懺悔

[ 僕等、と言うのも烏滸(おこ)がましい、僕と、君 ]



 ペンを放り出す。
 何時間ぶりだろう。
 手はもうペンの形を覚えていて、無理矢理広げれば拒むように軋んだ。
 足も同様。
 伸ばせば膝がパキリと音を奏でた。
 それでも構わず伸びをして、キィ、と椅子が鳴る程までに背もたれに身体を投げ出し天井を見上げて息を吐く。
 臓腑から吐き出すように、深く、深く。
 そっと目を閉じても、眠気はちらりとも訪れない。
 じんじんと頭が熱を持っているような気がする。
 流石にやりすぎただろうかと後悔して、それでも眠れないのなら寝ようと努力するのも馬鹿らしい。
 そうしてまた目を開けた。
 窓を見た。
 朝焼けが、綺麗だった。





 カツカツ、と靴音の響く廊下は何処か寒々としていて、それはきっと誰もが寝静まっているからだろうと考える。
 と、唐突にそんな時間に自分だけ起きているのが何故か楽しく思えて、渡り廊下の中腹で立ち止まり、ひっそりと笑った。
 誰も知らない、誰もが知り得ない時間をただ一人自分だけが知っている。
 この澄んだ空気を誰も知らない。
 ふと視線を戻せば様変わりする気分屋の朝の空も。
 もう二度と出会う事の出来ない、一瞬一瞬の、時間という見えず留められない不確かなものを、宝物のように眺めやる。

(いくら技術が進んでも、時間を留め置く方法を、まだ我々は知らない)

 今日の空は今日だけのもの。
 明日にはなく、未来にもなく、ましてや一瞬後にすら同じものはない。
 幾ら綺麗なものでも、何時か変わり果てて朽ちていく。

(ならばその最盛期で留め置く事が出来たなら)

 そう思って、けれどふと首を振る。

(……いや。そんな方法など、人間は知らなくて良い)

 今あるものは変わっていくのが道理だ。
 そうあるべきだ。
 何時か消えゆくとしても、それが自然の摂理。

(それすら可能になればきっと、人間は何時か破綻する)

 摂理が崩壊すれば、即ち其れは世界の破滅。
 だから知らなくて良い。
 移ろうのに身を任せれば良い。
 無理矢理それに逆らえば、竹篦(しっぺ)返しは必ず己の身に及ぶ。

(…神は、何処まで許すだろう)

 今の技術は〈技能(わざ)〉だけではなく〈能力〉の域まで達している。
 それはエクソシストを強化し、倒すべき悪魔を倒し、守るべき人間を守る事を可能にしている。
 けれどその分、禁忌も増えた。
 人間は些か、知りすぎたかも知れない。

(それは何時か――…)

「……何、してる」

 ピクリ。
 靄が取り払われるような感覚。
 思考の海に沈んでいた自分を掬い上げる声。

「…神田」

 其方へ向けば、任務帰りなのだろう、些か疲れた顔をして団服を無造作に肩に担いだ神田が、渡り廊下の向こうから歩いてくる所だった。
 それに伴い、見るともなしに見えてしまった胸のそれ。
 見ていられなくて、ふいと視線を逸らしてまた空を見た。
 その不自然さを取り除こうと、急いで言葉を紡ぐ。

「ただ休憩していただけだ。少し、煮詰まったものだから」

 それに返答はない。
 ただ凝視されている感覚だけはあって、だからその気まずさにそろそろ戻ると言い置いてその場を去ろうとした。
 神田が歩いてきた方向へ身体を向けて、神田の横を擦り抜ける。
 そのまま歩いて行けば、それで良かったのに。

「バク」

 名前を呼ばれただけ。
 ただそれだけで、足はそれ以上進まない。
 進めない。

「…どうした?」

 互いの距離は一歩。
 しかも背中合わせ。
 朝の空気が、肺に、染み込む。

「……いや、何もない」

 引き留めて悪かったと、そう言って神田はそのまま歩いて行った。
 そうかと言うように声に出さずに頷く事に成功して、その足音が消えていくまで聞いていた。
 足は相変わらず、止まったままだった。





 仕事場には戻らず、そのまま私室に帰りベッドに身を投げる。
 枕に顔を押し付けて、目をぎゅっと閉じた。
 眠気はさっきの会話で更に遠ざかり、その片鱗さえ窺えない。
 それでも無駄な努力をし続けた。
 眠ってしまいたかった。
 何も考えずに済む夢の中へ逃げ込みたかった。

(……神田)

 それでも心は正直で、ふと空気を吸う為に身体を弛緩した途端、心に溢れたその名前。
 ぎゅっと閉じていた目から涙が零れそうになる。
 だから一層枕に顔を埋めた。
 せめてその感覚をごまかせるようにと。

(あぁ、けれど)

 違うんだ。
 可哀想だと憐れんでいるのではない。
 何故彼がと嘆きたい訳ではない。
 その意味で涙が零れそうなのではない。

(技術がそれを許した。ただ、それだけの事だ…それだけの……)

 けれど思い出すのは胸の模様。
 烙印だ、あれは。
 禁忌の印。

「神田」

 声が出た。
 朝に溶けていく声。
 零れた、涙。

(神は何処まで許すのか)

 ―――否。

(神はもう、許してはくれない)





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 20100607
〈それでも世界は美しく、自分の醜さに膝を付き崩折(くずお)れる。その様は、神に許しを請う姿に似ている。〉





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