不羈の暴君




 帳の音を聴いていた。誰も彼もが寝静まった闇の中、稚児(ややこ)は紅い目を凝らしてじっと褥に蹲る。それは永遠に近く、一瞬にも満たない時間。

「――――」

 不意に羽音が耳奥を刺激した。微かで遠いそれは、けれど夜の異様な静けさに浸りきれず異質で、且つ無邪気なほど純粋に不快感を一向に煽る。

 きた。

 稚児は脳裏にその言葉を思い浮かべた。若しくは唇もそれをなぞったかも知れない。稚児自身その真実を知らないまま、その間も羽音は徐に近づいてくる。確実に近く。確実に仕留める為に。
 稚児の肌は粟立った。皮膚が毳立(けばだ)つ感覚。緊張でなく、恐怖でも憤怒でもない。偏にそれは、歓喜の、為に。―――だが。

「痴れ者が」

 今度こそ声は唇から漏れた。思考の末端ではなく、世界にその言葉が生まれて消えた。羽音を拵えていた物も、時を同じくして地に堕ちた。立ちどころに耳障りな音が消えていく。呆気ないほど、世界を違えたかと紛うほど。音が生まれる前の静けさよりも、尚静か。
 躰の丁度真ん中を裂かれた虫は、切られた事を知らないまま空を飛ぼうと藻掻いていた。足が空を掻き毟り、羽が地を打ち付ける。だがそのどちらもが弱々しく、音を生み出すに至らない。部屋を占領していた何百という虫が、一瞬にして空という故郷を喪って、そうと気付いた時に絶命した。白浪(しらなみ)のような敷布から這い出でた稚児は褥の上に立ち上がり、見下ろして思う。―――まるで、滑稽だ。

(こんなものか、こんなものか、こんな、下らぬ、ものか)

 稚児の中で確かに膨らんでいた愉悦は萎むことも許されずに爆ぜて跡形もなく消えていた。幼いながら凄絶に美しい顔には苛立ちの他には何もなく、頬を染める感情は紛れも無く純度の高い怒気だった。何が面白いものか。何が楽しいものか。何に興じろと云う。この詰まらぬ、余興にすら成り得ない寸劇に。

「殺しに来るならそれ相応に我を饗せ。魔術師の家が聞いて呆れる。今度このような無様な失態を見せるならば我が貴様等を殺しに行くぞ」

 云って稚児は足元で蠢く虫螻を踏み躙る。意図して潰したそれらの中には、微かながら息のある虫が一匹だけいた。敢えて残したそれは稚児の読み通り最期まで主へ稚児の様子を映し出し、声を届けたことだろう。それでいい、それで。

「下らぬことをしてくれるな。我を楽しませろ、雑種」

 紅い瞳が一瞬瞼に隠れてまた曝される。闇にいて尚煌く双眸はじっと前を見続けた。何も何もないのに、まるで何かを見るように。そこに何かあってくれればと、(さなが)らそれは願うかのよう。





 稚児は世界に飽いていた。何も誰も稚児を楽しませてはくれない。
 生まれた瞬間、最強の宝具に見初められた稚児は、それ以降誰の手も借りずに生きていけた筈だった。経典から文字と言葉を自身に写し、宝物庫からは如何な道具も呼び出せた。王族に生まれた稚児は、よって望まずとも最強の王になることが叶う筈だったのに。

『―――王規に反します』

 長子が家督を継ぐ。それは王族に限らず、騎士、諸侯に至るまで普遍とされた綱紀。年を幾つか経て議論されたが改めることは遂に許されず、二子だった稚児は危険視されて幽閉された。仮初の蟄居。最強の宝具を身に宿らせた稚児には、哀しいかな、なんの障りでもなかったが、稚児は甘んじて現状を受け入れるという意識なく泰然としてただ其処にいることを選んだ。
 論議の中で、王というものを知ったからだ。その役割、その立ち位置、その惰弱さ。父の姿に絶望さえした。なんだ、あれは。傀儡(かいらい)と言葉を飾ることすら罪悪だった。あれは何も思考せず、言葉を持たず、眸は伽藍堂(がらんどう)の虚無。経典の力を借りてさえ、稚児は彼を(そし)る言葉を持たなかった。
 それから稚児は生誕の砌より自身を殺そうと躍起になっていた者達に興味を向けた。それまで蚊を叩き潰すような気軽さで殺してきた彼等を相手に遊び始めたのだ。自身の部屋にいながら戦場にいる感覚は、稚児の心を休ませない。安息も安住も安心も、稚児には何ら関わりのない事象にすぎなかった。言葉と音と文字の織り合わせで認識するだけ。意義を置き忘れて血の滾る戦いにこそそれはあると思い込んだ。
 だがそれもやはり、限界がある。
 そもそも力の差が公平でない戦いに拮抗など有り得ない。知略が武力を、武力が機転を負かすことは往々にしてあるものの、どれもを兼ね備えた稚児に相対する者は優れた剣士であれ弓兵であれ、果ては魔術師、暗殺者であっても、職の差を示す戦術を晒しただけで結局どれも同じように死んでいった。意味もなく、まるで、無駄に。
 稚児はまた飽いてきた。だがそれを認めようとはしなかった。それを認めたら今度こそ自分には何も何も残らない。なれば生きている意味もないことになる。それだけは、だからどうしても認められなかった。

(最強の矛も楯も我が手にある。なのに何故、何故我は)

 虚しさは唐突に胸を突く。孤高という言葉が心を掠めた。眉を顰める。下らないと吐き捨てた。

(同じことだ。言葉を幾ら飾ろうと、美しい意味を持たせようと、身ぐるみ剥げばそれらは皆同じ意味を持つ言葉になる)

 ささくれだつ感情は否応なしに稚児の顔を渋く歪めた。望みはある、願いもある。欲するものは、そんな大それたものではないのに。

(生まれた順? ―――笑わせる)

 歪みは何れ笑みとなった。苦々しく、憎悪さえ滲んだ。





 そんな風に無為に殺戮の日々が過ぎていたある日のこと。稚児に謁見を申し出た者がいた。王位継承者でない者に阿る必要はなく、況してや彼の持つ宝具は好奇心ばかりでは抑えきれぬ畏怖がある。よって稚児にとって殺しに来る者だけが客だった。奇特なことだと稚児は思いながら、滅多にないそれを許した。来訪者は平伏して云う。どうか息子に会ってほしいと。

「殿下のお相手として、不足はないかと…」

 興味などなかった。食指が動いたわけでもない。運命的なものを感じていたと、戯れるつもりも毛頭ない。

「……いいだろう」

 ただ暇だった。ただ、それだけだった。





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