後日譚:黎明

[ 百合(ロザリオ):稀少価値 ]



 想い返せば、俺の人生はとても幸せとは云い難いものだったのかもしれない。
 色々あって。
 言葉にできないほどあって。
 …忘れたいほど、たくさんのことがあって。

(あぁけれど)

 穏やかな午後の白い日差しも。
 鮮烈に残る紅の記憶も。
 いつも傍にいた黄色の軌跡も。
 一人抱え込むには、大きすぎる幸せと想いを遺してくれた。

(だからだから、きっと)

 幸せでなかったと云ったのなら、それは本当のことじゃない。
 辛かったけれど、哀しかったけれど。
 絶望だってしたけれど。

(そう云い切ってしまえば、笑ったあの日が嘘になる)

 その思い出を、その記憶を。
 嘘にはしたくないから。

(―――だから)

 いつかいつか。
 里の礎に眠るその時にも。

(どうか幸せであれ)

 悔い無く生きて、死ねたら良い。
 その時はどうか。

(あの子達よりも先であることを…)

 心から、願う。





 ぽつりぽつりと雨が降る。
 夕方から曇り空だったが、夜になって本格的に降ってきた。
 それを持ち前の優れた聴覚で知ったナルトは、不意に布団の中から顔を上げて眉間に皺を寄せる。

「どしたの、ナルト」

 少し離れたところで巻物を読んでいたカカシがそれに気づき、巻物から顔を上げて問いかける。
 ナルトはそれにぴくりと反応してちらりと一瞬そちらを向いたが、結局カカシから視線を逸らして布団の中に逆戻り。

「…なんでもねぇよ」

 零されたのは、素っ気ないと云うよりは固い声。
 その返しに、カカシが小さく苦笑した気配。

「そう」

 けれど何でもないという風に、ただ相槌だけを打つから。

(……なんか思ったんなら、云えってんだ)

 ナルトは思わずそう、心の中で不貞腐れる。
 そして、思った。

(なぁんで、こうなったんだろう)

 二人の間に流れる微妙な空気。
 例えあと一人、ここの住人であるサスケがいたって変わりはしない。
 いや、更に気まずさが増すだけだ。
 それも仕方ないと思う。

(…だって俺、何も知らねぇもん…カカシ(あいつ)のこと)

 というのも。
 つい先日ナルトとサスケが使用している隠れ家の新たな住人になったカカシと彼等が知り合ったのは、まだほんのひと月ほど前のことだ。
 しかも言葉を正しく使うのなら、その時、まだ互いに知り合ってはいない。
 ナルトが一方的に知っただけ。
 任務で瀕死の重傷を負い、仲間に背負われて帰ってきたカカシを見て、イルカから名前を、そしてカカシが二人をずっと見守ってきたことを訊いた。
 だから知ったと云っても、そのくらい。
 為人(ひととなり)を知った訳ではなく、最低限の他者紹介を受けただけ。

『あとは、お前達がカカシさんと直に付き合って知っていけば良いよ』

 そうイルカに云われて、あぁそれもそうだな、と頷いたのだけれど。

(まさか、一緒に暮らすなんて…)

 思いもしなかった。
 元よりこの隠れ家はナルトがサスケをうちはの本宅から連れ出した時にサスケを匿っていた家で、うちはがサスケを遺して滅亡した後も、使い勝手の良さから二人が好んで使っていた。
 しかし当然、二人とも他にちゃんと所有する家がある以上、毎日ここでのんびりと一昼夜を過ごしている訳でもない。
 カカシもどこかは知らないが今まで暮らしていた家を持っている筈で、だから暮らすと云っても週に数日、ナルトとサスケがほぼ入り浸っているこの隠れ家で寝泊りする、というだけの話なのだが。

(〈だけ〉って云ってしまうには、結構ヘヴィな問題だぜこれ)

 カカシには、感謝している。
 知らなかったとは云え、今までずっと陰ながら見守ってくれてたこと。
 本当ならば自分達が駆りだされていたかもしれない危険な任務を、全て余すところなく肩代わりしてくれていたこと。
 その為に、何度も死にそうになっていたこと。
 感謝はしているし、感動もした。
 けれど。

(だからって、なぁ…)

 元々ナルトもサスケも、対人関係を良好に築けるタイプの人間ではない。
 ナルトとサスケは同じだったから、一緒になれた。
 二人とイルカは似ていたから、傍にいられた。
 しかしカカシは、どうなのだろう。
 それが分からないし、分かろうとするのも、躊躇われた。

(俺と、俺達とこいつは―――どう、関わっていけるだろう)

 正直云えば、怖かった。
 怖くて怖くて、堪らない。
 何がそうまでして怖いのかは、本当にまったく、分からないのだけれど。

(……まぁ、でも)

 決まったことだ。
 決めたことだ。

(ここで自分が歩み寄らなければ、これから先、やっていける筈もない)

 そうナルトにしては前向きに思い直し、そろりそろりと布団から這い出る。
 目線を巻物に戻してはいたけれど、気配はずっと読んでいたのだろう、カカシはナルトが眼を向けた瞬間、寸分違わず視線を合わせてきた。
 それに少しだけ戸惑いながら、ナルトは布団の上で胡座をかいて。

「……なぁ、あんた」

 と呼び掛ける。
 カカシはそれに、

「ん?」

 とだけ云って小首を傾げた。
 緊張も怪訝さも持ち合わせないその瞳を見上げながら、ナルトも首を傾げて問いたのだ。

「今更だけどさ、なんで、俺達を守ってきたんだ?」

 そこらへんの背後関係も、実はあまり知らない。
 さっきも述べたとおり、ナルトがカカシについて知るのは名前と肩書きくらいなものだ。
 あとカカシが誰かにそうするよう頼まれたことは、知っているのだけれど。

(あぁだからって「義務」、の一言で片付けられたら、さすがに絶句するかな…)

 望みすぎだろうか。
 期待しすぎだろうか。
 でも取り敢えず、少しは哀しいと思うかもしれない。
 分からないが。
 と、カカシからの返答を待つ間にうだうだと考えていると。

「……ナルトは今、幸せ?」
「は?」

 唐突な問いに、ナルトは目を真ん丸くさせる。
 突然すぎて驚いて、巫山戯ているのだろうかと勘繰ったけれど。
 でもここ数日で見慣れた眠たげなカカシの眼が、穏やかに笑いながらも本気の色を湛えていたから。
 だからふと、答えてやろうと思った。
 答えてやらねばなるまいと、何故か思った。
 気まぐれだけど―――と、心の中で云い訳なんかして。

「ま、概ね、な」
「何で?」
「だって飢えてねーし雨風凌げる家はあるし、少ないけど貯蓄はあるしあり余るほど力もあるし、サスケもいるしイルカもいる。不便を感じたことがないとは云わねぇけど、でもそんだけそろってりゃあ十分だろ」

 だって―――とそこでナルトは不意に視線をカカシから逸らして空中に固定して。

「元は、なぁんもなかったんだから」

 乾いた声で、そう云った。
 そこに感情は、見いだせない。

(…そう)

 何も、なかったのだ。
 気づかない間にナルトは知らない家で一人暮らしをしていて、そこにはナルトしかいなくて、何故自分がそこにいるのかも分からないまま、それでも屋根があるからそこにいた。
 自分以外の存在が嘗てそこにいた痕跡は一つもなくて、親なんて当然、知人も親戚も、見たことはない。
 それに冷蔵庫には最低限の食材がいつも入っていて、減ってもいつの間にか元通り。
 週に一度届けられる金もあった。
 差出人の分からない食料や金なんか気持ち悪い、と云っていられる身分ではなかったから、ナルトは有り難いとは思わないまでも、まぁ嬉しいな程度には思って、遠慮無く使った。
 だってそうしなければ嫌われ者で下忍ですらない子どもは、どうしたって生きていられなかったから。
 バケモノだと恐れられたってナルトはその頃小さな子どもでしかなく、ナルトはその事実を悟り憎みながら生きてきて、里人はその事実を知らずに生きて憎んでいた。

「その援助だって、可哀想だからとか生きてほしいと願われてるからじゃなくて、俺が俺である故に生かし続ける為だって、百も承知だったけど」

 それでも良かった。
 それでも生きた。
 いつかサスケに会えると思っていた訳じゃない。
 いつかイルカに会えると思っていた訳じゃない。
 いつか幸せになれると、そんなこと思っていた訳じゃない。

「ただ、死にたくなかったんだよ、俺は」

 無為に、何もなく。
 ただ死んでいくのが嫌だった。

「独りで死ぬのが、嫌だったんだろう」

 感慨もなく、そう思う。
 だからこそ。

「その当時を思えば、今の環境は幸せにすぎるな」

 と。
 知らずにニッとナルトは笑む。
 それを見て、それを訊いて。
 カカシはそっかと小さく笑い。
 仄かに嬉しそうに笑い。

「…幸せってさ、二つ、あると思うんだよね」
「二つ?」
「そう。一つは受け継ぐもので、それをただ享受する、そんな幸せ」

 とカカシは微かに目を細めながらそう云った。
 そうして思い出すのは、まだ自分の身長と目線が低かった頃。
 自分と、あと一人しかいなかった家族の風景。
 思い出らしい思い出なんか、挙げるほどもない。
 それでも、そうだとしても。
 小さいけれど家があって、親がちゃんといて、穏やかに貧しくもなく暮らせて。
 そしてなによりも。
 愛されていた。
 例え置いて行かれた過去がどうしたって事実でも。
 それは胸を張れる。
 その愛を、カカシはちゃんと覚えてるから。
 だからこれは一つの幸せの形。
 誰かから誰かに贈る、幸せの連鎖。
 そして。

「もう一つは、自分で掴み取ろうと努力して、それに心動かされた誰かが手を差し伸べて成就する…そんな幸せがね」

 何もない状態から何かを求めるのは孤独な戦争と同じこと。
 それでも諦めなければ。
 求めることを、止めなければ。
 稀に手にできる奇跡。
 それが、もう一つの幸せの形。

「でね、ナルトが今幸せだって云うんなら、多分、って云うか絶対的にナルトは後者じゃない」

 それは、哀しいことなのかもしれないけれど。

「でも云い換えれば、諦めなかったってことでしょ。掴み取ろうとしてくれたんだよね」

 幸せを。
 そう願うことすら、ナルトの幼少期を考えれば、きっときっと難しかったのに。

「だから、そんなナルトが俺は好きで」

 だからこそ、守ってきたんだよ。

 事の始まりはそんな感情に左右されたものではなかったけれど。
 哀しい云い方をすれば、義務だったけれど。
 見ていて、守ってきて。
 いつからか、幸せを願うようになっていた。
 幸せになってほしいと、そう願うことは頼まれたことではなかったのに。

「好きだから守りたかった。好きだから、幸せになってほしかった」

 ただそれだけのことだよと。
 目を細め、優しく優しく、笑うから。

「……例えそれが」

 自分の幸せと引き換えでも?

 ナルトは意地悪な問いだと分かっていて、そう訊いた。
 けれど実際、思っていること。
 だってカカシが幸せだなんて、ナルトは到底思えなかった。
 他人の為に生きて、他人の幸せを願って。
 でもそれで仕事に忙殺されて。
 死にそうな目にあって。

『誰かの幸せを願うなら、そう願う自分だって幸せじゃなきゃいけない』

 イルカの言葉。
 訊いた時は良く分からなかったけれど、今なら分かる。

(だってそんなの、嫌なんだ)

 幸せを願われて不幸せになられちゃあ、こっちの立つ瀬がない。
 こっちの立場がない。
 それはとても、辛いのだ。

(幸せになれと云うのなら、あんただって幸せになるべきなんだよ)

 そう、ナルトは思うのだけれど。

「…俺は、自分が不幸だなんて、今まで一度も思ったことはなかったよ」

 カカシはそう云って、でも、とふにゃりと苦笑する。

「それは幸せ不幸せっていう次元の話じゃあなかったから、なのかもね」
「…どういう、こと?」
「生きるか死ぬかの問題だったってことだよ」

 穏やかに緩やかに。
 昼下がりの太陽のように微笑みながら、カカシはそんなことを云って。

「ナルトと里を俺に頼んだ人はね、俺にとって二人目の大切な人だった。傍にいたい人だった。そう思える、最後の人だった」

 その人がいなくなれば、多分生きていけないくらい、好きだったよ。

 静かに静かに、独白する。
 静かに静かに、想いを馳せる。

「今思えば、それに気づいてたのかな。自分がいなくなれば、俺も生きるのを諦めちゃうのかもしれないって、知っていたのかもしれない」

 だからきっと、頼んだのだろう。
 だからきっと、頼まれたのだろう。
 だからだから、あの人が死んだ後。

「ナルトを守ることが、俺の生きる理由になった」

 だからね、不幸なんかじゃなかったよ。
 見守ることも死にかけることも。
 自分が頑張ってナルトが生きているのなら辛くなんかなかった。
 あの人の頼みを反故にしたくないから頑張れた。

「生きて、こられた」

 けれど。
 だけど。

「昔の話だけどね」

 そう、それはもう、嘗てのこと。

「だから今、ようやく、俺は幸せなのかもしれない」

 幸せを願った相手の傍にいられるようになった今がきっと、生き死にの次元から抜けだした先の、幸せなのだろうから。

「だから、…うん」

 ありがと。

 とカカシが零したその言葉にその笑顔には。
 色々なものが含まれて、一括りにされすぎて。
 逆に何がそうなのか分からなくて。
 だから一瞬呆けたナルトも、その乱暴で優しい一言に思わず笑みを零してははと笑う。

「なんだ、それ」

 そう、屈託なく笑いながら。
 笑うその裏側で。
 ナルトは気づいてしまった。
 カカシとの会話の前、意味もなく恐怖していた理由。
 新たな対人関係に怯えていたのだろうかと、ひどく適当に思っていた。

(馬鹿な)

 そんなものじゃあ、ない。

(そんなもので、ある筈がない)

 笑える笑える。
 薮蛇だ。

(守ると決めた。同じ分だけ、傷つこうと)
(幸せを願われた分だけ、願おうと)

 けれどこれじゃあ、

『―――生きて、こられた』

 次元が、違う。

(昔の話? …嘘吐けよ)

 だってきっと、ナルトが死ねばカカシは死ぬ。
 里が死んでも同じこと。
 昔そう決めていたように。
 今だって。

(それは予感でも勘でも推論でもなく、既に確定事項で決定事項だ)

 言葉の端々に滲む、自然すぎる本気の色。
 見逃してしまいそうな、見過ごしてしまいそうな。
 双眸の奥の、静かな決意。
 黒玉の誓いと、紅玉の約束。

(それは決して色褪せない)

 顔に笑みを貼り付けながら、冷や汗が背を這う感覚を手を握りしめることで飼い殺す。
 笑って笑って、心の中で恐怖しながら。

(……死ねない)

 ナルトは、思った。

(こいつを死なせない為に、俺達は)

 それは幸せの為じゃない。
 生きる為じゃない。
 死なせない為で。
 生かす為だ。

(喪うことに疲れ切ったこいつは、きっともう一度の喪失にも耐え切れない)

 だから一人でいたのか。
 だから一人きりで守ってきたのか。
 孤独な戦争を、続けてきたのか。

(次元が違う…深すぎる)

 それでも。

(…知ってしまった。訊いてしまった)

 知らなければ訊かなければ。
 まだせめて、良かったのに。

(関わってしまった)

 だからもう、〈どう〉、なんてそんな、事の成り行きを見据えた関係は望めない。
 行き当たりばったり。
 正面から付き合うしか他、ないだろう。

(怖い、な)

 とても怖い。
 とてもとても、怖かった。

(怖いけど、でも)

 カカシを見る。
 穏やかな瞳と緩やかな笑み。
 相反する、凄絶な過去と寂寞の誓約。

(そのどちらも、受け継ぐには良い頃だ)

 だから俺は、俺達は。

『俺だってあんたを守るよ』

 そう、誓ったのだから。
 だったら。

「強く、なんねぇとなぁ」

 思わず呟いたそれに。

「ほどほどにね」

 と笑ったカカシ。

(おめぇの為だよ…)

 とは云わないまま、その笑みに綺麗に笑み返し。

「ばかかし」

 ナルトはそう、宣った。





 幸せには二種類あるんだと。
 幸せをそのまま受け継ぐ幸せ。
 新たな幸せを誰かと育む幸せ。
 俺は後者で、多分カカシは前者だった。
 でもきっと、今のカカシは後者だから。
 喪った幸せはもう戻らないけれど。
 新たな幸せを育むことはできるから。

(ならば今度は俺達が、カカシに手を差し伸べることができたら良い)

 手を差し伸べられたように、次は俺達がしてやれたら良い。

(だからだから)

 守れたら良い、幸せになれたら良い。
 喪うことが怖いのなら喪わせない。
 死なないと誓うから。

「生きろよ、カカシ」

 ばかかしと云う呼称に驚いて子どものように目を見開かせるカカシにナルトはすっと近づいて、そっとその銀髪を撫でる。
 撫でて、云った。
 願うように祈るように。
 慈しむように愛惜しむように。

「だから」

 生きて生きて生きて死ね。

 死ぬのは存分に生きてからで十分だ。
 だから生きろ、カカシ。
 綺麗に生きようとするな。
 無様に生きろ。
 死ぬことを恐れて生きてくれ。

「…忍なのに?」
「お前だからだ」

 問われて、云い切る。
 カカシはそれにも目を開いて、絶句して。
 でも終いにはふわりと笑って。

「…先生みたい」

 目の端には、涙。
 その言葉もその涙も、意味も理由も分からなかったけれど。

「レアだぜ」

 だから覚えとけ。

 云ってまたさらりと撫でれば。

「うん」

 小さく上下した頭。
 素直な返事に、よろしいとナルトも頷いて。

(―――雨が、あがった)

 耳を澄ましてそれを知り。
 なんとなく、流れのまま。
 月のように静かに笑んで。

(いつかいつか、穏やかな夜がこいつに訪れますように)

 ひっそりとそう、願ってみた。





戻る



 20110320





PAGE TOP

inserted by FC2 system