千切れた赤い糸
[ 繋ぎ止めるは私の意地か貴方の愛か ]「さよなら、しよっか」
それは、息を吸うような気軽さで。
次は、ない
はー…、と息を吐けば温度差で白くなるような、そんな季節がやってきた。
出たくない出たくない、と思いながらものそのそとベッドから這い出て着替えをし朝食を食べ学校へと赴く。
コートに手袋、マフラーに耳あて。
完璧な防寒でもまだ寒い。
(何で人間は冬眠できないんだろう)
その原理は知っているが、しかし本当に出来ないものだろうか。
頑張れば出来るんじゃないか。
と寒さで真っ赤になった鼻を鳴らしてそれこそ真剣に考える。
その間に大学へ到着し、研究室へと足を運ぶ。
扉を潜れば、温かい空気が頬を撫でてほっと息を吐く。
もう大丈夫、と安心して順番に防寒具を脱いでいく過程で声をかけられた。
後ろを振り向けば、例の奴。
「相変わらず寒さに弱いね、ヒート」
まだ十一月だよ、と言うが、それが何だって言うんだ。
十一月でも寒けりゃ防寒して何が悪い。
と言いたいが、目の前のそいつは異常なくらい寒さに強いのだと言う事を思い出す。
今日もきっと見ているこっちが寒くなるような格好で大学に来たのだろう。
そんなこいつを俺は理解できないし、だからこそこいつも俺を理解できないだろう。
それは仕方ない事だ。
そう好意的に自身の中で考えを纏めていたら。
「ッ、な、なんだよ!」
突然頬に感じた冷たさ。
見れば其処にはそいつの手が宛がわれていて、吼えた俺を眺めながらそいつは何でもない事のように笑って言った。
「ん? ヒートが僕を置いて考え事してるから」
す…、と親指が頬の上を行き来する。
引っ掻くでもなく、ただ羽毛に撫でられているような感覚。
ぴくり、と反応した俺にそいつは目元を和らげて。
「ダメだよ。恋人が目の前に居るのに他の事考えちゃ」
それに何かを言おうと思い、けれどもう一方の頬にも手を宛がわれ、その冷たさにきゅっと目と唇を閉じて出来なかった。
その間に更に距離を縮められ、吐息と熱が耳へとかかる。
「僕が温めてあげようか」
くすくすと笑いを含んでいるのに、けれど気付いてしまった。
その声に、見過ごせない真剣さが漂う事に。
慌てて突き放そうと、目を開けようとするのを許さないように、そいつは頬を撫でていた指を唇へと移しそして。
「―――――」
ふざけんな、と言う暴言に似た抗議の声は唇を塞がれて喉の奥に消えていき、代わりに其処から漏れたのは、小さな小さな息と声。
別れを切り出そうと決意し、けれどその思いに逆らって言葉は出てきてはくれなくて。
何ヶ月も経った。
それでも、言えない。
捨てきれない。
何故だろう、なんて。
分かりきった事を分からないフリして考え続けて。
(それならいっそ割り切ってしまおうかと思ってしまう)
この別れられない関係を続けていこうかと。
さよならを封印してしまおうかと。
(そう言や、最近言ってねぇな)
またね、と言われて、何と返していただろう。
思い出せないほどに、適当に返していただろうか。
(……それで、良いだろうか)
良い事に、してしまおうか。
しつこいそいつに諦めてしまったんだと言い訳して。
もう、俺は。
(さよなら、なんて、――…言わなくても)
その言葉を最後に、唇が離された事を知った俺はそっとそっと目を開く。
眼前に、人形みたいに綺麗なそいつの顔。
見慣れる事の決してない冷たく完成された美の形。
溜息を吐く。
さっきの決心しかかった心が掌から砂のように抜け落ちていくを感じた。
触れ合った後、こいつの顔を目の前に、何時だって俺はこいつが余りにも自分とは掛け離れている事を自覚しない訳には行かない。
釣り合わない。
だからこいつの言葉は俺の心に届かない。
『好きだよ』
嘘だと、思ってしまう。
『好きだ、ヒート』
この形の良い唇から漏れる言葉、全部。
『好きで好きで、…愛してる』
そんな言葉は、特に。
(…困る)
別れようと思って、出来なくて、それでも良いかと考えて、でもやっぱり出来なくて。
まるでメビウスの輪だ。
終わりの見えない思考。
何時まで続ける…何時まで続く。
(自分から断ち切ってしまう事など、もうきっと出来ないのに)
泣きたくなる。
懸命に堪える。
それでも万が一を考えて、そんな自分を見られないように顔を背ける。
そうすれば。
「また、そんな顔をする」
一度離れた顔が、また近付いて。
けれど唇までは届かずに、微妙で絶妙な距離を保って停止した。
「また、余計な事考えてる」
何を、と問おうとした俺の胸に這わされたそいつの手。
冷たさが、服越しにも伝わるようだった。
「何…」
「痛いの?」
「え…?」
「痛いの、ヒート」
此処が、痛いんでしょう?
無表情な顔には何もない。
思考の片鱗すら伺えない。
微笑の欠片すら見えない。
今何を想うのか判らない。
それでも、あぁ…、と、堪えた涙が零れそう。
「ずっとずっと。今まで、ずっと」
知っていたのか。
お前は。
気付いてて、知らないフリをしてたんだな。
俺が、そうしていたように。
「この関係が、ヒートにとって傷になってるんだね」
何度もなぞった。
傷が見えているかのように、そいつは何度も。
労るような触り方。
治れと念じているかのように寄せられた眉間。
傷付いた顔で、何を想うの。
その問いの答えは、直ぐに、出た。
「―――さよなら、しよっか」
ぴたりと止まったそいつの手。
ひくりと止まった俺の呼吸。
あぁ心臓も止まったかもしれない。
時間も空気も風も空も。
止まってしまったかのように静かだ。
動いているものは、そう、そいつの口だけに、思えた。
「このまま続けても、ヒートが傷付くだけだよ」
冷静。
静か。
微笑に無情。
「もう見たくないよ。君が傷付いて溜め込んで泣きそうになる顔なんて」
こんな時まで、何時も通り。
「だから、ね」
こんな、時まで。
「僕達、別れた方が良いんじゃないかな」
(――――大嫌い)
唇を噛み締めて堪え切れるならそうしよう。
歯を食い縛って殺せるものなら。
手を握り締めて消せるものなら、手の皮を破ろうがそうしただろう。
けれどきっと、それは無理だから。
唇を噛み締める事なく歯を食い縛る事なく手を握り締める事なく、俺はただ其処に立っていた。
睨み付ける事すら叶わなかった。
だって視界が歪んで、あいつの薄蒼の瞳が何処にあるのか、分からなかったんだ。
堪えた涙が流れて、その熱を感じるので精一杯で。
どうしたら良いのか、何を言えば良いのか、全然、分からなくて。
(頷けば、全て終わる…終わって、しまう)
ねぇそれは。
「(いやだ)」
その言葉は多分、声を介しては伝わらなかった筈だ。
ただ唇が象った言葉の形。
それを、そいつは正確に読み取ったようで。
「―――嘘」
そんな言葉と共に、啄ばむようなキスが落とされる。
額に目尻に頬に唇に涙に。
その行為と言葉の意味が分からなくて、ぱちくりと瞬きを繰り返す俺に、そいつは。
「嘘だよ、ヒート。別れようなんて」
僕が君を手放すなんて有り得ないじゃないか。
そんな事を、言い出した。
「は…」
「まったく、こうでもしないと自分の気持ちに正直になれないなんて、君も困った子だね」
「ちょ…」
「君と僕は赤い糸で結ばれてるんだよ? 出会ったその時から、いや、生まれたその時からね」
理系の癖に何を意味の分からない事を言ってやがる。
そいつの言葉を聞いて行く度にどんどん思考がはっきりしてきた。
言葉の意味も理解した。
―――担がれた。
「さい、あく…ッ…」
それでも涙が止まらない。
怒りの所為なのか、悲しみの所為なのか、安堵の所為なのか。
ぐちゃぐちゃになった心と顔。
しょうがないな、と今度は優しく笑ったそいつの顔が近付くのが見えて、俺は慌てて突っ撥ねる。
ぐしぐしと涙を拭いながら距離をとった。
「も、もうお前との糸は切れてんだよ!」
だから近付くな、と喚く俺に、そいつは飄々として顔を崩さない。
そればかりか。
「何言ってんの」
簡単に距離を詰めてキスを仕掛けて。
「糸なんて結び直してしまえば良いだけでしょ?」
なんて、キスの合間に簡単に言い切って。
(な、んなんだ、こいつは…ッ!)
混乱する。
意味が分からない。
あぁ何で。
(何で、そんな目するんだよ…)
何時も通りの顔をしてるのに、瞳が揺れていた。
何かを想うように翳らせて。
縋るように、俺を見て。
唐突に、思った。
(お前も、不安だったのか?)
そんな素振りを一度だって見た事はない。
けれどなら、どうしてこんなにも俺を放さない。
俺を掴む手の力は嘗てないほど。
息継ぐ時間が足りないほどにしつこく唇を塞がれて。
まるで出口まで塞がれた気分。
(―――もう逃げられない)
その言葉は、ずしんと俺の心に甘く響いて。
「…次は、ねーからな…!」
暫くして離された唇からそう怒鳴れば、そいつの意地悪そうな笑み。
「君の泣き顔を見たくなったら別の言葉で泣かせてあげる」
だから大丈夫だよ、と。
全く大丈夫じゃない言葉を平然と吐くな、馬鹿。
(でも俺だって、次は、ない)
決めた。
漸く、決めた。
(もう俺は迷わねぇよ)
お前を心細くさせたりしない。
不安にさせない。
あんな目をさせない。
もう逃げないって。
(俺達は赤い糸で繋がってんだろ?)
一度千切れて括って直した赤い糸。
不恰好な、赤い糸。
それはきっと俺達の関係そのものだ。
それでも良い。
格好悪い恋愛をしようじゃないか。
だから、さ。
(なぁそれを、どうか俺に信じさせてよ)
さよならなんて、もう嘘でも言わないで。
「……サーフ」
「ん?」
「一緒に、住まねぇ…?」
俺ももう、言わないから。
20091123
〈待たせてごめん。待っててくれて、ありがとう。〉