桜の散る様世の理と知りてこそ…

[ 奇跡とは常に其処にあるもの ]



 はらはらと 零れ散り行く 夜桜

 ふうわり ふうわり 何処へ行く

 闇に浮かびて 何処ぞ行く

 風にその身を 任せて幾夜

 待ち人知らず 月影だけが見守る中で

 その身を大地に 横たえるまで…





  無二





 今日も博雅は晴明の屋敷の門を潜る。
 何時も何時もで迷惑か、と思うものの、やはり此処で飲む酒は一段と美味いと感じるし、晴明も邪魔なら邪魔とはっきり言う性格だと分かっているから、博雅はそれを聞く事も(おとな)いを止める事もない。
 それに、博雅が来た時には何時も不用心に開いている門扉が、来い、と言う晴明の無言の手招きに見えて、博雅は何時も、来て良いのだ、と言われているような安堵感を得る。
 それが本当かは知らないが、間違っては居ないと、願望に似た推論を無理矢理己に言い聞かせていた。
 果たして博雅が庭に面した縁に向かうと、晴明は何時もの狩衣の姿で柱に身を預けて其処に居た。

「来たか、博雅」
「おう、来たぞ、晴明」

 縁には既に二つの盃と酒をたっぷりと入れた瓶子がある。
 それを見て博雅はほっこりと笑みを浮かべるといそいそと晴明の向かいに座った。
 晴明はあるかなしかの微笑を浮かべて盃に酒を満たす。
 今宵も酒宴が始まった。

「…それにしてもだな、晴明」

 暫くの心地よい無言の時を過ぎて、博雅が晴明へと視線を遣る。
 晴明は何だと聞き返すように一つ瞬きをしたが、博雅へ視線を返す事なく、庭を見続けている。
 それも何時もの事、と博雅は気にせず、その言葉の先を言う。

「今日は式神は出さぬのか」

 気になっていた。
 何時も門で待ち構えたように博雅を迎える式神も、空となった盃に酒を注いでくれる式神も、今日はない。
 それはそれで一向に構わないが、何時もと違うと人間気になるもの。
 だから聞いてみれば、晴明はふと笑みを深めて博雅の問いに答えた。

「偶にはおれと博雅、水入らずで過ごすのもありかと思ってな」

 式神の存在感は薄い。
 あっても気にならない程だ。
 密虫や薫であれば、花の精という事もあり馨しい香りが鼻腔を擽るが、それでも普通の人間を傍に侍らせるよりかは気にならず、心地良さまで感じる程だが。

(…あぁ、それでも)

 確かに違う。
 式神が居るこの場と、今二人しかいないこの場は。
 それは式神の存在故に、と言ってしまうには違う何かがある。
 いや、式神の存在がこの場の雰囲気を揺らす根底ではあるのだ。
 しかし、そうではなくて。

(晴明の雰囲気が、違うのか)

 式神が居る事とこの場の雰囲気が因果で結ばれている訳でなく。
 式神が居る事と晴明の雰囲気が因果で結ばれ、この場の雰囲気がそれに引き込まれているのだと気が付いた。

(…何故かはとんと見当が付かぬが)

 それでも(すが)しい気が今此処にある。
 式神が居る時とはまた違う穏やかな時が流れている。

「二人きりというのも、良いな」

 気付けばそんな言葉を零していた。
 晴明はそれに更に笑みを深めて応えた。
 博雅は庭に目を遣った為に、気付かなかったが。
 その一瞬、風が空から舞い降りて、葉を揺らし花弁を連れ去った。
 柔らかなそれは、けれど強引さも兼ね備えて。

「おぉ、桜の雨だ」

 晴明の庭で一際大きく育っている桜がその風に花を散らした。
 晴明の所に。
 博雅の所に。
 空に。
 地に。
 薄桃色の花弁が舞う。
 それは月の光に照らされて、いっそ幻想のよう。
 この世のものとは思えぬ美しさに、博雅はほぅと無意識のうちに吐息を漏らし。
 晴明はその花弁らの行く末を見守るように、慈愛にも似た何かを瞳に宿してそれを見ていた。
 風は吹き続ける。
 優しく、細く、時に激しく。
 桜はそれに翻弄され、サァサァと、ザァザァと啼き続け、涙のように花を零した。
 博雅は感じ入って言葉が出ない。
 その代わり、と言うように、懐から葉双を取り出して、唇にそっと添える。
 笛の音が、博雅の声に変わって、闇夜に響く。





 それを晴明は見ていた。
 瞳を閉じて自分が感じたままに音を紡ぎ出す博雅を、見ていた。
 気付いていない事など元より承知。
 その方が良いとまで思う。
 己の心を見せぬ事には自信があるが、己の瞳に映る心まで制御するのはいかな晴明と言えども難しい。
 ましてや博雅は他人の心の機微には疎いが、楽を嗜む為か、何かの切っ掛けに波長が合えば、簡単に心の奥底に隠した事まで見抜かれてしまう。
 それが意図的でない所が、博雅の良い所でもあり悪い所でもあるなと、晴明は苦笑を口端に滲ませ瞳を閉じた。

 音は嘘をつかないと、教えてくれたのは誰だったか。

 そんな事を思う。
 師であった忠行様か、兄弟子であった保憲様か。
 それとも、他の誰かだったか。
 忘れてしまった。

 けれど、それが本当であると教えてくれたのは、博雅だった。

 博雅の奏でる音は、嘘をつかぬ。
 美しければ美しいと。
 愛しければ愛しいと。
 哀しければ哀しいと。
 寂しければ寂しいと。
 心の音を正直に伝えてくれる。
 それが希有な事だと、博雅自身は気付いていない。

 純真、無垢、清浄、聖徳……それは世に生を受けたばかりの(わらわ)のように。

 自分と余りにも違いすぎる存在。
 地位にしても、血筋にしても、心にしても。
 近くに居れば居る程に、その思いは強くなる。
 傍に居てはいけないのではと思ってしまう。
 恐らく周囲の者達もそう思っている事だろうよ。
 だから、時に思うのだ。

 周りの言葉に納得して、次からは来てくれぬのではないかと。

 知らぬであろう、博雅よ。
 狐の子と噂され、生まれた時から恐れられたこの安倍晴明が。
 おまえを喪う事を恐れておるのだぞ。
 次こそは来ぬかもしれぬと、何時の時も、思うておるのだぞ。

 桜は散るものと説きながら、散らぬ桜を探しておる。

 人の世は、出会いから始まるのであろうか、別れから始まるのであろうか。
 どちらにしても、始まったのなら終わるまで。
 それは変えられぬ。
 いくら共に居たいと願ったとしてもな。

 ただおまえもそんな心持ちであってくれたら、などと思ってしまうよ。

 おまえと会う度に、嬉しいと思う。
 そして、哀しくもなる。
 なぁ、博雅。
 不思議なものよなぁ。
 おまえに出会わぬならこんな気持ちを知る事もなかったのにと思うのに。
 出会わぬ方が良かったなどとは、どうしても思えないのだよ。
 なぁ、博雅。
 今何を想って吹いておるのか。

 その心の片隅に、この晴明も居ってくれたならと、おれは思うよ。





 笛の音が空に消える。
 桜を揺らす風もそれと共に消え失せる。
 あの幻想の時は何だったのかと問いたい程に、庭は静まりかえる。
 晴明は閉じていた瞳を開けた。
 博雅は静かな呼吸を繰り返す。
 視線は合わないまま。
 けれどどうしてか、思う事は同じだと、晴明も博雅も感じていた。

「……良いものを聞かせてもろうた」

 ぽつりと呟いた晴明の言葉に、博雅は現世(うつしよ)に還ってきた事を安堵するように吐息を零し、笑みを見せた。

「気の向くまま吹いたからな、すっきりした」

 そしてまた、無言の時を共に過ぎる。
 晴明は盃に映る月を見て。
 博雅は揺れる桜を仰いで。
 静寂の時。
 このように近くに在りながら、言葉を交わさぬ状態を心地よいなどと思える相手が、どれ程居ようか。
 博雅は静けさに身を寄せながら思う。
 思いつく限り、この男だけ。
 言葉を介して、などというもどかしい表現で思う事を伝えずとも。
 其処に在るだけで、思う事を通じ合える。
 それでも言葉が不必要だなどとは思わない。
 言葉は力だと、教えてくれたこの男のお陰で。

「…晴明よ」
「何だ」
「笛を吹いている時にな」
「あぁ」
「おまえの事を、思ったよ」
「…そうか」
「うん」

 どのように、などと晴明は問わなかった。
 ただ少しだけ、博雅にも分かるように、目元を和らげた。
 それが博雅には嬉しい。
 許されていると、こんな時、思う。

「おれはな、晴明。桜を見ると、どうしてもこの世の事を考えてしまう」

 桜に限った事ではない。
 博雅は何かに触れるにつけ、人の事を、自然の事を、ありとあらゆる事象に思いを馳せる。
 そうして時たま晴明も驚く程に、それらの本質を見抜いてしまう。
 自分では一向にそうであると気付いていない。
 そんな博雅が何を想ったかを聞くのが、晴明は好きだった。

「今日も思ったよ。風に吹かれ散る桜を見て」
「人の事をか」
「いや」
「では何だ」
「ただ、晴明の事を」

 ふわりと笑む。
 それを晴明は見ない。
 見られなかった。

「花弁を散らす桜を見て、美しなと思った。そして、哀しいとも思った。けれど凄いなとも、思ったのだよ」

 風に吹かれ啼く桜の、なんと美しく、そして儚かった事か。
 まるで晴明のようだと思った。
 何時も飄々としていて掴み所がなく、それはまさしく風と言って差し支えない姿だけれども。
 けれど博雅は晴明を散る桜だと思った。
 風に乗り世界を往く桜だと。

「晴明は、此処に居るからな」

 風のように実体のない存在ではない。
 晴明は此処に居る。
 桜の花のように、ちゃんと見えるのだ。
 そしてその様を美しいと思うように博雅は晴明を美しいと思い。
 哀しいと、思う。

「今日の笛はな、だから題名を付けるとしたら、迷いなくおれは『晴明』と付けただろうさ」

 心からの言葉は、心に響く。
 それを知っているのかと、晴明は博雅に問いたくなる。
 博雅と居ると、何時もこうだ。
 不意に心を揺らすから、晴明はそんな時、何時だってどうして良いか分からなくなる。

「…さっきの曲に、おれの名を、か」
「あぁ」
「しかし博雅」
「何だ」
「気の向くままに吹いたのだろう」
「そうだが」
「と言う事はだ、もう覚えて居らぬのだろう、さっきの曲」
「むむ……」
「ふふん」
「い、いや、子細は違う事になるかも知らぬが、思い出せばきっと」

 だから何時も、博雅をからかって有耶無耶にしてしまうしか、晴明は方法を知らない。

「よい漢だな、博雅は」
「すまぬ…」
「気にするな。そう言ってくれただけで、嬉しかったよ」
「う、うむ」

 遺さずとも良い。
 思ってくれただけで十分だ。
 それに。

「おれとおまえだけが知っていれば、それで良いではないか」

 桜は散る。
 おれたちも何時かは同じように。
 それでもこの秘密は。
 散るその時まで残っておるだろうから。

「博雅」
「何だ」
「飲もう」
「そうだな」
「うむ」
「飲もう」
「飲もう」

 そういうことに、なった。





 桜は闇夜に白く浮き上がり

 時折思い出したように花を散らした。

 それを眺める一人と一人。

 温かい心は

 季節が、春だったからか。





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 20100124
〈耳を澄ませる。おまえの音色(こえ)を、そこに聞く。〉





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