清月夜
下から吹く強い夜風に煽られて髪と裾が棚引く。高層ビルの最上は街の果てと、そのまた先を見せてくれた。しかし心に浮かんだのは忙しないものだと云う感想だけ。夜になって却って明かりが目立ち始めた街の、特に道路は悪い意味で派手やかだった。車の光が凄まじい速さで道という線を描いては過ぎていく。
現界した世界は生まれた時代とはまるきり違っていた。同じ世界の延長線上なのかも疑わしい。空が近いのに、星はひどく遠かった。眩い街に飽いて夜空を見れば、不意にそう思った。
そもそも己自体が世界と切り離されたものだったかと思い差し、些かばつの悪い思いをした。そうなのだと断じるのも嫌で、それ以上は考えないことにした。世界が
云い聞かせるように思って、けれど消えない感慨が胸にある。それは見下ろす街に、見上げる空に。聖杯を手にと足掻く
(此処は思った以上に、淋しい、世界だ)
心の奥深くに蹲るそれは、そのまま誰かに奪われた。素早く視界を巡らせれば、闇の中、不意に引っかかる影。密やかなその人影は槍の英霊のものだった。
まるで気づかなかった存在に驚き睫毛を瞬かせる。彼もその時に自分に気づいたようで、此方を向いて僅かに目を見開いたかと思うと、そのまま目を細めて笑った。苦い色を滲ませたそれは、詰まらぬことを訊かれたと悔いるような顔だった。
ランサー。
呼び掛ければ、存外素直に彼は此方へと足を運ぶ。足取りは軽やかとは云い難いが、迷いはない。敵として此処にいるのでないと知る。
横に辿り着いた彼は少し迷った後、息災かと訊いてきた。それは自分達の関係を思えばあまりにも不自然で、でもそれ以外にこの会話の始まりに相応しい言葉はないようにも思われた。笑んで、云う。
まだ貴方から受けた傷が治らない。
詰りたい訳ではなかった。非難したい訳でもない。ただ伎倆の差だ。その差分、受けた傷だ。甘んじて受け入れる。彼もそれは分かっているようで、それはすまないなと穏やかに微笑んだ。
不思議な関係だ。微笑んで、微笑まれて。和やかな心は、敵対する者に抱くべきものではないのに。その逡巡が会話の流れを鈍らせた。機を逸して、どちらもが口を噤む。
並んで空の近くに佇んだ。何処を見るでもなく、ただ静かに。そんな静寂を打ち破ったのは、思いの外近くで聴こえた機械音。音を追った視線の先、魚が海を泳ぐように夜空の中を飛行機が往く。その光と音の騒々しさに助けられて、また口を開いた。
何れ消える傷だ。それまで根気よく付き合おう。
云って彼を見遣れば。
…何時か、な。
躊躇いがちに紡がれた言葉。そう呟く横顔に初めて憂いが見えた。見て、あぁ美しい男だと、心底、思った。それはチャームによるものでなく、見目がよいというだけの話でもない。
(心根が、誰にも触れられたことのない泉のように澄んでいる)
それが貴きものであると知っている。だからこそ憂えるのだろう。心が清冽にすぎるということは、生半に良いと一言で済ませられるものではない。何にしても程度がすぎればそれだけで異端視される。況してや彼のマスターはそんな彼の心を理解しようとはしていない。一対一の尋常の勝負をと望む、彼の騎士道など。
ランサー…。
思い描いたであろう彼のマスターについて災難だなと慰めることは軽率で、且つ何の意味もない。自分も人のことは云えない上に、忠義に厚い彼ならばその一言で今までの雰囲気が様変わりしてしまう可能性もなきにしもあらずだ。なんと言葉をかけていいのか分からず、口を開いては閉じた。
気遣うな、セイバー。
迷う中でふと視線を逸し、また戻した一瞬で、彼は既に憂鬱を払拭した顔で微笑んでいた。綺麗だった。静かな微笑は目を惹きつけて離さない。ただ何処か、寂しげだと、思った。
俺は仮定の話が嫌いだ。後悔するのも、嫌いだ。もしなどと想定するだけ無駄というもの。この世には絶対しか存在しない。仮想など、夢物語も甚だしい。だから云うな。こうなっている以上、全てはこうなるように仕組まれていた…若しくはこうなるしか、なかったのだろう。
それは誰が悪い訳ではない。誰が間違った訳でもない。此処は無数の人々の無数の選択が重なりあって、必然的に構成された世界だからな。
笑みは崩れない。心の端も覗えない。透き通る泉の水面が、まるで突然凍りついたように。
(…ランサー)
ならば自身に云い聞かせるように聞こえるのはどういう訳だ。本当にそう思うのか。何か間違っていたんじゃないかと思ったことはないのか。もし何かが違っていればと考えたことがないなんて。ある筈だろう。あって、いい筈だろう。
(私達は、今がどうあれ、どうしたって人間だからだ)
叫ぶように思って、云いたくて、でも結局口を引き結んだまま、耐えた。云うことは容易い。だが云うことが正しいとは思わなかった。
また夜の帳が下りたよう。二人は身動ぎすらせず、沈黙は夜に滲み心に染みた。月が動く。星が瞬く。雲が流れて風が戦いだ、その時に。
お前で、よかった。
久方に二人の間に生まれた声はひどく染み染みとして、故にひどく戸惑った。は?、と傍らの彼を見上げれば。
お前が最初に戦ったサーヴァントで幸運だったと云っているんだ。
照れた様子もなく云う彼に、なんだか悔しい気がして云い返す。
そう云ってもらえるのは光栄だが、運はそんなところで使うべきでないだろうに。大事な局面で底をつくぞ。
対して彼は、それが?、と何でもないことのように微笑んだ。それはやはり静かで、そして淋しいまでに美しい。その顔で、彼は。
俺はお前と出逢えて幸運だった。例えそのことで全ての幸運を使い果たしたのだとしても、それは悔いることではない。寧ろ誇るべきことだ。
そもそも俺達は幸運を敗北の理由に、況してや勝利の理由にすべきではない。そうだろう? 騎士王。何かの不都合があったとして、それが何の意味になる。負けて当然だと自身を見下げるか? 勝利に箔がついたと驕るか? 答えは否だ。
明朗に紡がれたそれは、何処までも潔癖な騎士の言葉だった。穏やかな視線は、だがそればかりではなく強かに揺るぎない。弓のように張り詰め、
セイバー。
そのくせ呼び掛けは優しく、その琥珀の双眸も、ただ静か。
お前のその傷が消える時は、俺かお前かが消える時だ。その日はどうしたってやってくる。そして打ち倒したサーヴァントに心を傾ける余裕などないだろう。
だがどうか、と言葉を
できることなら最後の最後に、お前と矛を交えたい。その時が来たなら、俺はただ一人の騎士になろう。
彼は云う。聖杯もマスターも関係ない。互いの誇りだけが、全て。そんな戦いをしよう。雑念を捨て、勝利だけを欲する戦いを―――と。
そしてお前もそうあることを、願う。
彼は最後にそう云って、夜の中に溶け消えた。
更ける夜の風が冷たさを増す。頬を打ち付け、首筋を撫でる。それでも凛と顔を上げていた。矜持でなく意地でなく、見据える先に彼の姿を見るように。
(ランサー…否、ディルムッド)
最初に戦ったサーヴァント。きっと最も気の合う好敵手。出来れば同じ時代、友として肩を並べたかった
(あぁ誇り高い騎士よ)
誓おう。傷が消えても、貴方が消えても、私が消えるその時まで。
(私は決して忘れない)
この静かな夜とともに、貴方を。