天つ空
空を見ていた。
何処までも広く、何処にも行き着かない空を。果てとは何を指すのだろう。世界の終りは本当にあるのか。そんな、取り留めもないことを思いながら。
空を見ていた。
太陽は既に傾き、身を横たえようと地平へと近づく。
それは逃亡生活の日数が一日増えることを意味していた。
重く息を吐く。裏切った主の追手の数は増えるばかりで、追跡の手が緩められる気配はない。剣を槍を、取らない日はなかった。何度斬った。何度穿いた。そうして何度、誰かの命を奪っただろう。何度何度、何度――…。
誰も追ってこなければ…そっとしておいてくれたなら、私は…。
思うのに、願うほど、思っているのに。憂え翳った双眸を細める。知らず笑みが口元にのぼった。その笑みも、知らず昏いものになった。
憎いか、フィン―――それ程に、私が憎いか。
問うまでもない。そうだろう。妻になる筈の
フィン…。
思うだけは自由だろうか。想うだけなら、それは何もないのと同じだろうか。違うと、どうか云ってくれるな。憎んでもいい、憎まれてもいい。蔑まれても、殺意の視線で焼かれようと、私は甘んじて受け入れる。だがどうか、これだけは。慕っていたことを忘れないでくれ。貴方に捧げた忠孝を、どうかどうか、疑うことはないように。
済まない、フィン…だがゲッシュを破ることだけは、どうしても、できない…。
神に育てられ、神の傍で様々なことを見訊きした。その力の恩恵も、それが齎す破滅も、身に染みて知っている。神の力は強大すぎて、恐ろしくて、私には逆らえない。逆らうなど、考えたこともない。
〈それ〉は恐ろしいことなんだ。
貴方の怒りに触れることも怖いけれど、憎悪されることは恐怖だけれど、それでも尚、私は禁忌を犯すことの方が恐ろしい。
〈それ〉がなければ…若しくは立てた誓いが、また別であったなら…。
そう願うことは卑怯だ。…分かっている。そのことも、嫌というほど分かっている。だから貴方が信じてくれなければ。他の誰でもない貴方が。フィンが、このディルムッドを。あぁ、信じてくれ。
私は、最後まで貴方の――…。
空を見上げ、思う最中。
「―――ディルムッド」
声が、訊こえた。美しく歌うように零された、
「グラーニア…」
首を腰を捻って見下ろせば、其処には婦人と云うには幼く小さな娘がいた。少女という枠から少し食み出た程度の、そう形容することが許される、愛らしい娘だった。彼女は微かに顔を曇らせていた。
「また、暗い顔をなさって…」
云ってくるりと回り込み、私を見上げる彼女はひたりと身を寄せて。
「…ねぇ、ディルムッド」
不安気に、それでも何処か、恍惚と。
「私を守ってくださるわね?」
稚い声、小さな声で、そう問うた。何度も何度も、問いかけたのと同じように。
「私と共に逃げて…」
云い訊かせるよう。云い逃れできないように。
「最後まで」
最期までと、何時も。
「私を、離さないで」
その答えなど、
「……あぁ、グラーニア…分かっている…」
何時だって決まっているというのに。
分かっているよとまた呟き抱き締めれば、腕の中、彼女は笑ったようだった。安堵と、無邪気さと、何かを、含んで。それを見下ろし、空を見上げて、思う。
―――何故、こうなったのだろう。
私は騎士になりたかった。騎士として生きたかった。騎士として死ねるのなら、騎士道に殉じてもいいとさえ思う。故に騎士団としての私はいなくなったが、彼女の騎士として生きることを決めた。か弱き乙女の願いのまま、己が立てた誓約に従って。その、筈なのに。
だが今の状況―――私は騎士でいられているか?
淋しく虚しい心音は、誰も知らず訊かないまま、心の奥底に生まれて沈む。双眸だけは遠く遠く、夢にさえ見ることの叶わないまほろばを見る。ゆったりと瞬き、遙か桃源郷を垣間見るように。抱く存在は腕の中でだけに留めて。そうして私は。
空を、見ていた。