左隣

[ 見えない横顔。 ]



 冬の空に君臨する虧月(きげつ)のようだったあいつの横に立つことを、恐れたことは一度もない。
 寧ろ抱えていたのは誇りとも又違う、感慨のようなもの。
 云えば、そう、自負のような。
 そんなものを抱きながら、俺はいつだってあいつの左隣に立っていた。
 いくら傷ついても、奴のスピードに遅れそうな時だって。
 歯を喰い縛って隣にいた。

(知らねぇだろ、お前は、そんなこと)

 知って欲しいわけじゃない。
 それで良いんだ。
 知らなくて良い。

(俺だけが知ってりゃあ、良い)

 だからずっと前を向いとけ、カカシ。
 振り返らなくて良い。
 横目で見ることも望んじゃいないんだ。
 ただ何があっても前だけを見続けて。
 逸らすなよ。
 お前が負う者を。
 お前が追わなきゃなんねぇ奴を。
 間違うな。
 それは俺じゃあねぇ。
 だからだから。
 前、向いてろ。

(俺はずっと、此処にいるから)





  紫煙は空を、ただ目指す





 濃紺の布に猫が爪を立てて引っ掻いたような、そんな月が今宵の灯り。
 それでもしっかりと存在を主張するその明かりに照らされて、上忍待機所の窓際のソファに(くずお)れるように座る男の銀髪が、キラキラと輝いていた。
 無防備に額当てを外し首筋を見せながら、けれど口布と長い前髪とで見えない顔が、男が寝ているのか死んでいるのか、どの状態なのかを傍目からでは分からなくする。
 それでもチャクラの流れを見れば起きていることも生きていることも分かって、それでもアスマは近づくことを躊躇った。
 その姿と静かすぎる空気に、踏み込んではいけない空間に迷い込んだ気になって。
 男の名を刻もうとした唇が、微かに開かれて閉ざされる。
 そうして少し逡巡した後、来た時と同じように足音と気配を消し、引き返そうとしたアスマの背に。

「なんで帰るの」

 思いの外穏やかな声が、咎める言葉を成して投げ掛けられた。
 振り返れば男は既に体を起こし、笑ってアスマを見ていた。
 型通りの笑み。
 昏い双眸。
 見て、知りながら。

「今のお前に絡んだらメンドくせぇと思ったんだよ」

 知らないふりをしてアスマは明け透けにそう云うと、男の隣に腰掛けた。
 わざわざ右と比べて幅の狭い左側に座るから、男は少し身動ぎして距離を取る。

「なんでそっち座るかなー。狭いでしょうが、あんた大きな熊さんなんだから」
「あぁ? お前が泣く理由を(こさ)えてやるほど、俺は男に優しくねぇんだよ」

 その言葉に、は?、と男がアスマを見れば、がっしりとした手にはもう煙草と燐寸(マッチ)が握られていた。
 それを見て、そうか自分が座る場所の方が風上なのかと、今更ながら気がついて、でも煙草の煙が目に染みるなんて年でないことも、今更で。
 抗議しようとする男の声を封じるように。

「カカシ」

 名を呼ばれて。

「笑えよ」

 アスマがそう、穏やかに静かに、云うから。
 カカシは一瞬言葉を喪い、そして視界の端に見えた紫煙に、視線を落とした。





 大蛇丸が裏切り、暁が動き始め、人柱力が殺され尾獣が奪い取られている。
 その事の始まりに、うちはサスケの姿が揺らぐ。
 天才と呼ばれたうちはイタチの弟、うちは一族の生き残り。
 今となっては抜け忍となったその子は、幸か不幸か、カカシの教え子だった。
 確かに格別良い師ではなかったかもしれないが、だからと云って全てがそこに還元されるわけもないだろうに。
 なのに上層部は特にそれを問題視し、強調した。
 はたけカカシの教育方針が、うちはサスケを抜け忍へと走らせたのではないだろうか―――と。
 その根も葉もない云い掛かりから始まった尋問と、何日にも及んだ呼び出し。
 何を訊かれたか、云われたかは知らない。
 ただカカシと旧知の暗部が選ばれたはずはないから、尋問は相当厳しいものになっただろう。
 それでも、カカシは見える右目でずっとへらへらと笑い続けた。
 何も云わず、カカシをよく知る上忍や暗部が心配するほど、ヤマト達零隊の奴らがやきもきするくらい、いつも通りで。
 何も思わなかったはずはない。
 何も感じなかったはずはないのに。
 サスケはきっと、カカシの中でナルトとはまた別の方向(ベクトル)で特別だった。
 同じ写輪眼を持つ者として、嘗ての仲間の同族として。
 そして何より。
 イタチという男を軸に、サスケもまた、ナルトと同様守らねばならないものだったはずだから。
 事実カカシは守り続けていた。
 いつか守れなくなった日が来ても良いように一対一の特訓もした。
 傍にいた。
 片時も離れず、というわけにはどうしたっていかなかったけれど、きっとその時間はナルトの傍にいるより長くて。
 それほど、それくらい、心を傾けたのに。

『アスマぁ』
『あ?』
『サスケ、いなくなっちゃった』

 云われて、固まったアスマに気づこうともせず。

『…また、いなくなっちゃったね』

 へらりと笑ってそう零したカカシではなくそう云わせたその子どもを。
 アスマは心底、憎んだ。





 それはカカシに限ったことではない。
 なくし続けることも、置いていかれることも。
 だからアスマが何かを思う必要は全くない。
 でも長い付き合いだ。
 嫌になるほど、アスマは何も語らないカカシの傍に長くいた。
 笑うだけのカカシの隣に。
 寂しいと云うことのできないカカシの傍に。

(お前は、どんなことも綺麗に隠してしまうけれど)

 知っていたいと思った。
 側にいたいと。
 だって誰かがこいつを把握してやらないと、こいつはきっと壊れてしまう。
 泣けないまま、云えないまま、死ぬことを望んでしまいそうで。

(云うことはない、それでも)

 傍にいてやりたいと、思ったんだ。





 そんなこと、知るはずはないだろうに。

「…なぁアスマ」

 戦友(とも)は云う。

「なんだよ」

 穏やかな顔で、嘗て戦場を一緒に駆け抜けた親友(とも)は。

「お前がいつも隣にいてくれて良かったと、思うよ」

 にこりと笑ったのだろう。
 口角を上げ、目を細めて。
 子どものように、笑っただろう。

「…ばーか」

 それを俺は見ない。
 見えない。
 それでも、分かることはあるから。

「餓鬼みてぇに恥ずかしいこと云ってんじゃねぇよ」

 ぶっきら棒にそう云って、銀の髪を乱暴に掻き乱す。
 バカ熊止めろ!、と途端に非難轟々だったけれど。

(なぁやっぱ笑ってんだろ、そう云いながら)

 分かってんだよ、カカシ。
 分かってんだ。
 ずっとそう思ってくれてた事なんて。
 分かってるんだよ、カカシ。





 左隣は俺のものだった。
 右隣は誰のものであったって良かったけれど、左隣だけは俺だけの立ち位置だった。

(見えてしまう横顔よりも、隠された横顔の見えるこの位置を死守したかった)

 綺麗に他人を騙してしまう見える横顔より。
 絶対に誰も騙せない、馬鹿正直の見えない横顔を見ていたかった。

(心に嘘を吐けない左側の表情を守りたかった)

 見ないふりをして、知らないふりをして、ずっと、…ずっと。

(―――あぁ、なのに)

「あーあ」

(悪いな、カカシ)

「アスマの云う通りだ」

(俺もお前を置いていく)

「やっぱり煙草の煙は目に染みるねぇ」

(その俺自身を)



「……また、いなくなっちゃったねぇ」



(俺は心底、憎むよ)





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 20110806





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