森の雫

[ 夏の林檎 ]



「―――連れてってやろうか?」

 言ったのは、森に迷い込んだ盗賊の子だった。

「……何、を」

 銀の髪を揺らし、睫毛を瞬かせた守人は、盗賊の子を見てその口元の薄情さと目元の真剣さのどちらを信じれば良いかを迷った。

(迷う…?)

 それは、信じようとしているからだと気付くのに時間はそう要らず、そんな自分に腹を立てて守人は盗賊の子から視線を引き剥がして去ろうとした。
 けれど。

「連れてってやるよ、何処までも。あんたが望むのなら」

 世界の果てだって見せてやるさ。

 その言葉は何処までも真摯で、背に受けながら盗賊の子の表情まで知れるよう。
 あぁそれにしたって〈世界の果て〉とは。
 守人にとって世界はこの森の中で完結している。
 世界の果てとはつまり、守人の中では森が果てる所を意味するだけ。
 森を抜ければ其処はもう、世界では在り得ない。
 その場所で息が出来るのかすら、手足が動かせるのかすら、守人は知らない。
 此処で生まれて此処で死ぬ。
 森によって森を守る為だけに産み落とされた守人は、森を守護出来なくなったその時に森によって殺される。
 それは誰に教えられた訳でもなく、守人の戒律として記憶に刻み込まれていた。
 そう言えば他の存在など自分以外に知らない。
 ただ森がさわさわと風に揺られ陽に照らされ、その声と言うべき音を聞き、それに包まれ心を傾けながら、一日ただ森の事を考えて過ごす。
 他の存在は自分を除けば森だけで、と言うよりも、森を除けば自分だけ、と言った方が正しいのだろう。
 そうして生きて来たから、何年も何年も、そうしてただ息をして来たから、その延長線上、そうしてただ死ぬだろうと。
 そんな自分の前に、あぁ現れてしまった、盗賊の子。

『よっ、別嬪さん。あんた、名前は何て言うんだ?』

 驚き怖がる守人を、そんな風には見せないまま、宥め心を開かせた盗賊の子。
 迷ったんだと言った彼はあっけらかんとした顔であったが、彼の尻尾が元気なく垂れ下がっているのを見た守人は、心細い中自分に気を使って元気に振る舞っているのだと気付き、そのいじらしさに優しく優しく微笑んだ。
 あ!、と声を上げた盗賊は、その声に吃驚してしまった守人の肩を掴み、尻尾まで元気に振って言ったものだ。

『笑った方が絶対良い!』

 そうして幾日かを共に過ごし、その中で知らない事を知り、教え、笑い、身を寄せてみたりもした。
 楽しくなかったと言えば、嘘になる。
 独りであった頃が寂しかったのだと知る程に、守人は二人で居る安寧さを知り、気付いてしまった。
 気付いてはいけなかったのに。

『―――あ』

 ある日空を見上げていた盗賊の子が、声を上げた。
 嬉しそうな声、嬉しそうな横顔。
 仲間の船が上空を飛んでいるのだと、盗賊の子は嬉しそうに言った。

『そうか』

 自分はその時笑えただろうか。
 ちゃんと彼と同じ様に、嬉しそうに笑えたのだろうか。
 あぁもしかしたら、失敗したのかもしれない。
 人を騙す事も、自分を偽る事も、今まで知らなかった守人だ。
 その成功率は、限りなく低かったのだろう。

『……なぁ』

 連れてってやろうか?
 少なくとも、盗賊の子が、そんな戯れを口にする程には。

「………馬鹿を言うな」

 守人は怒った様に言う。

「俺は此処から出られない。出るつもりもない」
「なんで分かるんだ? 出ようとした事、ないんだろう?」

 面倒だ、と守人は眉を顰めた。
 喋り過ぎた、余計な事を。
 あぁ本当に人を騙す事は面倒だな。
 盗賊の子は騙し騙されは日常茶飯事だと笑って言った。
 彼の世界はどうやら守人の世界よりも面妖に出来ていると思ったものだ。

「兎に角駄目だ」

 だからもう騙す事が面倒で、議論するのが嫌だったから。
 そう言い捨てて森の奥に引き返そうと歩を進める。
 止めたのは、自分よりも随分と小さな手。

「…なぁ」
「……何か?」
「行こうよ」
「…何処へ」
「此処以外の場所だよ」
「……俺は、此処以外の場所に行きたくない」
「嘘だ」
「何故…!」

 振り返る。
 激情のまま、俺の心なぞ知らぬ癖にと怒りに任せ。
 そう、すれば。

「――…あぁやっぱり」

 盗賊の子の声が安堵した様に和らいだ。

「やっぱりあんたは此処じゃない所に行きたいんだ」

 何故と問いたかった。
 でも声は出なかった。
 それで良いよと言う風に、盗賊の子は守人を宥める様に頬を撫でる。

「此処は寂しすぎるだろう?」

 馬鹿を言うな。
 森は優しい。
 森が包んでくれる。
 眠れぬ夜は葉を揺らして子守唄を歌い、寒ければ温めてくれる。
 優しいんだ、それを知らない癖に。
 森は優しい。

(―――でもならば何故)

 俺は、一人なのだろう。

「―――…っ」

 広大な森。
 一日歩いても果ては見えない。
 迷路のよう、メビウスの環か。
 そうして俺は、誰一人として他の守人に出会った事はない。

「…寂しいよ、此処は」

 盗賊の子の声が、また聞こえる。

「あんたが、そんな綺麗な涙を流すくらい、此処は寂しい場所なんだよ」

 盗賊の子の手が、濡れる。
 腕を雫が伝う。
 守人の。
 守人の琥珀の瞳から流れる涙に濡れていく。
 それを認めて、知って。
 守人は諦めた様に盗賊の子の手に縋った。
 頬を押し付けて泣いた。
 声を押し殺して泣いた。
 盗賊の子は、拒まない。

「だからさ、行こうぜ」
「……だめ」
「何故?」
「………森が、許さない」
「そりゃあ、大した問題じゃねぇよ」
「…?」

 守人が盗賊の子を見下ろせば、盗賊の子は不敵に笑って守人を見上げていた。
 不思議に首を傾げれば、子は気付かないかと笑って言う。

「俺は、盗賊だぜ?」

 だからさ、と盗賊の子は言う。
 その後は自分で考えろと口を噤む。
 自分で言えと守人に微笑み続ける。
 守人は呆れて、笑って、そして。

「俺を、盗んで」

 盗賊の子は、りょーかいっ!、と豪快に笑って守人の体を抱き締めた。





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 20101201
〈それは遠い遠い、どこかの森での物語。〉





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