそう」
「ほんと? ハクがそう言ってくれるなら、俺、一緒に暮らしてあげてもいいぜ!」
「それは困る」

 にっこり笑って断れば、なんでだよー!?、と叫ぶリンの声。それを背に白澤は台所に立った。目を瞑って一呼吸。…なんとかいけそうだ。

「まったく…毎度のことながら困ったもんだね…」

 それは、リンのことではなくて。





 事象は常に変化する。進化し、退化し、昇華し、落魄する。白澤はどこにいても常にそれを知ることができた。それが森羅万象に通じる白澤という神獣に与えられた力。
 だが、そう便利なだけでもない。当然のように反動があるのだ。
 知識の改変は自動だが、それは白澤の脳に多大な負荷をかける。それは頭痛という、最も地味ながら最も鬱陶しい形で現れ、白澤を苛んだ。日によって(それは書き換えられる情報量の差異なのか)程度は違うが、兎に角痛い。頭が割れるというか頭の中で地割れが起きているように痛い。もっと優秀に作ってくれればよかったのにと天帝を恨むが、今更言っても詮ないことだ。
 今ではなんとか頭痛との付き合い方を覚え、薬も開発した。もちろん、完璧にとはいかないけれど。

「ハク、大丈夫か?」

 また頭を押さえていたら、リンが気遣わしげに顔を覗きこんできた。あぁ朝餉の途中だったかと思い出して笑顔を作る。

「うん。ところでリン、最近はどこに行ってたの?」

 リンは昔から放浪癖があった。一箇所にとどまることができない性質(たち)らしい。気づけば百年くらいふらりとどこかへ行っているというのはよくあることだ。
 今回は十年くらいだろうか。短かったな、と内心思っていると、リンの表情が僅かに曇ったのに気がついた。目線も気落ちするのと同時に下がっていく。どうした?、と問えば、

「…あのさ、ハク」

 言いづらそう口籠りながらも、リンは言った。

「今日、一緒に行って欲しいところがあるんだ」





 そこは山の中腹にある村だった。小さな小さな、言ってしまえば学校の一学年にも満たない、一組分ほどの人数で構成された閉ざされた村。だがそれも家の数を数えればの話。実際住んでいる村人は、過疎化が進んだ所為で今ではたった一人なのだとリンは言った。

「もうこの村は終わりさ。最後の一人も、今日逝く」

 一つの小じんまりとした家の前で足を止めたリンは覚悟したように家の中に入り、白澤もそれに続く。家の構造は簡単で、また内装は簡素だった。埃っぽい室内に、長い間掃除されていないことを知る。
 観察しながら奥に進むと、寝室があった。そこに一人の老人が寝ていた。呼吸は忙しなく、意識はもうない。白澤は一目見て知る。本当に死の間際の状態だと。

「リン…」

 無意識に呼んだ声は掠れた。白澤は寝室に踏み入ろうとした右足を引っ込めた。リンも寝室の扉にもたれ掛かり、それ以上入るつもりはなさそうだった。
 遠目に死に躙り寄る老人をただ見つめる二人。それも仕方のないことだ。神獣に死は禁物。近づくことも、本当ならすべきことじゃない。
 だがリンはここに来たいと言った。何か理由があるのだろうと、白澤は流れを見守ることにした。と、突然、リンが何かを感じたように顔を一処に向けた。それは横たわる老人の傍ら。丁度二人と向かい合う所を目掛けて、

「山じぃ、姿見せろよ」

 来てやったぞ、とリンは呼びかけた。白澤も漠然とそこに誰かがいる気配を感じて見詰めていると。

「―――やれやれ、麒麟がそのような言葉遣いをするのでないよ」

 苦言を呈しながらふわりと一瞬の風と共に現れたのは、年老いた姿の山神だった。年月を刻む皺は彼を厳しく見せているが、奥に見える小さな瞳はその印象を裏切るように柔らかく優しい。まさしく山を体現したような神だった。

「聞き飽きたよ、それ」
「お主実は麒麟じゃなくて鳳凰なんじゃないか? おっと、それじゃあ鳳凰に失礼かの」
「はぁ? 何言ってんだ」
「…鳥頭って言われてるんだよ、リン」
「トリアタマだぁ? ざけんなじじい!」

 確かにこの言葉遣いはやばいな…。親心にそう思い、帰ったら一応努力してみるかと白澤が心に決めていると、山神が白澤に向かって深く叩頭したのに気がついた。白澤もそれに目礼で返す。顔を上げた山神は、一変して口元に穏やかな笑みを湛えていた。そうすると一気に好々爺の雰囲気を醸し出す。

「白澤様、このような小さな村までお越しいただき、ありがとうございます。お構いも出来ませんが、どうか…」
「あぁいいって、気にすんな」
「お主には言ってない。儂は白澤様に申し上げとるんだ」

 茶々を入れるリンに噛み付く山神。それはまるで仲の悪い祖父と孫のような会話だ。思って、白澤は柔らかく微笑んだ。
 リンは誰にでも懐く訳じゃない。心を許さない者には猫を被り、今と違ってひどく丁寧な言葉遣いになる。なのにこんな砕けた物言いで喋れる友人がいたなんて。
 もっと早く知っていればよかったと思った。もっと早く。今日よりも、前に。

(…あぁ、だって)

 今日ではもう、―――遅いのだ。

「ちぇ、最後くらい俺のこと敬えってんだ…」

 膨れたリンが呟いた言葉に白澤の表情に影が落ちる。老人を見た時と同じように、山神を見た瞬間にも白澤は気づいていた。

(力が尽きかけている…)

 山神の神気が極端に薄い。神気は人の信仰がもたらす神が存在する為に必要な糧だ。それがもう雀の涙ほどしかないと言うことは、もう何年も山神は人から信仰されていないことを、忘れ去られていたことを物語っていた。本来ならとっくに消えていても、なんら不思議ではない。

(なのに…)

 それでも最後の一人まで見守ってきたのか。最後の最後まで、人からもたらされた神気を切り詰めるようにして存在して。そうして最後の村人を看取ろうと言うのか。人はその存在を、もう、省みてはくれないのに。

「…お人好しにもほどがあるぜ、山じい」

 白澤と同じことを考えていたのか、リンはそう言って寂しげな顔をした。詰るのでなく呆れるのでもなく、ただ哀しんで。それでも、そうして存在していなければ自分と彼が会えなかったとも分かるから。今日が最後だと、分かっているから。

「そういうのも、悪く、ねぇけどさ」

 リンは笑った。無理矢理な笑顔だった。白澤だけでなく、山神だってそれに気づいただろうに。

「儂はこの村の誕生と共に生まれた。死ぬ時もこの村とともに…。それだけじゃよ」

 素直じゃねぇの。リンが言う。白澤が目を伏せる。山神が、笑った。

「麒麟、白澤様、これにて儂は失礼する。後は、良しなに」

 その言葉が終わると同時に老人がを引き取った。それを見届けて、山神が柔らかい光に包まれる。
 あぁ還るのだ。白澤は目を逸らさずそれを見ていた。自然に、空気に、天に、地に。全てに、還る。
 それはただ自分がそう思い込みたいだけと分かっていても、そうであれと白澤は願った。ただ消えるだけなんて、それではあまりにも寂しすぎるから。

「ッ、今まで楽しかったぜ、山じい!」

 リンが叫ぶ。叫ぶほどの距離もないのに、届け届けと願うように。それは通じたのだろう。

 ―――儂もだ。

 最後に力強い声が聞えて、光が、弾けた。キラキラと降る光の粒。綺麗な光景。
 呆然と見上げるリンの隣で、だが白澤は僅かに顔を顰めた。山神が消えた瞬間から、白澤の知識の、山神に関する事柄が改められる。感傷に耽る間もなく、事実が事実として書き換えられていく感覚。
 痛い。目を瞑る。痛い。眉間に皺が寄る。

(…痛い)

 心が、どうしようもなく。





「『人は愛しい。小さい存在が寄り集まって、懸命に生きようとしている。儂等はそのお手伝いじゃ』―――山じいはよくそう言ってたなぁ」

 山から村を見下ろす。先ほどまでいた家が燃えていた。死に触れない彼等がせめてと放った火。紅いそれは夜空と相反して美しく映えた。
 だが心は慰められない。沈痛な思いはどうしても拭えなかった。

「見送る為だったんだね」

 今日僕を連れてここに来たのは、と静かに呟く白澤に、リンは一瞬口を噤んで目線を下げた。沈黙が少しあって、それに耐え切れなくなったように「だって」と子どものようにリンは言う。

「…一人で、なんて、…淋しいだろ」

 それは山神のことだろうか。それともリン自身を指したのだろうか。どっちつかずの言葉に白澤は押し黙る。確かに淋しいという気持ちに嘘はないのだろう。だがその淋しさは、一人で消えることでも、一人で見送ることでもないのだろうに。

「リンは、淋しい?」

 小さな子に問いかけるようだ。リンは唇を噛んで答えず、ただ一瞬顔を歪めた。それは白澤の問い方に反発を覚えたものではなく、何かを耐える表情(かお)だった。
 そうと気づいて白澤は言葉を重ねる。瞼を閉じれば、それまでじっと見ていた炎が瞼の裏であの一瞬の光と重なった。

「僕は淋しい。あの少しの時間、彼と一緒にいただけなのに、あの人がもういないと思うと、とても淋しいよ」

 打ち解けた雰囲気の二人。リンとそんな関係を築けた神が、今まで何人いただろうか。自分が知らないだけかもしれない。だがそれでも気難しいこの麒麟に最後を見届けてもらえるような存在が、そうそういないことは分かる。大切な存在だったのだろう。あの山神は、リンにとって。
 だから、白澤は。

「リン」

 そっと瞼を押し上げて、隣に立つリンを見る。

「淋しい?」

 そうしてもう一度聞いた。リンはまた一瞬唇を噛み。

「……あぁ、」

 さみしい。

 そう言って、やっと泣いた。





 炎が鎮火するまでを見届けて、白い煙が空に向かって棚引くのを眺める。行けただろうか。あの老人も山神も、安らかに…、と白澤が思う傍ら、リンが白澤に呼びかける。顔を向ければ、リンはもう泣いてはいなかった。

「俺、帰ろうか?」

 放浪を止めて一緒に暮らそうか。そう言われているのだと理解するのに時間は掛からなかった。友の消滅を目の当たりにして気弱になっているのだろう。揺れる瞳がその証拠だ。冷静にそう分析しながら、けれど白澤は優しく微笑んで首を横に振った。

「…できないことは、言うもんじゃないよ」

 今はそうじゃなくても、リンはきっとまたどこかへ飛び出して行くだろう。それは衝動だ。押さえ付けられるものではないし、耐えるものでもない。思う存分世界を見るといい。変わり続ける世を体感するといい。自分の代わりに、自由に。

「僕がいる場所がお前の帰る場所だと思ってくれてたら、それでいい。それに僕とリンなら、離れていても互いに分かるはずだ」

 対の存在。だからきっと分かる。どちらかが危機に陥りそうな時、消えそうな時、他の誰が気づかなくとも、互いなら。

(一人にならない。一人にしない。断言はできない。不安がない訳じゃない。でもそれを、信じてる)

 ね、と笑いかければ。

「…そっか」

 そうだな、とリンは頷いた。口端には笑みがある。瞳には力強さがある。これぞリンだ、と白澤は優しく目を細めて歩き出す。それを追ってリンがその横に並んだ。

「大体、お前は僕以上にあいつと仲が悪いから、仲裁するのが面倒なんだよ」
「仲裁する必要なんてねぇじゃん、あんな鬼の為に!」
「あれでも大事な顧客なの」
「うへぇ。俺ぜってー店なんかやんない」
「リンは考えるより動く方だしね」
「あ、そーだ! 今度二人で世界一周旅行しようぜ!」
「気が向けばね」

 そんな戯れの言葉を繋ぎながら、兄弟のような微笑ましさで、二人は天へと帰っていった。





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 20120601
〈そうして世界は回っていると知っていても、やっぱり少し、淋しい。〉





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