前日譚:半宵
[ ヘメロカリス:微笑 ]遠く飛ぶ鳥に、溜息が、一つ。
呼ばれている。
それは、仕方のないことだと分かってはいるのだけれど。
「…行きたくないなぁ」
火影岩に腰掛けたミナトは、子どものように唇を尖らせて思ったことを呟いた。
どうせ呼びつけられて云われることなんて知れている。
火影就任の要請だ。
(火影は夢だ。いつか必ずなる)
それでもまだ、今は早い。
何がそう思わせるのか分からない。
何が早いのかも分からない。
年が若すぎると周りから云われ、自身もそう思うけれど。
終局的にはそう云うことではなくて、何がどうなのかも分からないまま。
ただ漠然と、そう感じる。
今火影になっても意味がないと、心の奥底で何かが声を上げる。
それを云う訳にもいかなくて、だから三代目は理由のない拒否に苛立ち始めているのだけれど。
(自来也先生がなんとかしてくれたらなぁ)
思うだけ無駄だと分かっていながら思うほど、ミナトは困っていた。
最初の要請から一ヶ月。
日に日に三代目からの催促は取立てのように厳しくなっていく。
そろそろのらりくらりと誤魔化すのも限界かなぁなんて思っていた頃だ。
(……それでも)
頷こうとは思わない。
それだけは、変わらない。
だから、ミナトは。
「…よし」
一つ大きく頷くと。
「見なかったことにしよう」
思い切って、そうすることにした。
そんな云い訳にもならない云い分が通用しないことなんて分かってる。
それでもきっと、同じ問答を繰り返す為に三代目の所に行くよりはマシだと思った。
(きっと自来也先生ならそうするしね)
にっこり笑って背伸びをすると、ミナトは無情にも懸命に空を飛び続ける鳥から視線を逸らす。
(さぁてどこに行こうかな?)
思って、考えて、でも結局。
(ま、いっか)
適当に歩いて行こうと結論を出す。
商店街を歩くのも良い、慰霊碑に顔を見せるのも良い、馴染みの店に顔を出して、行きつけの本屋に新書がないか見るのも良い。
久々の休暇だった。
思うままに行動するのも、良いだろう。
「ん」
今日も良い天気だ。
見上げた空は、晴れ渡った蒼。
火影岩から始まったミナトの行く宛のない旅とまでは云えない散策は、無計画にも関わらずそれでも途中までは順調だったのだが、それまで一処に長く留まることのなかったミナトが死の森に差し掛かった辺りで足を止めたことで滞った。
もともと死の森はミナトにとって幼少期に好んで修行していた場所。
自来也を師と仰ぐようになってからも、自主練の時間は主に死の森で費やした。
そこが鍛錬に最適だったこともあるけれど、修行を人に見られたくないというミナトの主張に、死の森は最も沿った、恰好の場所だったからだ。
そういった理由もあり、懐かしさから数年ぶりに森に入ろうとここに来たのだけれど。
(……あれ?)
森に近づいた時、不意にミナトは異変に気がつき立ち止まる。
違和感を覚え、不自然だと感じた。
(なんだろう…なん、で?)
首を傾げる。
じぃっと見詰めた先は、森の入り口の、だいぶ右。
普通ならば見向きもしないし、そうでなくとも樹々が侵入を邪魔するように立ち塞がっているから、気にしようがない場所。
しかしミナトは数年前にはまったく気にしたことのなかったそこが、何故かとても気になった。
一度気になれば答えを見つけ出さないと気が済まない。
お前の悪い癖だ、と一言のもとに切り捨てて、自来也は考え続けるミナトをいつも呆れた目で見たけれど、そういう性格なのだから仕方ないとミナトは既に割り切っていた。
ミナトは最早散策のことなど忘れ果て、目を眇めてそこを見続けながら考えて。
考えて。
考えた。
でも結局、分からなくて。
分からないまま。
「…解」
そう、取り敢えずというように、印を組みながら呟いてみたら。
「あ」
一瞬、視覚的に一部の樹々がざわりと揺れた。
否、歪んだ、と云う方が正しいのかもしれない。
そうは云っても風の所為と云い切ることもできそうな微かな現象で、でもミナトは何かを確信したかのよう。
(なんだ、なんだ、そう云うことか)
心が浮き立つまま、にっこりと笑む。
子どものように笑って、そのまま。
「滅」
躊躇いもなく、云い放った。
滅―――それはある程度の術ならば忍術だろうが幻術だろうが反故にすることが可能な術。
解術が字のままに「術を解く」のに比べ、ミナトが使ったのは「術を滅する」もの。
術を綺麗に解きほぐしまた修正できる「解」よりも、修正をほぼ不可能にする乱暴な「滅」は使われることを嫌う忍者が多く、自分がされて嫌なものを…と云う訳ではないだろうが、使う忍者は殆どいない。
難易度が最高ランクであるのもその理由だが。
ミナトもそれは知っていたし、確かに自分が使われれば良い気はしないが、解で解けないほどの強い結界を打ち破るとしたら滅しかなく、そんな結界がこんな所に張られていたことに、配慮よりも今は好奇心が優ってしまった。
また運が良いのか悪いのか、ミナトは今一人だったし、高ランクのその術を身に付けていたのも好奇心を押し止めるどころか後押しする要因となり、だからミナトを止める要素は元より何一つなかったと云って良い。
(それにしても、すごい)
ミナトが見つけたのは結界の境目だった。
術のレベル自体は然程高いものではないが、幾つもの結界が組み合わさって複雑化し、その所為で粗が最小限に抑えられた、上忍でも滅多なことでは気づかないくらい巧妙に施された結界。
(死の森に、こんなものが)
術の感じから云って、そこそこ古いものだろう。
少なくともミナトが死の森に出入りしていた頃からあったことは確実だ。
なのに今までまったく気づかなかった。
それがミナトの成長を物語るのかは分からないが、それほどの結界を看破したことは純粋に嬉しい。
まるで夏に隠した宝物を意図せず見つけ出したような気分。
ふと見上げた夜空が、とても美しいものだと知った時のような。
そして。
サァ――ッ
ミナトの反術によって、結界が消えていく。
一瞬にして森の入口とはまた別に、人の通れる道が現れた。
覗き込んでも奥は見えず、隠されていた場所であることを考えれば、容易に進む訳にはいかない。
普通ならば、そうなのだが。
「行くっきゃないでしょ」
ミナトは思考することもなく、勢い込んで歩き出した。
いつもなら自来也に呆れられるほど慎重なミナトが、こういった好奇心を擽られた時にだけ、ひどく無謀で浅慮になる。
自来也にも「お前は猫になりたいのか」と窘められたことは何度もあるが、ミナトはいつも「大丈夫ですよ、俺は人間ですから」と気にしない。
今もそれを気にせず、思うままに歩き続ける。
恐れはない、あるのはただ楽しみだけ。
進む先に何があるのかなんて分からないけれど、それでも何かはある筈だと。
好奇心に導かれるがまま期待を胸に膨らませ、ミナトはどんどん森の奥へと進んでいって。
「……………」
唐突に道の途切れた先、広い空間へ出た所に。
「…………家?」
一軒の民家があったことには。
「……………」
さすがのミナトも、言葉をなくさずにはいられなかった。
樹々の拓けたそこは、伐採されてと云うよりも、自然と何かを避けて樹々が生えたというような感じを受けた。
広さはアカデミーの校庭よりは狭いが、それにしたって旧家の庭程度にはあるだろう。
反して家はちんまりと小造り。
周りに点在する幾つかの畑は一つ一つが家と同じくらいの面積があり、野菜やら薬草やらが生業としてもやっていけそうなほど豊富に、多種多様にあるように見受けられた。
「ほえ~…」
数歩進んで立ち尽くし、感銘を受けたようにそこを見渡すミナト。
気の抜けた声、肩の力を抜いた立ち姿。
しかしだからと云って注意を怠っていた訳では、当然、なかったのに。
「―――君かぁ」
俺の結界、壊したの。
後ろを、取られた。
易々と。
ミナトが。
火影の名を背負えと現役の火影に名指しされるほどの。
波風、ミナトが。
誰の気配も感じ取れぬまま。
後ろから、声をかけられたのだ。
「――――」
瞬時にミナトは動いた。
振り返る無駄をせずに瞬身で距離を取る。
次にその場に現れたミナトの顔は、彼の師である自来也だって滅多に見られない、無表情。
笑顔すら命の駆け引きに使えることを知るミナトが、一瞬先をも危ぶむ時にだけ、自分の命を生死の引き合いに出す時にだけ、見せる顔。
けれどその顔は、一瞬で霧散する。
代わりに広がったのは驚愕。
純粋で、子どものような。
ぽかんとした顔だった。
それは。
「貴方は…」
本当ならばミナトの行動に追い付けただろうに、声をかけた場所に留まって、ミナトを穏やかに微笑んで見る男。
その男の、髪の色。
それが、初雪のように綺麗な、銀だったからだ。
(…知ってる―――知ってる)
見たことはない、直接会ったことはない。
でも、知ってる。
学校で習うよりも前から、その男のことをミナトは噂で知っていた。
木ノ葉の忍で、アカデミー生、入学前の子どもですら、知らぬ者はいない。
己の師と他の同輩が三忍と謳われる、その同列、もしくはそれ以上に扱われる存在。
生きる伝説。
「白い、牙…?」
感動と畏怖を込めて、そう囁くように呼んだミナトに、当人は。
「んー、そう呼ばれるけど、それ、俺の名前じゃあないんだよねぇ」
本当に困ったような顔をして、どこかピントの外れた反応を返してきた。
名前じゃない?
…そんなことは、知ってるが。
毒気を抜かれたミナトは一瞬ぽかりと口を開けたが、それでも持ち直して再度訊く。
「…はたけサクモさん、ですよね?」
「あ、それそれ。なんだ、知ってるんだ」
「もちろんです…!」
知らない筈がない、木ノ葉の英雄とまで称されるその人を。
今まで任務が重なったことはなく、また私生活がまったく謎なサクモを里内で見かける確率は宝籤の一等に当たるより低いとまで噂されていて、だからミナトはこれまで生きていてちらりとでもサクモを見かけたことがなかった。
その人が目の前に…と感動するミナトなどいざ知らず。
「俺も君のこと知ってるよ」
サクモはのんびりと、それでも自信満々に云い張って。
「波風…えっと………ハヤトくん、だっけ」
へらっと笑って、間違えた。
伝説の人が俺のことを…と驚き感動していたミナトの顔が、ぴしりと強張る。
「……ミナトです」
「あ、そうそう、そんな感じ」
「…いえ、そんな感じ、ではなく、ミナトです」
「そうなの?」
「…はい」
そっかぁ、と笑い。
「ミナトくんか」
うんうんと数度頷いて。
「良い名前だね」
と、サクモはやっぱりのんびりと笑った。
それを見て、ミナトは。
(んー…)
聞き及んでいた白い牙の印象からは程遠い言動と笑顔に最初は戸惑ったけれど。
(…でも、この雰囲気、この笑顔は)
嫌いじゃないなぁ、好きだなぁ、と。
いつしか一緒に微笑みながら、そう、思った。
お茶でもどう?、とサクモに誘われて、ミナトはちんまりとした家の濡れ縁にサクモと並んで座り、のほほんとまったりとした時間を過ごしていた。
幾つかの話題を経た後、そう云えば、とミナトは思い出す。
「何故俺の名前をご存知だったんですか?」
訊けば、サクモはあぁと一つ頷いて。
「自来也に訊いたんだよ」
「先生に?」
「うん。自来也とは結構同じ任務にあたること、多いから」
任務中の空き時間とかに近況を喋っていたら、自来也ってば君のことばかり話題にしてね、そりゃあ覚えるよ、と。
間違えて覚えていたことをさらりと忘れてサクモは云った。
気にしないことに決めたミナトは、だからそうですかと相槌を打つに留めて。
「俺は先生からサクモさんの話は訊いたことなかったですけど」
思いつくままそう云えば、サクモはどこか困ったように笑った。
それに気づき、何故だろうと、小首を傾げるミナトは、次のサクモの言葉に目を開く。
「…君は、俺のこと、どれくらい知ってる?」
「え?」
聞き返すミナトに、それでもサクモは優しく笑んだまま問う。
「俺について、はたけサクモについて、君が知ってることは何?」
穏やかな質問。
何故問われたのかは分からないまま、それでもミナトは答えようと口を開いた。
けれど。
「―――…」
何も、云えなかった。
ミナトが知ってるのは、サクモが白い牙と敵に畏怖され、味方に賞賛され、様々な功績を上げてきたこと。
ただそれだけ。
サクモの
だからミナトは何も云えずに黙り込む。
それを責めるでもなく、サクモは。
「…だから、じゃないかな」
静かに静かに、そう云った。
「だから自来也は、俺のこと、ミナトくんに云わなかったんだと思うよ」
何故、と。
ミナトがその理由を質そうとした、その時。
「あ、ちょっとごめんね」
サクモが何かに気づいたようにちらりと家の中を見たかと思うと、中座を断りすたすたと中に入っていってしまった。
付いて行く訳にもいかず、サクモが消えた先をぼんやりと見ながら待つこと数分。
「お待たせ」
再び姿を現したサクモは、腕に小さな何かを抱えていた。
布にくるまったそれ。
僅かに食み出ているのは、サクモと同じ、銀色の髪。
目を見開いて、ミナトはぽつりと小さく零す。
「お子さんが…いらしたんですか」
あやすように優しく、とんとんと背中を拍子を取るように叩くサクモは、どこか照れたようにうんと頷くと、ミナトの横に座って子どもを見せる。
安らかにすやすや眠るその子は、お陽様の匂いがした。
「知らなかったでしょ」
「…はい」
触ることすら躊躇うような小ささと白さ。
何も知らずに夢を揺蕩う子どもを、サクモはとても愛おしげに見て微笑んだ。
「この時間になるとね、いつも一緒に日向ぼっこしてるんだ」
まぁ任務のない日は、だけど、と。
少し残念そうに、笑みを苦く変えて云うサクモ。
その言葉と表情に、本当はずっと一緒にいたいんだろうなと、気づかない訳にはいかなくて。
だから、思った。
「…だから貴方は、ここにいるんですか?」
サクモがここにいる理由。
この子の為では、ないだろうかと。
「……まぁ、それもあるんだけどね」
でもちょっと違うよと、サクモは静かに笑う。
子どもから視線を外し、ミナトからも目を逸らして。
空を見る。
そして遠くにある太陽を見て。
「俺はね、ミナトくん」
ただ、任務をこなしてただけなんだよ。
遠い過去を見るように。
目を、細めた。
与えられた任務を、割り当てられた指令を、片っ端から片付けた。
仕事中毒という訳ではなかったけれど、他にすることも夢中になることもなかったから、黙々と任務だけに明け暮れた。
そのうち手際よく任務をこなす要領を覚えていって、頭で考えなくとも自然と体が動くようになった。
本当に、ただそれだけのことだったんだけど。
「白い牙、なんて呼ばれるようになったのも、その頃かなぁ」
そう呼ばれていると知ったのも人伝に聞いたくらいで、知りもしなかったし興味もなかった。
ただ自分は任務をしてただけで、その姿勢が変わることもなくて。
「でも気づいた時には、噂がひとり歩きしていた」
自分の知らないところで、もう一人の自分が存在しているような感じ。
否定しても覆らなくて、かと云って無視するには、事が大きすぎた。
「俺のことをどう思おうと想像しようと、それは構わないんだけど」
でも会う度に勝手に抱かれた印象を押し付けられるようになって。
そんな人じゃないでしょうと否定されて。
噂と自分との溝を、どうしたって埋めることができなくて。
「あぁもう駄目だな、って、思ったんだ」
きっと少しだけ、疲れていた。
否定することもされることも。
だから思って、考えた。
噂を消すことが敵わないなら、自分が消えれば良いんだと。
だからひっそりと住居をこの森に移して里に行くのを止めたのだと、サクモは云った。
「それから、ずっとここに…?」
「うん、そう」
頷いたサクモは空を見たまま。
「もういっそ引退しようかなぁなんて思ったこともあったけど、三代目や自来也から止められてね」
ミナトはその横顔を見たまま。
「だからまぁ、まだ続けてはいるけど…」
途切れた言葉。
沈黙する太陽。
流れる時は、穏やかと云うより静かで。
鳥の囀りと風の声、梢の囁きが、音として存在する全て。
繋ぐ言葉を知らずにそれを享受していたミナトは、さわりとサクモが笑ったことに気がついた。
視線はとうとう空から外されて、まだ眠り続ける子どもに向く。
そして。
「それにこの子が生まれたからね」
柔らかく云って、そうっと持ち上げられた無骨な手が子どもの柔らかな頬をつんと突付く。
子どもは一瞬眉を顰めてむずかる様子を見せたけれど、また夢の淵に意識を潜り込ませたのだろう。
すやすやと小さな寝息を立て続けている。
息を詰めていたミナトはそのことにほっと胸をなで下ろし、またにこにこと微笑むサクモを見た。
その視線を受けてか、サクモは言葉を続けて云った。
「だからまだ忍でいるよ。だからまだ、ここにいる」
最初は自分の為だった。
でもこの子が生まれて、思ったんだ。
「この子の為に忍でいようと。ここにいようと」
そう、思ったんだよ、と。
どこまでも優しい笑顔で。
どこまでも哀しい笑顔で。
「だってこの子は俺の子で、だからこの子はこの子としてじゃなく、白い牙の子どもとしてしか生きられないから」
そんなことを、云うから。
「…サクモさん」
ミナトの胸に、遣る瀬無さが込み上げる。
あぁきっとそうだろう。
白い牙の二つ名を持つサクモの子ども。
誰もがこの子をはたけサクモの子どもだと、白い牙の子どもだという前提の元に見るだろう。
生きる伝説の子ども。
だからと云って、どこにでもいる子であることに、違いはないのに。
「せめて髪が他の色なら、良かったのにね」
さらり、とサクモが子どもの髪をそっと撫でる。
銀色の髪、月の色。
陽光にさえキラキラと輝くそれは、里ではサクモだけが持つ色とそっくりで。
どうしたって目立つ色。
どうしたって、分かる色。
「ついでに眠たげな目付きまで似ちゃうんだもんね」
誇れる筈だった。
あぁやっぱり自分の子だと。
自分のようになってほしいと。
普通なら、胸を張れた筈なのに。
「…ごめんね」
白い牙という名を誇れるほど強い男だったら良かったのに。
もしくはその噂の中の自分を打ち消すほど本来の自分を押し出せるくらい強かったのなら良かったのに。
何もせず、逃げてしまった。
噂はなくならず蔓延ったまま。
その名を背負えと、云う覚悟も度胸もない。
ただ引きこもって、噂と曝される視線から隠しているだけ。
俺がこんなんで、こんなんだから、だから。
「ごめんねぇ」
ふにゃり、と笑って抱きしめて。
だからこそ思うよと。
サクモはまた、空を見て。
「守れたら、良いね」
のほほんと零されたそれは、小春日和の太陽の声。
「忍としてじゃない。人生の先輩としてでもない」
親として人として。
この子を、守れたら良い。
「俺は、そう思うよ」
そう思うから、忍でいる。
ここにいる。
「いつかこの子が俺の名前で泣くことになっても、傷つくことになっても」
残っていると良い、微かでも。
こんな穏やかな日があったんだよと、太陽の色を覚えていると良い。
一緒に日向ぼっこしたことも、寄り添って眠ったことも、笑い合ったことも。
少しでも、僅かでも。
できることならその全て。
覚えていて、思い出して。
何でもない日常こそ、尊いものだと知っていて。
そして、どうか。
「最後には、幸せをつかみとってくれますように」
そのお前の未来の為に、里を守る忍でい続ける。
明るい
「幸せになってね、カカシ」
あまりにも純粋で切実な願いを。
陽の中の父子の姿を。
ミナトは忘れないように、眼を閉じた。
夕方サクモの宅を辞し、その足でミナトは火影の執務室へと向かった。
取次もなく連絡もせず押し入ったと云うのに、そこは既に人払いがなされており、三代目と自来也だけがミナトの登場を黙って受け入れた。
ミナトは三代目と机を挟んで対峙して、自来也は壁に背を預けてそれを見る。
沈黙は一瞬。
「まだ、俺は火影になれません」
ミナトは一言、云い切った。
今まで一度だって三代目の言葉にはっきりと否定で返したことはなかったのに。
それは本当のところ少しだけ、云い切ることを恐れていたから。
火影にならないと一度云ってしまえば、二度と候補にさえ上がらなくなるのではと。
その名が遠くなってしまうのではと。
けれど、それでも良い。
候補に上がらなくとも、実力でいつか絶対なってみせる。
それはきっと。
(いつか自分に守りたいものができた時)
ずっと感じていた、自分に足りないもの。
火影という名を背負う決心がつかなかった理由。
今はまだ、ミナトの手には何もない。
守りたいものも、守れるものも。
だから今は火影にならない―――なれない。
「でもいつか、火影の名を、火の意志を、俺が継いでみせますから」
宣誓のようなその言葉の後、ミナトはにっこりと微笑んだ。
太陽みたいに勝気な笑みに、三代目も思わず苦笑する。
「……そうか」
その会話に自来也も口端を上げて笑っていて、不意にミナトに近づいたかと思うと、力任せに金髪をワシャワシャ撫で回す。
「ったく早くそれを云えってんだよ馬鹿!」
「いったいなー! やめろって先生!」
「うるせぇうるせぇ。したくねぇって云う奴に火影の名と地位を押し付けるほど、こちとら人材不足じゃねぇっての!」
「う…」
云い当てられた不安に、ちらりとミナトは自来也を見上げる。
穏やかに微笑む自来也は、弟子の頭をもう一度だけくしゃりと撫でて。
「…お前が待てと云うなら待つ。こっちだって能力や頭のキレだけで火影になれと云った訳じゃない。お前がその言葉に有頂天にならず、本当に今が火影になる時期なのかを見極められる目を持つと信じたから、お前を選んだんだ」
信じていたよ、と。
自来也の、三代目の、微笑みがミナトにそう告げる。
「まぁ後しばらく、わしが現役で頑張るかのぉ」
「そうしろ、ジジィ。隠居するには早いってこった」
云い合う二人、穏やかな。
それは死の森に住むあの父子の姿に似て。
(あぁだから)
幸せであると良い。
この二人も、あの父子も、里の人も、全員が。
そして。
(守れたら良い)
その全てを自分の手で。
(いつかいつか、きっと…)
誓いのように強い想いを胸に秘め。
ミナトは静かに微笑んだ。
「…あ、流れ星」
ミナトに壊された結界を修復していたサクモは、視界の端でキラリと光った星の流れに顔を上げる。
見上げた頃にはもう遅く、流れた軌跡を見るだけとなったけど。
「いつか云えるのかなぁ」
今回が駄目だっただけ。
また次があるよ。
次流れたら、今度こそ三回願いごとを云ってやろう。
「云えたら良いなぁ」
次こそは見逃すまいと、サクモは子どものように星空を見上げ続けた。
頭の中で何度も何度も願いごとを復唱して。
でもその日はもう、流れ星は堕ちなくて。
「ざーんねん」
サクモはその言葉を裏切って穏やかに微笑んだまま、家を目指す。
朝焼けに染まっていく空。
あぁカカシは良い子でいただろうか。
そんなことを考えながら、サクモはまた流星を見るまで願いごとを心の奥底に仕舞い込む。
「次はいつ、見られるかなぁ」
そう思って、願いながら。
でも次の日も、次の日も。
次の週も次の年も。
その次の年もまたその次の年も。
サクモが流れ星を見る機会には恵まれず。
だから。
「――…父さん?」
だから。
「とう…さ…」
だから。
「――――あああああぁぁあぁああああああ!!!!!」
サクモの願いごとは、叶わなくて。
誰もその願いごとを知らないまま。
白い牙は、空に瞬く星の一つになったのだ。
20110313