本篇:夜明け前 陸
[ ネメシア:偽りのない心 ]太陽が西へと沈むさまをじっと見守る二つの影。
夜を待っていた。
刻一刻と変わりゆく空を、身動きもせず座り、静かに見詰めながら。
そうして時折交わされる無意味な言葉が底を尽き始めた頃。
ふと金の子がちらりと空から視線を外して隣を見た。
膝を抱えていた黒の子はそれを知り、彼もまたちらりと下から見上げるように金の子の視線に合わせた。
金の子は訊く。
……怖いか?、と。
脈略もない問いを、けれど黒の子は穏やかに受け止め、緩く首を振って否定を示す。
…そか、と金の子は落胆したような安堵したような、どちらともつかない返事をしてまた空を見た。
嘘だ。
しばらくして、金の子を見上げたままでいた黒の子がぽつりとそう云った。
金の子が視線を戻せば、黒の子は仄かに笑って嘘だともう一度繰り返す。
…少し、怖い。
矯めて零された言葉は揺れることを知らない水面のようだったけれど、膝を抱く手が握られたのを視界の端で確かに見て。
金の子も、笑む。
…俺もだ。
夜を待つ、ただ静かに。
何かが変わるかも知れない今日の夜を。
今はまだ橙が占める空を蒼と黒の瞳に映して、そっと彼等は待っていた。
そして夜は、やってきた。
「ひっでー顔」
突然、そんな声が眠りの淵を彷徨っていたカカシの耳を打ち、意識が徐に浮上していく。
その過程でぐらぐらする頭に唸りながら、目の辺りに引き攣る感覚を覚えて擦れば、ぱらぱらと何かが剥落する。
しばし何かと考えて、あぁそうかと思い至った。
泣いていたのだっけ、自分は。
ならば、そうか。
泣き疲れて、眠ったか。
―――何故?
(……馬鹿馬鹿しい)
眉間に皺寄せ涙の残滓を払うように手を振り心の中に吐き捨てると、カカシはそう云えば声が聞こえたような…とやっと瞼を押し上げて世界を見た。
ぼんやりとした視界は黒一色。
太陽と共に目覚めたはずなのに、既に世界は夜だった。
(こんなに寝たの…いつぶりだろう…)
と。
まだ寝ぼけたままの頭でうつらとそんなことを考えていたら。
「やっと起きたか」
先程訊こえた気がした声とまるきり同じ声が至極近くで訊こえて、驚く。
意識にかかっていた靄はその一瞬で消え、素早くその方向へ視線を走らせれば、カカシを覗き込むような格好で小さな影が二つ、ベッドに寄りかかっていて。
「――――」
見据えて、気づく。
見開くまもなく、何故と知らずに唇が動いた。
声には出ない。
一言も、呻きだって。
(なん、で……どうして…?)
膨れ上がる疑問と別に、瞠目した双眸は闇に紛れているはずの彼等の姿を哀しいほど鮮明に特定の誰かの形に切り抜いていた。
朔の日の次の夜で、例え月の光がどれほど少量でも。
存外見ようとすれば見えてしまうもので。
見ようとしなくても見えてしまうもので。
カカシは見てしまった。
知ってしまった。
そこにいる、子等を。
「ナル、ト…?」
「おぅ」
「…サスケ…?」
「…あぁ」
なんでいるの―――と、泣きたい気持ちで思う。
生涯会うはずはなかった。
この二人には。
道で擦れ違うことも顔を見合わせることも。
たった一度の例外なく。
なかったはずなのに。
「やっぱ、あんたなんだ」
嬉々として云われた言葉が、胸に刺さる。
(……誰か)
夢だと云って、今見る全て、感じるものも。
名を呼び応えられた事実に目を瞑って、往生際悪くカカシはそう祈った。
あぁ確かに、泣きつき眠るその際で、傍にいてと自分は願ったけれど。
(それは―――この子達じゃあ、ないのに)
そう思うカカシの心を、読んだわけではないだろうに。
片方の影、ナルトが、その小さな手をカカシに伸ばす。
指先が、拙くカカシの頬に触れた。
冷たい指、可哀想なほど。
でもだからこそ、それが夢であるはずはなくて。
カカシはふわりと瞼を伏せた。
認めざるを得ないと悟り、頬と指とで混じり始めた体温にそっと心を寄せながら、静かに質す。
「…イルカせんせが、云った?」
闇に沈んだその声に気づきながらも、ナルトは真摯にあぁと答えて頷き返す。
「俺達を守る為に、戦ってる奴がいるって」
聞いて、カカシは小さく口端を曲げて笑った。
(あの人は…そういう、人だ)
ある意味で厳しく容赦がない。
その上で、優しい人なのだ。
優しくて優しくて―――酷い人。
(……ならば)
包み隠さず云っただろう。
カカシが望まないと知りながら、それでも。
云ったのだろう。
元々カカシはイルカとナルト達との接触すら望んではいなかった。
頼んだ時、敢えてその言葉を省いたのに。
見守ってほしいと、だからそれだけ云ったのに。
(それすら知って、知りながら――…)
一瞬顔を俯けて、上げていた口角を下げる。
そして。
「余計なことを…」
傍の二人にも訊こえないほど低く云い捨てたカカシは、受け入れていた指を振り払う。
パン―――と軽い音がして、それはいとも容易く離れていった。
ナルトはそれに目を開いて驚いて、サスケは無言で目を細めた。
そんなこと、知らない素振りでカカシは笑う。
朗らかににこやかに、綺麗に笑って、云った。
「忘れてよ、ね」
「…は?」
「イルカせんせの云ったことなんて、気にしないで」
「………」
「そんなわけないじゃん。誰かの為に死ぬ気で戦うなんて、俺のキャラじゃないよ」
「…じゃあ、なんで…俺達のこと…」
「有名人だからだよ。九尾の器いれものになった子と、うちはの異端児と呼ばれる子を、知らないわけないでショ」
「っ、あんた…!」
「本当のことだよ。まぁ兎に角、イルカせんせに何吹き込まれたのか知らないけどさ、俺はそーゆー任務を受けてるだけ。任務なの、任務。君達を守るって建前で、監視してただけだよ」
「…ッ」
「そんな危険な任務、俺くらいじゃないと務まんないからって任されてるだけだからさ、だから変な思い込みとか止めてよ、ほんと。だから、まーこれからも俺がこの任務担当すると思うけど、知らないふりして守られてなさい」
それが良いよ、子どもはね―――と。
笑って何でもない振りで云うカカシを数瞬呆然と見たナルトは、けれどその数瞬後、少し伏せた双眸に憐憫の影を忍ばせた。
「……あんた」
「何?」
「あんたってさ…こう、どーしようもなく」
「…だから何」
「演技が下手だな」
「は?」
訊き返した瞬間、カカシはナルトに頭を押さえつけられていた。
と云うよりもそれは、力の加減の分からない子どもが無理に相手の髪を撫でる、その動作に似て。
「ちょ、痛い! 痛いってば!! ってかいきなり何さ!?」
抗議するカカシを無視して、ナルトはぐしゃぐしゃと思いっきり乱暴にカカシの髪を掻き乱した。
無言で、ただひたすら。
その意図を知ったわけでも汲み取ったわけでもなかったけれど、カカシはしばらくして不意に声をあげるのを止めた。
すると僅かに力が緩められ、さわさわと、ただ髪の撫ぜられる音だけが夜に響く。
それでも一つの空間に三人の人間がいるには静かすぎて。
だから少し、ほんのほんの、少しだけ。
手からすり抜けて行った人達を…人を、思い出して。
色違いの二つの瞳に、薄らと涙が滲んだ頃に。
「…あまり馬鹿なこと、云ってんじゃねぇよ」
ナルトの、夜に似た声が、子どもを嗜める大人のような言葉を綴る。
「死ぬ気もねぇ人間は、やっぱり死ぬほどの怪我を負うことはねぇよ。覚悟もなく任務を受けたりもしない。だったら棺桶に片足突っ込むような、そんな事態にゃあどうしたってならねぇよ…こんな、あんたみたいにな」
最後の言葉は、溜息に紛れた。
「それに、俺達はあんたよりイルカと一緒にいる時間の方が長いんだ。イルカとあんた、どっちの云い分を信じるかって云うと、まぁ明らかにイルカだな」
「……ッ」
「極めつけはあんたの嘘がバレバレだってことだけど」
「…嘘、なんて」
「ついてるよ、あんた」
「どこが…っ」
「―――泣きそうな顔で云われちゃあ、分からないわけねぇだろ?」
ぴたり、と。
その言葉に合わせて髪を撫ぜる手が止まる。
云われた言葉に息を呑んだカカシは、息を殺したまま唇を咬む。
ナルトはじっとカカシの旋毛を見据え、微かにあの日の夜を思い浮かべていた。
満遍なく血に染まったのはこの綺麗な銀糸も同じこと。
―――それだけの血を被った人間が、何を云う。
キャラじゃないだと?
そうだろうさ。
あんたはそんな比喩の話でなく、実際に死ぬ気でしか戦えない奴なんだろう。
イルカはそれを知っていた。
あんたが俺達を守る為に傷つくことを厭わないと、哀しげに云ったのはあいつだった。
だから―――だからイルカは。
「…あんたさ」
「……」
「宿題の答え、分かんなかったんだろ」
「………」
沈黙が答えになる。
抗議するのも飽いてか、カカシが何かを云う素振りはない。
何の反応も見せなかったけれど。
「俺達は見つけたぜ?」
「――――」
その言葉で、小さく跳ねた肩を視界の隅でナルトは見た。
「だから昨日、俺達は三代目に会ってきた」
そしてカカシが瞬時に躰を強ばらせたのも知りながら。
「三代目に会って事情話したらさ、頷いてくれて」
手を握りしめたのも、そっと視野に入れながら。
「俺達」
暗部に―――なった。
笑って云って、手を、名残惜しげに銀から離したその直後。
「―――馬鹿!!!」
上げられた顔は苦悶に歪んでいた。
曝された両目は泣き出しそうに潤んでいた。
荒らげられた声は、哀しみで掠れていた。
「誰がそんなことしろって云った!? 俺はそんなの望んでない! 俺だけで良い!! 傷つけるのも傷つくのも!! お前達は十分傷ついてきた!! まだ戦場も知らないのに、生きてるだけで傷ついて…――!」
―――生まれたからには、幸せに生きたって良いはずだ。
忍ならば傷つくこともある、喪うこともある。
事実カカシはそうだった。
幸せに生きるよりも喪って無くして傷つくことで生きてきた。
けれど。
この子は―――この子達は、違うのだ。
まだ忍ではない、忍になるかも分からない、小さく稚い、幼子なのだ。
確かに力はある、恐れられるだけの要素もあった。
だがそれでどうして、傷つかなくちゃいけない。
ただ生きているだけで、どうして傷つかなくちゃいけないんだ。
それが嫌で、だからずっと見守ってきた。
義務から始まった監視と守護が、いつの間にかカカシの個人的な意思によってのものになっていた。
生きていてくれたら良い。
笑ってくれたらもっと良いけど、無理ならば敢えて望むまい。
諦めも含んでそう思っていたのに、一人だったナルトが、どこから訊きつけたのかは知らないが、サスケという友人を見つけて共に過ごすようになった。
人目を避けながらの生活に変わりはなかったけれど、それでも笑う機会が増えたことは、純粋に喜ばしいことで。
その時間を、出来る限り守ってやりたいと。
自分の存在なんて知らなくて良い。
知ってほしいとも思わない。
英雄になりたいわけでも、良い人になりたいわけでもなかった。
遠目で笑う二人を見て、寝付けないのなら子守唄を歌い、危険があるなら排除する。
その為なら傷つくことなんてなんでもなかった。
自分が喪ったものを、あの子達が喪わずに済むのならと。
そう、思っていたのに。
「なのにどうして―――暗部なんて…!!」
病室に、夜に響いたその声に。
応えたのは、今まで黙したままだったサスケ。
「……俺達は、答えを出したんだ」
ただそれだけのことだと云う。
静かな声。
どこか微かに。
夜のあの人を連想させる、その声で。
「『誰かの幸せを願うなら、そう願う自分だって幸せじゃなきゃいけない』――…飽きるほど訊いた、イルカの言葉だ」
「…俺は…」
「幸せだとでも? 『お前達を守れるなら傷ついたって構わない』―――か?」
「……!」
「そんなのは詭弁だ」
傷や痛みに裏打ちされた幸福なぞ、認めてやるわけにはいかない。
強く云う少年に、カカシは思わず目を伏せる。
「でもそれが確かに、あんたの幸せに繋がっていることも、理解している…」
痛みに痛みで贖うことしかできなかったあんたにとって、幸せもまた、そんなもんなんだろうって。
だから、とサスケは上腕部分の袖を手で掴んだ。
その下には、昨日の朝には何もなくて、夜に生まれたものがある。
肉の焼ける臭気と鋭痛。
代わりに得たのは証と枷―――暗部であると証明する刺青の所在。
「この痛みが、この刺青が…俺達があんたに最初に示せる、幸せへの
謂れのない痛みに耐えるのは、確かに苦痛でしょうがない。
けれど理由があれば耐えられる痛みも存在する。
カカシの云う通り、確かに俺達は傷つきすぎたかも知れない。
生きているだけで憎まれて、生まれてきたことを呪われた。
それに痛みを感じなかったとは云わない。
例えどれだけ無表情を貫いたって、心に思うことはあって、幾つも抜けない刺があったことは否めない。
でもそれは望まない傷だったからで。
厭うべき痛みだったからだ。
だけど自分達の幸福を願って傷つく人を守る為に負う傷や痛みを。
どうして耐えられないことがあるだろう。
幸せになるべきは、その人だって同じだと云うのに。
「…それが間違いだと、俺は思わない」
云い切って口噤むサスケは、疲れた、というように溜息を一つ吐く。
常にない長台詞にナルトも良く頑張ったなとサスケに微笑んで、自分達を見上げるカカシへと視線を転じた。
「まぁつまり、そーゆーこと」
だからさ。
「俺達にもあんたを守らせろ」
大体、フェアじゃない、と思う。
勝手に守って勝手に傷ついたのはカカシだけど、一方的に守られるなんて柄じゃない。
嫌なんだ。
それでも俺達を守ると云うなら、俺達だってあんたを守るよ。
「そんな…でも…だからって…!」
悄然とするカカシは哀しそうにナルトを見て、サスケを見て。
それに胸が痛まなかったと云うのは、どうしたって嘘だけど。
「もう十分だよ。もう十分、俺達はあんたに守られた」
だから今度は俺達が守ったって罰は当たらないだろう?
「…それに、さ」
またさわりと、ナルトはカカシの髪へと手を伸ばす。
拒絶されないことに少しだけ安堵した心を隠しながら、ナルトは小さく微笑んで。
「守られるのは嬉しい。傷つかないでと願われることもな…だけどその為に俺達を忌避するんなら、それって里の連中と同じだぜ?」
強烈に意識を向けながら関わり合うことを避け、ふと気紛れを起こして接触したかと思えばすぐ離れていく。
歴然とした好悪の差はあれど、行動の流れだけ見ればカカシと里の人間のそれの、どこが違うと言う。
そう、遠慮なく思いの丈を吐き出せば。
「――――」
刹那、零れ落ちそうなほど見開かれた二つの目。
黒と紅の、どうしたって交わらない二つの色。
ナルトは驚愕と哀色が浮かんだその双眸に映り込んだ自分が笑みを薄くしたのを見ながら言葉を続ける。
「俺そんなの嫌だよ。もうたくさんだ」
見えない何かは、いつだって怖い。
見えず知らないまま自分の為に誰かが傷つくのだって。
「だからあんたの痛みと傷を、俺達にも分けてくれ」
それは本来俺達が負うべきだったものだ。
あんたが負わずに済んだはずのものだ。
「その為に俺達は選んだんだ―――答えを、出したんだから」
幸せになろう。
生まれたからにはそれは権利でありそして義務だ。
幸せになるんだ。
あんたも―――俺達も。
その為にはどちらかが傷を背負い痛みを抱えるなんてこの状況は不公平だ。
幸せからは程遠い。
勝手に傷つくな、勝手に痛みを受け入れないでくれ。
それを許す自分を、許さないでくれ。
「一緒に生きよう」
そしたら俺達はあんたを全力で守るよ。
「俺達と生きることを選んでくれ」
あんたがしてくれたように、幸せになってと願うから。
「もう独りで生きるのは、寂しいだろ…――」
それを俺達は、この銀に誓おう。
馬鹿…と云ってぽろぽろと涙を零して泣き出した月は、最後まで嫌だと云うことも首を振ることもなかった。
決めかねているようだったけれど、否定は訊けなかったのだから、恐らく受け入れられたのだろう。
ならばこの痛みにも意味がある。
昨日はなくて、今日あるもの。
その痛みと引き換えに、自分達は一人の人間の幸せを願った。
これからもっと傷と痛みを負うだろう。
願うことは変わらない。
ならばそれは等価でないのかも知れないけれど。
―――それも良い。
不等だと云うのなら、あいつの受けた傷や痛みの方が願ったものよりあまりにも多い。
数えるのも嫌になるくらい、多すぎるから。
多すぎたから。
良かった、と。
どちらからともなく零されたその言葉に、夜を駆ける子等は笑む。
恐れていた、この夜を。
変わっていくことを知っていた。
自分達が選んだことが最良なのかも分からないまま望んで、願って。
それでもきっと、最悪ではないはずだからと踏ん切りをつけて。
良かったと、また思う。
きっと多分、良い方向に変わったから。
だからだから―――。
立ち止まって東の空を見る。
じっと待ち続けて、じっと見つめ続けて。
次第に薄くなる夜、明けていく朝。
昇る太陽。
明けない夜はないと。
誰が云ったか知らないその言葉を、初めて二人は信じた。
20110412