泥の器

[ 林檎:誘惑・後悔・選ばれた恋・選択 ]



 幼い頃、畑の土を弄りながら、祖父は偶に思い出したようにぽつりぽつりと語ってくれた。手を茶色に汚しながら、爪に小石を挟みながら。時折吹く風に藁帽子を持って行かれまいと、その土に塗れた手で頼りなげに押さえながら。そう言えばと切り出して、遠い遠い、昔話を。
 どんな本にも載っていないそのお話が好きだった。きっとどんな古びた図書館にも、世界一大きな図書館にだってその昔話の本は置いていない。祖父の中にだけあって、ただ一人、自分にだけ受け継がれる御伽噺。
 異界から呼び出された昔話の主人公たちが一堂に会し、最後の一人になるまで戦い抜く。己が望みを、叶えるために。
 それは時に酷く凄惨な描写を含んでいて、その度に大きな恐怖と僅かな興奮にどきどきした。祖父は元々話し上手とは云えなかったが、どうしてかそういう時の表現やら空気の作り方やらが抜群にうまかった。だから徐々に物覚えが悪くなって同じ話を何度も繰り返すようになっても、飽きることはなかった。
 ―――まぁ、昔の話だけどな。
 話の終わり、毎回付け足されたその言葉が、嘘が苦手な祖父らしい断り方だと子どもながら微笑ましく思い、そして、祖父が語りながら指で地面に書いた模様が、いつも気になっていた。
 …昔話が好きだった。祖父が、大好きだった。
 人里離れた田舎に俺と祖父の、たった二人しか住んでいなかったけれど、自然に囲まれたそこが好きで、星空が綺麗なそこが好きで、祖父と畑仕事や家事をするのが好きで、穏やかで何の変哲もない、確かに少し不便な暮らしではあったけれど。
 そこが俺の生きる場所だった。そこで何事も無く穏やかに生きて、そして何事も無くただ死ぬのだと思っていた。
 祖父が、そこで死ぬまでは。





 夜が深い。窓の外を見上げて月も星もないのを見て取り、燭台の灯火を指で揉み消す。読みかけの本を無造作に机に置いて外に出た。近くの森の、梢の音が騒がしい。鳥や虫も今宵は落ち着かずに鳴き喚いている。そのくせ、そよ吹く風は微かもない。
 ぴちゃり、と濡れた音が足元から聞こえた。闇に埋もれて見えないが、夕方の驟雨を思い出せば納得がいく。
 一つ頷いて小さく笑った。なるほど、暇潰しのタロット占いも捨てたものではないらしい。
 土地は最良、準備も万全、あとはただ、日取りを決めかねていた。時期的にはそろそろ儀式を催行しなくてはいけないが、執り行う日時は慎重に定めねばならない。間違いが起きてしまっては困るのだ。よって何時にしようかと悩み、手慰みにタロットなぞ久方ぶりに取り出してみたのだが…。
 確かに占い通り、今夜こそ相応しい、というわけか。
 泥を掬って一瞬握る。そしてはらりと指を解けば、仄かに緑色に発光する。明かりらしものがない闇夜では、眩いと感じるほどだった。力も回路も、常より格段に調子がいい。それはそうか。自然に満ちたこの場所と、何より雨は、この身の起源、重要なファクターだ。どちらも揃えば、調子がいいのも頷ける。
 ―――では、始めるか。
 掬った泥を払って、そのまま地面に指を滑らせた。本の図解を、記憶の中の祖父の落描きを脳裏になぞって地に描く。

「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。祖には我が大師シュバインオーグ。降り立つ風には壁を、四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ…」

 指はするすると動き、躊躇いはない。呪文も途切れずに唇から溢れ落ちていく。あまりにも身に馴染んだそれらを、(そら)んじ、描出することなぞ造作もなかった。

「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。 繰り返すつどに五度。ただ満たされる刻を破却する…」

 ふらり、と立ち上がる。暗闇の中、完成した魔法陣が翡翠色に浮かび上がる。にやりと笑った。―――Anfang。

「告げる―――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 六十年に一度の魔導の祭り。ただ己が願いのために全てを(なげう)って殺し合う。見知らぬ誰かさえ、最悪、自分自身すら礎にして。
 それでもいい。それでも構わなかった。
 どれほど矮小な願いでも、一度(ひとたび)戦いに身を置いたなら、勝者の願望こそが叶えられるべきもの。敗者の嫉み妬み恨み言なぞ、耳を傾ける価値もない。
 だからこそ勝たねばならないのだ。この、―――聖杯戦争に。

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の、守り手よ――…」

 凛とした声の、けれどどこか謡うような調子で零されていた呪言(まじない)が空気に溶けて消えていく。対して闇夜の裾野が淡く、そして徐々に輝きを増して光った。
 来る。来る。来る。(しもべ)が、―――サーヴァントが。英霊の座から今ここへ、戦いの糧、願いの一柱になるために。
 失敗は恐れなかった。一つも怖いことなんてなかった。目も開けていられないほどの煌めく光が、途端、地獄の扉に変わることもあるのだと理解した上で、それでも、恐怖なんて微塵もなかった。
 待っていたのだ。この日を。〈彼〉が現れるのを。

「――…貴様が、我のマスターか」

 彼は―――ディルムッド・オディナは待っていた。
 自分が御伽噺の続きになる日を、ずっと。





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 20130813





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