後日譚:黎明 玖
[誓いはただ己の心に閉まっておいた。
だから誰も知らない。
それで良い。
知る必要のないこと。
知らないでいてほしいこと。
それは願いにすら昇華した想いのカタチ。
知らなくて良い、だからその代わり。
(そばに、いて)
その代わりに、願ったことが、あるのです。
沈黙が痛いほど空気に滲みて、けれどそれに気づいた風なく気にした風なく、二人の人間がそこにいた。
蒼空の似合う太陽の髪をした子と宵空を切り取ったような夜の髪色をした子。
互いの視線は重なり合わず、睨むでもなく天井と床を見続ける。
沈黙は途切れない。
会話はない。
ただ意思の疎通は、完璧だった。
「「遅い」」
同じタイミングに同じ単語を同じ調子で言い放ち、それでも彼等二人は視線を交えぬままでい続ける。
やはり双方気にした風はなく、しかし先程と違ったのは、会話が生まれたことだった。
「あんのばかかし。ふらふらと出歩きやがって」
「お前が帰ってくることを知らなかったからだろう」
「鬼のいぬ間に、ってか? 餓鬼か」
「まぁ、俺よりはお前の存在が恐ろしいのは分からないではない」
そう云うサスケの含んだ笑みに、
「あ?」
とナルトが眉を上げてサスケを見れば。
「お前は、カカシのことになると一生懸命だからな」
「………なんか止めろよ、その云い方」
鳥肌が…と腕を摩るナルトの服は、暗部服。
サスケも任務から帰ってそのまま寝てしまったので、暗部服のままだった。
互いにその姿に気づき、見遣って、ハァ、と一つ溜息。
「……カカシ関連だろう」
「……お前もそうだろうが」
サスケはカカシに変化してまでカカシの代行をし、ナルトはナルトで本来カカシに課される筈だった任務の肩代わり。
どっちもカカシに纏わる任務を終えたその後であることに、些かうんざりしたようだった。
「なんか、嫌だ」
サスケのはっきりとした素直な発言に、ナルトもうんうんと頷いて。
でも、と云って、苦笑い。
「まぁ、しょーがない、ってば」
そう云われれば、そうだな、としかサスケも云いようがなくて、こちらもこちらで苦笑い。
「しょうがない、か」
「…うん」
「そうだな」
「な」
「……」
「……」
「…なぁ、ナルト」
「んぁ?」
「手、出せ」
「はい?」
「良いから」
唐突な要求に戸惑いながらもナルトが素直に右手を出せば、サスケがそれに触れてきた。
そのことに、猫であれば尻尾が逆立つほど、ナルトは驚いた。
表面上は目を見開いただけの変化だったけれど。
とてもとても、驚いたのだ。
『―――……ちかづくな』
闇の中、響いた幼子の声。
禁術の結界を張り巡らした中で一人、たった一人、昏闇に耐えていた夜色の子。
人の輪郭すら分からぬ真正の黒一色のその部屋で、ただ一つ、黒に染まらない色があった。
双つの、紅の焔。
漆黒に浮かぶその双玉が、破れぬ筈の結界を破り侵入してきた者を睨み据えていた。
『ちかづくな。ふれるな。おれに、かかわるな』
稚い声は真夜中の空の冷たさ。
それに返る声は、
『…おまえ、めいれいばっかだってばよ』
真昼の風の、温かさ。
それを感じたよう、夜の子が、初めて触れた温度に戸惑うように微かに首を竦めた気配。
見えずとも感じて、昼の子が口端でニカッと笑う。
そして、手を差し伸べて、云ったのだ。
『なぁ、こっからでねぇ?』
『…なにをばかな』
『ばかなことじゃねぇよ。おれかしこいし』
『……』
『うたがうなってば。このけっかいといたの、おれなんだから』
『そういういみじゃない。ここからでることになんのいみがあるのかときいてるんだ』
『いみ?』
夜の子がそこにいることには、理由と、そして意味があった。
囚われているのではない。
夜の子には自分を閉じ込めている禁術を破る術が既にあり、ただそれを使っていないだけだった。
飽き飽きとした黒の景色。
そろそろ出たいな、と思った時。
指先にチャクラを練り、さて解術の印を結ぼうか。
それは、何度も思ったことだった。
(………)
けれど結局、何度そう思ったって夜の子はここにいたままだった。
暗い中、何度太陽が上り月が沈み、日と年がどれほど境界線を跨いだのかも知らないまま。
自分の境遇を受け入れないまま自分を自分で放置したまま。
夜の子は、ずっとここに埋れていた。
(いらないこ…きけんなこ…あぶないこ…ばけもの…)
隔離されるまでに訊いた自分を指すらしい単語を頭の中で反復して、夜の子はぼんやりと過ごす。
寝ることも起きることも億劫で。
死ぬことも面倒で。
ただ、生きていた。
生きていたから生きていた。
死んでいたら、死んだだろうに。
(……はやく)
だれか 。
その後の言葉は、いつだって眠りに引き摺られて、覚えてなんかなかったのに。
『いみなんて、ないってば』
『…ない?』
あっけらかんと云われた言葉に、夜の子は訝しげ。
意味なく自分を逃がすとは、一体全体こいつは何を考えているのやら。
と、半眼でじとっと見てやれば、ただ、と昼の子が言葉を継ぎ足して、にこりと笑う。
『だれかきてって、おまえに、よばれたきがしたんだけどな』
(だれか、きて…?)
それは、あぁそれは。
(はやく)
(だれか)
(だれか―――きて)
それは、夢の淵に零れ落ちてった筈の、行方知れずの言葉。
眠りと共に失ってきた言葉の端っこ。
それをやっと夜の子どもは思い出し、半月だった両の目が、真ん丸な月のように見開かれた。
それを昼の子が可笑しそうに見て。
『やっぱ、おまえだったのか』
なぁなぁ、でよう、ここを。
おれんとこにいこうってば。
そう云って一歩踏み出し、夜の子に触れようとした瞬間。
夜の子の微かな気配が移動した。
それと共に殺気に似たものが一気に部屋に充満する。
『……ちかづくなといった。ふれるな、といった』
声の裏側に隠された震えは、怒りでなく怯え。
それは。
『…じぶんのちからが、こわいか?』
誰かに危害を加えられた経験からではなく、誰かに危害を加えた経験からの、怯えだ。
『!』
云い当てた昼の子は、絶句する夜の子の方を躊躇いなく向き、すたすたと歩み寄る。
警戒の色が増し、殺気の密度が濃くなった。
それでも昼の子は臆せず夜の子に近づき、そして膝を突き合わせるように、すれすれのところでしゃがみ込む。
閉ざされていた紅玉が、諦めたように曝された。
キラキラと輝いて、昼の子を映す。
やっぱり笑って、昼の子は夜の子のその瞳を覗き込む。
『なぁやっぱりいこう。ここをでよう』
『…いやだ』
『なんで?』
『……おまえこそ』
『ん?』
『おまえこそ、なぜ、おれをここからだそうとする?』
意味はないと云った。
誰かを求めた自分の声が訊こえたからだと。
でも呼んだだけだ、外に出たいと願った訳じゃない。
自分の言葉を反芻し、そう主張し何故だと問う夜の子に。
『だって』
ここは、さみしすぎるだろう?
昼の子は、何でもない風にそう云って。
夜の子を、二度目の絶句に追い込んだ。
『さみ、しい?』
『うん』
『…それだけ?』
『うん』
『それだけで、でよう、と?』
『うん』
なんだ、それは。
ぽろりと紅い瞳が零れ落ちてしまいそうなほど、夜の子は吃驚して言葉をなくす。
なくして少し経った時、ぽろりと何かが堕ちた音。
最初はとうとう見開きすぎた瞳が堕ちたのかと思った。
けれど。
ぽろりぽろり、ぽろ、り。
次々とそれは堕ちていく。
瞳であれば
なら何が落ち続けているのかと思いきや。
『なんだ、なくほどさびしいのか』
昼の子の声に、答えを知る。
(…なみ、だ?)
ぽろぽろほろほろ。
零れ続けるそれは、何故だろう、見てきた涙と違うような気がした。
みんなみんなが夜の子の前で流した涙は、痛みや恐怖を感じた時のそれで、見ていて雨のようだと思っていた。
だからきっと冷たいのだろうと。
その認識が間違っていたのか、それともこの涙がそれとはまた異なるのか。
分からないけれど、でも。
夜の子が初めて涙というものを流し、それが温かいものだと知った、その日。
ひっそりと夜の子の住居が移されたのは、木ノ葉の歴史の闇に葬り去られた事実だった。
それからもう何年も経つ。
その間に力を付け、力を隠し、その中でカカシに出会った訳だけど。
一度だってサスケがナルトに触れたことはなかった。
サスケは誰かに触れること、触れられることを極端に恐れた。
過去何があったのか、ある程度の想像は付くから訊くような真似はしなかったけれど。
触れなくても生活はできる。
怯えさせ怖がらせるなら接触しない生活を選び、それを実行することなんてナルトには簡単なことで、例えば目隠しをしていたとしても、ナルトがサスケに触れず一日を終えることなど造作もない。
そんな生活を、十年にも渡って続けてきたのに。
「ど、した?」
思わず揺れた声に、サスケが小さく笑う。
けれどその理由をサスケも思い至るから、揶揄わずにただ云った。
「お裾分け」
「…は?」
思わぬ言葉に時間差で首を傾げれば、その間にするりと小指に小指を絡ませられてきゅうと力を入れられる。
云うところの指切りだと気づき、しかしそれがお裾分けであるという意味が分からなくて、更に首を傾げた方に落とせば。
「カカシが、約束を忘れるなと」
ふわっと一度瞳を伏せてまた開かれたサスケのそれは、幼い頃の紅の焔を覗かせていて。
「サスケ…」
久しく見た、紅く紅いその双眸。
禍々しいと忌み嫌われたそれが、今は鎮火寸前の淋しい焔に見えて、哀しい。
「あいつは、ずるい」
ずるい、な…。
そしてそんなことを、サスケが、云うから。
「……しょうがないって」
そういう奴なんだよとナルトは云う。
「ずるくて、馬鹿なんだから」
だから。
「だから、誓ったんだろ?」
―――俺達は。
な、と絡めたままの指に力を入れれば、サスケも微笑んでそれに応える。
思えば初めての触れ合い。
最初に出会い、連れ添い、共に生きた二人の。
初めての、接触。
互いに互いでなくカカシが最初の接触者であることに一瞬だけ目を瞑り、笑い合う。
そして。
「さて」
「そろそろ、良いだろう」
その言葉と共に解かれる誓約の指。
けれど二人は気にしない。
今日できたのなら、明日だってできる。
それを信じて、今するべきことをする為に。
「カカシは?」
「北北西、距離は約一里、木の上」
「誰かと一緒だな…暗部か」
「気を当てるのはカカシだけで良いだろう」
「あ、賭けようぜ?」
「三分。勝ったら次お前がカカシの代わり」
「俺は怪我考慮に入れて五分。っていつもカカシの代わりしてんのと変わんねぇじゃん、それ。ま、俺が勝ったらあの禁術書、貰うぜ」
「………」
「っし、じゃあ」
始めようぜ。
その言葉が賭けの始まり。
二人きりの時間の終わり。
三人目の帰宅を、そうして二人は静かに待つ。
20110306